玄侑宗久さんの「禅的生活」に意識を拡散したまま集中している状態として「うすらぼんやり見る」ことの奨めがでてきます。雪舟の描いた達磨さんの絵をみて、
眼があんなふうに面壁していると、それはすぐに眼そのものの疲労につながる。いきおい眼差しはぼんやりとして「見るともなく見ている」感じになってくる。半眼ではあるが目を開いて坐禅するのはそのためだ。
とあり、
見るともなく見ているとき、人は全体を見ているのであり、そのときの意識はすでに普段の理性的なあなたではない。
と書かれています。これは清水先生の「場所中心的自己」の視点であり、宮本武蔵の「観の目」で「うらやかに見るべし」と同じでしょう。
そして「うすらぼんやり見る」方法が紹介されています。
目の前に人差し指を立てた手を30センチくらい離して置き、はじめはその指をみる。
そして次にその指を含んだ景色全体を「うすらぼんやり」眺める。
そうすると指が2本に見えてくる。
その指の像は、向こう側の物を透かして半透明になっている。
試しにその状態を保ったまま、腹を立てよう、あるいは不安を感じようとしてみても、それは無理で感情に伴った身体状況が得られないから、感情は定着できない。
体はリラックスし、生命力は最大になる。
要約するとこのように書かれています。
この部分を読んで、松永さんが紹介していたフェーミ博士の研究でアルファー波の同期が起こるオープンフォーカスと同じだなと思いました。同時に3D画像の見方とも似ていると思いました。
美、芸術、自然神秘主義などに共通するスタンスのような気がしました。人の視線ではなく自分の眼差し、常に意識したいものです。