ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

統合的な倫理 その1

ウィルバーを読み始めて、そして特にこのIntegral Life Practiceを読み始めてから人生の謎がどんどん解かれていく感じがしています。一昨日から昨日にかけて自分に起こったことと、第8章の「Integral Ethics統合的な倫理」を訳しはじめたことが相まって、また一つ大きな人生の謎が解けました。Moralityの慣習的段階などはとっくの昔に卒業したと思っていましたが、ひとつ大きなフックが掛かっていました。責任感というオレンジの仮面をかぶったアンバーのフックでした。以下、第8章の冒頭部分を少々紹介させていただきます。(以下、拙訳)

どんな礼儀正しい倫理にも合う、統合的倫理とは、良い人であることの技です。それは私たちの毎日の生活における善良さの実践であり、基本的な整合性を構成する、誠実な、信頼のおける、思いやりのある、勇気のある人、であることのすべての方法を含みます。統合的な倫理はまた、私たちが困難で複雑な選択をしたり、何が正しく何が間違っているのかについての微妙な判断や、受け入れられるか、受け入れられないか、そしてしばしば、避けがたく曖昧な判断、をしたりする場合の私たちの人生の次元にも関係します。それは、私たちが、政治的、性的、健康面、人間関係、仕事面、お金の面、そして時々は生と死の状況において、道徳的ジレンマに立ち向かわねばならないところです。・・・それは、私たちがどう生きるかについて考え、できうる最善の倫理的決断をするための枠組みを提供します。それはまた、象限、レベル、ライン、状態、タイプというよく馴染んだAQALの区分を使うことで人々の倫理的構造の相違の意味を理解します。・・・

 しかし、倫理というと、退屈で、息苦しく、耐え難いものなのでは?

ある一つのレベルでは「イエス」です。「道徳的価値観」と「倫理」は、とても面白いというものではありません。結局、それらは「汝はすべし」「汝、すべからず」という伝統的な命令への服従を強要するためのもっともらしい専門用語なのです。これをする。あれをしない―とりわけ、規則に従うことです。倫理は子供じみた服従を求めるように見えます。しかしこれは、単に倫理の慣習的レベルなのです。私たちは発達するとともに、倫理はまもなく先入的な規則に従うのではなく、むしろより高い、より知性的な、より活性化しうるものに適応するようになります。
 意識の統合的レベルでは、倫理はもはや、良いあるいは悪い少年あるいは少女だ、という恐れに基づいた非知性的な自分本位ではありません。
 道徳性は、親の命令に子供っぽく服従するような感覚を停止し、その代わりに、意識的な自由の創造的な表明、覚醒された自己利益(にもかかわらず自己を超えて見える)の自然な表現となります。
 もちろん、慣習的な道徳性は良いこととなりうるし、特に、自己中心的意識から自民族中心的意識への移行においては重要です。私、私、私のためだけの関心から、私の家族、民族、国家といいたような、より大きな集団のための思いやりと関心へと移行する段階では重要なのです。
 しかし、快楽主義と伝統的な倫理を超えた、ポスト慣習的な倫理の形態があります。世界中心的、多世界中心的、Kosmos中心的な段階を含んだ倫理の形態です。(拙訳ここまで)

ここまでを読んでいる中で、無意識のうちに親や親戚に刷り込まれたアンバーの価値観、特に慣習的な道徳観念に気づきました。

これは良いこと、それは悪いこと・・・。まるで映画20世紀少年の「僕はいいもん?わるもん?」のようです。ウィルバーが社会ホロンの特徴を説明した6人のポーカーの例を思い出しました。

オレンジ4人、アンバー2人ならグループの支配的言説はオレンジだが、オレンジの2人が抜けて、新たなアンバー2人が入ると、アンバーが4人、オレンジが2人となりグループの支配的言説はアンバーとなります(なんだか郵政見直ししようとしている民主党みたいですが・・・)。支配的言説がオレンジなら問題視されなかったポスト慣習的な価値観も、アンバーが支配的言説となったグループにおいては批判されることになります。

しかも、アンバーのレベルからはポスト慣習的な価値観は理解できないため、非慣習的な価値観はすべて前慣習的な価値観として非難されるのです。ポスト慣習的価値観なのに、何という屈辱、オーマイゴッド!とんだ、The Pre/Trans Fallacy(前・超の錯誤)です。
 しかし、そんなアンバーをうらむのはオレンジだからでもあります。ウィルバーは書いています。「新しく4人のターコイズの男たちが加わる。支配的な言説はターコイズとなる。ターコイズはいかなる価値観も無視しないし、周縁化もしない」と。
 「あ〜早く人間になりたい」という妖怪人間の叫びのように、「あ〜はやくターコイズになりたい」というのが今の心境です。今日は20世紀少年から心は万博、昭和40年代へと行ってしまったようです。大変失礼しました。