ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

スクリーンに映った過去、未来、あなた、彼

前回のブログで


わたしたちは、記憶や言葉のおかげで現在の直接経験だけではない、過去の経験、未来の経験を、私の経験だけではない、あなたの経験、彼の経験を生きてしまっているのだ。

と書いた。しかしこの表現はやや混乱していることに気づいた

直接経験は、対象化されたフィルム上の一コマではなく、現に見えているスクリーン上の映像に相当する。つまり、直接経験は、私の経験・あなたの経験・彼の経験のうちの一つとしての「私の経験」ではなく、二人称・三人称と対比しえない「私の経験」である。あるいは、直接経験は、過去の経験、・現在の経験・未来の経験のうちの一つとしての「現在の経験」ではなく、「絶対的な現在の経験」である。つまり、直接経験とは、〈それがすべてであり、それしかないような〉経験のことであり…


という入不二さんの解説を十分咀嚼していなかった。

すなわち私の書いた表現では、直接経験をまさに「私の経験・あなたの経験・彼の経験のうちの一つとしての私の経験」「過去の経験、・現在の経験・未来の経験のうちの一つとしての現在の経験」として捉えているかのように記述してしまっていた。

そこで次のような比喩を考えた。

スクリーンの上の映像に、記憶としての過去の経験、あるいは予期としての未来の経験が映し出されているのである。

スクリーンの上の映像に、あなたの経験のイメージ、あるいは彼の経験のイメージが映し出されているのである。

スクリーン上の映像とは、直接経験であって、二人称・三人称と対比しえない「私の経験」であり、「絶対的な現在の経験」である。

記憶としての過去の経験、予期としての未来の経験、あなたの経験のイメージ、彼の経験のイメージも直接経験としてスクリーン上の映像として映し出されているのだが、(このスクリーンは見えないため)私たちはそのスクリーンのことを忘れてしまっているのだ。

前々回のブログで

〈私〉と〈今〉とは同じものの別の名

という永井均さんの言葉を取り上げさせていただいた。それは開闢(かいびゃく)であった。

この開闢こそ、このスクリーンなのだと思う。

過去、未来、あなた、彼、彼女、そして小さな私は、「〈私〉/〈今〉というスクリーン」に映し出された一つの映像なのである。