ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

条件づけの要因、「嫌悪」を「哀れみ」へとシフトする

今朝、目が覚めて頭に浮かんだことは「怒りを哀れみに変えたらよい」という考えでした。

このことはミンゲールの本を読みはじめてから、折に触れ思うようになっていたことではありましたが、昨晩眠る前にティクナットハンの「禅的な生活のすすめ」を読んでいて、「哀れみをもって話し、聞く」というセンテンスが印象に残っていたためです。

「哀れみ」という単語も、英語では「慈悲」と同じcompassionなのだろうな、ミンゲールの「今ここに生きる」では、「哀れみ」という言葉は使われてなかったな、などと思いながら寝たのでした。

そのことがあって、自分ではあまり使ってこなかった「哀れみ」が浮上したのです。

「怒りではなく慈悲をもって接しよう」などといっても自分では実感がもてないのですが、相手を、「怒るのではなく、哀れもう」なら、実感がもてそうな気がしました。いやそれだけでなく昔、よく上司が言っていた言葉のひとつであったことも思い出しました。

そしてパラパラとミンゲールをめくっていて、「条件づけの要因」というところで目が止まりました。

「条件づけの要因」、英語ではconditioning factorsです。このconditionという単語はよくでてくる単語ですが、意外と訳すのが難しいというか日本語でピタッとくるのがないなといつも感じる言葉なのですが、今回もやや分かりにくいこの「条件づけの要因」という言葉に、実は多くのヒントがあることを発見しました。

それは「今、ここを生きる」の第8章「なぜ私たちは不幸なのか」のなかの一節として取り上げられています。

最初に読んだときに、あるがままの認識→1本目の矢、条件づけの要因→2本目の矢、と自分でメモを残していたページ(p150)です。

抜粋します。

ブッダの説いた主観的な方法でも、現代科学の客観的な方法でも、どちらで観察しても、いわゆる心とは常に変化する二つの基本的な事柄の衝突として現れるようです。二つの事柄とはすなわち「あるがままの認識」(起こっていることに対する単純な気づき)と、「条件づけの諸要因」(感知したものを表わすだけでなく、それに対する反応も決定する過程)です。言い換えれば、すべての心の活動は、あるがままに知覚することと、長期にわたって神経細胞どうしが結び合うことという二つの活動が一緒になることで発展するのです。
 私の師サリジェイ・リンポチェが何度も繰り返し強調したのは、もし幸福になりたいのであれば、強迫観念や性向に根ざした反応を生み出す「条件づけの要因」を認識し、それをうまく扱うことだ、という教えでした。師の教えを要約しますと、物事をあるがままに、思い込みなしに見る私たちの目を曇らせる限り、どのような要因も強迫観念的なものと理解すべきだ、ということです。たとえば誰かが私たちに向かって何かわめいているとします。「この人は大声でしかじかのことを言っている」というあるがままの認識と、「こいつはいやなやつだ」という感情的な反応とを私たちはふつう分けないで、「こいつ、私に怒鳴っていて、いやなやつだ」という具合に二つを結びつけてしまます。(抜粋ここまで)



そして次の節(心の苦しみ「煩悩」)に3つの「条件づけの要因」があげられています。

その3つとは「無知」「執着」「嫌悪」です。

「執着」とは、前回のブログで書いたような「外的な物質や経験への強迫的な依存」(p155)のことです。

「嫌悪」とは、「執着」しているものを失うことの「恐怖」が引き起こす抵抗です。「心的に構成された『自己』の独立性を脅かすと感じるものに対して、無意識的に多大なエネルギーを費やして、それを守ろうとするのです。」(p158)

「無知」とは、この「執着」や「嫌悪」の根底に完全になりたいという衝動があって、それを与えてくれそうな快いものに執着し、それを奪っていきそうな不快なものを嫌悪するというメカニズムを理解しない無知(すなわちアートマンプロジェクトに対する無知といってもよいかもしれません)です。

P152に「無知」についてこう書かれています。

「自己と他者を区別することになれるに従い、・・・自己とその他の世界、つまり外側との間に概念的な境界線をひいてしまいます。外側はあまりに広大に見えますので、いきおい自分は卑小な限界のある傷つきやすい存在に思えて仕方ありません。そして他の人々や物質的対象などに幸福や不幸の源泉を求めるようになります。幸福になるためには、そのために必要なものを誰か別の人よりも自分が先に獲得せねばならず、こうして人生は闘争(struggle)と化してしまいます。こうした闘争のことを、サンスクリット語で『サンサーラ』といいこれは文字通り車輪とか円という意味です。特にこの言葉は不幸の円環を表わしており、それは同じ経験を追って、毎日違う結果をもとめつつ、円をえがくように回ってしまうことです。自分の尻尾を追いけかる犬を見ればサンサーラの本質が分かります」



そして、「感情的なレベルでは『嫌悪』は『怒り』や『憎悪』を引き起こします。」(p159)とあります。

ここまで再読し、自分の問題点が立体的な構造となって、ストンと腑に落ちました。

私には「条件づけられた要因」として「嫌悪」が根付いていました。それが怒りを引き起こしていたのです。

それが「性向」(p148)として形成されていました。それはとりもなおさずエニアグラムのタイプ8でした。

この「嫌悪」は「条件づけの要因」として強く私の神経回路を形成してしまっており、折に触れ怒りとして顔を出していたのです。


そしてこの問題点の構造が理解できた今、ではどうすればいいか?

それが直観的に、朝の目覚めのとき頭に浮かんだ「哀れみ」へと変換する、ということです。

「人々の間の争いは、たいていお互いの動機を誤解することに発します。(p139)・・・一切衆生が私たちと同じであり、安らぎを願い、苦しみから逃れたいと願っているのだ、と認めたとき、私たちは、誰かほかの人が自分の考えとは違う行動をしたときに、『ああ、この人たちもまた幸せになりたい、苦しみから逃れたいと思って、こう行動しているのだ。わたしをやっつけようとしてそうしているのではなく、ただ、そう行動する必要があると思って、そうしているのだ』と理解することができます。」(p142)



う~ん、なるほど。これで行こう。ひょっとすると生類憐みの令を出した5代将軍綱吉は偉い人だったのかも・・・(笑)。