ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

深い夢見のない眠りの中に現前するもの

Subtle Energyが意思的な心と肉体的な身体の間のミッシング・リンク(失われた輪)であるのに対し、Causal Bodyとは何であったか?目撃者(Witness)との関係は?などを知りたくて、ILPのボディ・モジュールの章の最後に出てくるResting in the Causal Bodyという節を読みました。

以下いくつかの文章は次回取り上げたいIAM瞑想につながると思われますので抜粋させていただきます。(以下拙訳)

私たちが粗大そして微細なbodyによりくつろぐと同時に、そして内面的状態との疎通を統合すると同時に、何か特別なことが起こり始めます。―私たちは元因bodyにより深く安らぎ始め、すでに現前する気づき(ever-present awareness)にもっと根ざすようになります。これは深遠な移行であり、極度に微細なものでもあります。あなたは最初それを認識さえしていません。・・・元因体験は現実にはまったく一つの「体験」ではなく、むしろ何も起こらない状態なのです。この「何も無いこと(no-thing-ness)」は元因bodyの特質です。そしてそれは静寂であり、沈黙であり、瞑想的意識と深い夢見のない眠り、両方の空性なのです。

長期間(20年以上)の瞑想者が報告する体験の一つは、夢見そして深い眠りの状態を通して目撃している意識を維持する(maintain witnessing awareness)能力です。多くの人にとってこの世界は不可能のように思えます。しかしあなたは明晰な夢見の経験に精通しているかもしれません、そこではあなたは夢の中で目覚めています(あるいはあなたは夢を見ていることにはっきりと気づいています)、そして夢を操ることさえできます。もし、あなたが夢見のない深い眠りさえも通して同じ覚醒を拡張できたらどうなるでしょう?もしあなたが深い夢見のない眠りさえも通して覚醒した意識を涵養できたならどうなるでしょうか?その時どんなリアリティがベールを剥いで現れるのでしょうか?

最も高いスピリチュアルな悟りの段階は、元因bodyが、粗大そして微細bodyによって曇らされることが停止するとき、に始まります。

深い夢見のない眠りの中に現前しないものはリアルではない―ラマナ・マハリシ

上の引用はショッキングな状態です。なぜなら基本的に深い夢見のない状態には文字通り何もないからです。それがラマナのポイントです。究極的なリアリティあるいはスピリットは、ラマナが言ったのは、意識にひょいと入ってきて、それから出て行く何かであることはない、ということです。それは不変であり、恒久的で、あるいはもっと専門的に言えば、時間を超えた存在、時の流れの中ですべての場所に十分現前している何かです。それゆえ、究極的なリアリティは深い夢見のない眠りの中で十分現前せねばならないのであり、深い夢見のない眠りにおいて現前しないものはどんなものも究極的なリアリティではないのです。
 この根本的な状態は、深く困惑させる意味合いを持っています。禅の悟りのような経験(私たちはすべての存在と一つであったと感じる力強い状態)を、目覚めている状態で、したことのある人は、夢見、深い、夢見のない眠りを通して持続することが、彼らにとってどれほど深遠であるかが分かります。私たちが目覚めている状態で存在に対して注意していることの大半は、恒久的ではありません。私たちは毎日、目覚めた状態から出たり入ったりしているのです。しかしながら、何人かの偉大な聖人によると、私たちの中に常に意識している何かがある―それはすべての時間、すべての状態、目覚め、夢見、眠りを通して文字通り意識し、気づいている何かです。そしてそのすでに現前している意識(ever-present awareness)こそ、私たちの中のスピリットなのです。その底流に横たわる絶え間ない不変の意識の流れ(あるいは非二元の気づき)は、純粋なスピリットそのものの直接的で完全な(unbroken)光明(ray)です。それは神そして神性と私たちの連結部であり、まっすぐ源に行くパイプラインなのです。
 したがって、スピリットとの同一化の最も高い状態はこの不変の意識の流れに明け渡すことを含みます。目覚め、夢見、眠りすべての状態の変化を通してそれに従うのです。これは、私たちの身体、心、エゴ、あるいは魂のような状態などとの排他的な同一化の覆いを剥ぎ取るでしょう。そしてそれらの状態のすべてを通して、私たちが、不変の(constant)―あるいは超時間的な(timeless)―名づけるなら、あるがままの意識(consciousness as such)を認識し、同一化するのを許すでしょう。それのもう一つの名称は、永遠のスピリット(timeless Spirit)です。
 そのとき、すべての体験の真ん中で覚醒(wakefulness)が、昼も夜も、持続します。身体と心が目覚め、夢見、眠りを通過(経験)しているにもかかわらず、続くのです。その覚醒は変化の真ん中にあって不動です。動かされる主体などないのです。揺るぎない空の意識(unwavering empty consciousness)、照らし出す鏡の心(luminous mirror-mind)、目撃されたすべてのものと一つであるところの目撃者(Witness that is one with everything witnessed)、だけがあるのです。(抜粋ここまで)

ついに出てきました。ラマナ・マハリシ。ウィルバーはたしかワンテイストの中でもこのラマナの表現に出会ったときはショッキングだったと書いていました。彼はそれを体験するのに20数年かかった、とも。エックハルト・トーレは、大変困難で、まず無理である、というようなことを書いていたと思います。
しかしこのあたりの表現はいいですね。subtleエネルギーが心と身体のミッシングリングなら、causal ボディは神性とのパイプラインなのだということです。
「底流に横たわる絶え間ない不変の意識の流れ」「身体、心、エゴ、あるいは魂のような状態などとの排他的な同一化の覆いを剥ぎ取る」というような表現は非常にイメージしやすいです。(逆説的ですが)


変化の真ん中にあって不動である覚醒は、ジョギングしていても静止している目撃者であり、スクリーンを観ている観客のように世界を観照する目撃者です。


Resting in the Causal Bodyとはrest as the Witnessと同意でした。luminous mirror-mindとはまさに錬金術アルケミストであり、大円鏡智へとつながる境地でしょう。そして究極の目撃者とはWitness that is one with everything witnessedという主客合一、本来面目としての目撃者なのです。