ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

ぶつかりあう美学

昨日ちょっとしたことがあって、久しぶり(?)に感情的になった。

この葛藤は以前にも経験したことがある葛藤だ。

しかしどうも整理ができないままに眠りについたのだが、先ほど目覚めてみて頭に浮かんだのは、あれは「美学のぶつかりあい」が起こっていたのだ、という洞察だ。

美学のぶつかりあい。

ぶつかりあう美学。

美学は、それぞれ、その人の美学であるが故にぶつかりあう。

たとえば、私は、「動機を重んじる」という美学をもっている。私はコミュニオンよりはエージェンシーの強い傾向があり、自分の動機のためには自分でその動機を満たそうとする、それがタイプ8(エニアグラム)の私にとっての善だ。

一方、エージェンシーよりはコミュニオンを尊重するタイプがある。これはどちらかというと女性的だ。たとえば「相手に寄り添い共感する」という美徳をもつ、タイプ2だ。人に寄り添って共感したのであれば、その人の代わりにでも行動することがタイプ2にとっての善だ。

タイプ8にとって、自分の動機ではないことを、自分の動機のように行動することは自己欺瞞である。

タイプ2にとって、共感したにもかかわらず、行動をともなわない人は偽善者だ。

美学として自己欺瞞したくない小さな自己と、自分の美学の視点から見ると偽善に映る行為を許せない相手の小さな自己がぶつかりあう。

そのような「美学のぶつかりあい」が昨日、生じていた。

その発端も、異なるタイプの「美学とのぶつかりあい」だ。


美学は美学であるが故に些細なことでもぶつかりあう。

そこに「誇り」があるからだ。

小さな自己は、人生をこれまで乗り切ってきた自分のスタイルに誇りをもっている。

自分が同一化しているその「誇り」を、「埃」として見なされることで葛藤が生じる。

この葛藤を解消するにはどうすればよいだろうか?

じつはおそらくすでに葛藤は解消している。

「美学がぶつかりあったのだ」という解釈によって、「これは譲れない」という小さな自己との脱同一化がなされた。

しかしこの哀れな小さな自己どもは、また時には姿形を変えて、異なる美学のぶつかりあいを演じるのだろう。

自分の「誇り」など、まさに「埃」にすぎなかったと分かるその日まで。