前回のブログで
わたしたちは、記憶や言葉のおかげで現在の直接経験だけではない、過去の経験、未来の経験を、私の経験だけではない、あなたの経験、彼の経験を生きてしまっているのだ。
と書いた。しかしこの表現はやや混乱していることに気づいた
直接経験は、対象化されたフィルム上の一コマではなく、現に見えているスクリーン上の映像に相当する。つまり、直接経験は、私の経験・あなたの経験・彼の経験のうちの一つとしての「私の経験」ではなく、二人称・三人称と対比しえない「私の経験」である。あるいは、直接経験は、過去の経験、・現在の経験・未来の経験のうちの一つとしての「現在の経験」ではなく、「絶対的な現在の経験」である。つまり、直接経験とは、〈それがすべてであり、それしかないような〉経験のことであり…
という入不二さんの解説を十分咀嚼していなかった。
すなわち私の書いた表現では、直接経験をまさに「私の経験・あなたの経験・彼の経験のうちの一つとしての私の経験」「過去の経験、・現在の経験・未来の経験のうちの一つとしての現在の経験」として捉えているかのように記述してしまっていた。
そこで次のような比喩を考えた。
スクリーンの上の映像に、記憶としての過去の経験、あるいは予期としての未来の経験が映し出されているのである。
スクリーンの上の映像に、あなたの経験のイメージ、あるいは彼の経験のイメージが映し出されているのである。
スクリーン上の映像とは、直接経験であって、二人称・三人称と対比しえない「私の経験」であり、「絶対的な現在の経験」である。
記憶としての過去の経験、予期としての未来の経験、あなたの経験のイメージ、彼の経験のイメージも直接経験としてスクリーン上の映像として映し出されているのだが、(このスクリーンは見えないため)私たちはそのスクリーンのことを忘れてしまっているのだ。
前々回のブログで
〈私〉と〈今〉とは同じものの別の名
という永井均さんの言葉を取り上げさせていただいた。それは開闢(かいびゃく)であった。
この開闢こそ、このスクリーンなのだと思う。
過去、未来、あなた、彼、彼女、そして小さな私は、「〈私〉/〈今〉というスクリーン」に映し出された一つの映像なのである。