ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

2013-01-01から1年間の記事一覧

どれほどそれを受け流せるのか

最近わたくしごとに関するさまざまな物事が大きく動いているおかげで、外部の関係者とのあいだで葛藤が生じる。 思いも寄らぬ一撃であったり、思わぬ人からの不意打ちのような予期せぬ形でそれはやってくる。 このことをどう考えればいいのだろうか?と昨日…

人生の繰り出してくる問いに意味を見出しながら生きる

生きていく意味が分かりません、生きていく意味があるのでしょうか?と、もし尋ねられれば自分はどう答えるだろうか。 1ヶ月ほど前の研修をきっかけに、ぼんやりとそんなことを考えていたのですが、山田邦男氏の「フランクルとの〈対話〉苦境を生きる哲学」…

思考から莫大な量の意識を解放する

エックハルト・トールのいう5つのポータルとは、Now、Surrender「明け渡し」、Space、Silence、Inner Bodyであることは前に取り上げた。 5つのポータル - ウィルバー哲学に思う しかし、The Power of Nowをよく読んでみるとcessation of thinking「思考を停…

アイデンティティを強めようとする傾向に気づく

20歳代の後半だったように思う。自分はいったい何がしたいのか。何が生きがいなのか? どんな時に仕事にやりがいを感じるのだろうか?とよく考えたことがあった。 そのときの結論はかなり長い間、私の中で疑問視されることなくあった。 その時に得た結論は、…

すでにそうであることこそ破線ではなく、実線。

あらゆるモノやコトに内在する「無根拠性」にどのような姿勢で臨めばよいのか?ということを考えていました。 この「無根拠性」は、以前David Loyの著書から引用して「絶えまない欠乏の感覚(a sense of lack)をもたらすもの」 絶えまない欠乏の感覚(a sense …

複雑系としての空を理解し経験の質を変える

フランシスコ・ヴァレラの『身体化された心』が面白い。 現実は客観的事実として、われわれから分離、独立してそこにあるのではないことが色視覚の例を引いて記述されている。 英語圏では緑と青を識別するが、メキシコのある種族では緑と青を区別する言葉が…

自由が不自由を生じさせるという逆説

フランシスコ・ヴァレラの「身体化された心」(工作舎)を読んでいて、 そうか、自由が不自由を生んでいたのだ... と腑に落ちました。 フランシスコ・ヴァレラはミンゲールの著書にも出てくるので名前だけは知っていましたが、チリの生物学者で認知科学の…

観察者としての自己の成長

ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)を構成する6つの要素(注)のなかでは、「観察者としての自己」が最も重要なのではないかと思う。 「観察者としての自己」の視点が定着し成長するとどうなるのであろうか? ケン・ウィルバーの「存在する…

フローとマインドフルネス

このブログを読んでいただいている方からフロー状態とマインドフルネスな状態の違いについてコメント欄に質問がありました。ありがとうございます。興味深いテーマと思われましたので、以下に私の考えを書かせていただきます。 フローとマインドフルネスの違…

いま以上の何ものかになろうとしていないか

しばらく前から書き留めておきたいコンセプトがあって、それをどう表現しようかと思っていたところ、昨晩ヒュー・プレイサーの「わたしの知らないわたしへ」(中川吉晴、訳)の中から、「私は常にいま以上の何ものかになろうとしてきた」という一文を見つけ…

観察者としての自己による傾聴とヘルプ

ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)でいう『観察者としての自己』にとどまる(ウィルバーの表現では”Rest as the Witness”)ことが、ヘルプしようとする人の話を聴く姿勢としてもたいへん望ましいものである、ということがわかりました。 …