ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

エネルゲイア、それは「生命の躍動」を感じて生きること

岸見一郎氏の「嫌われる勇気」を読んで、終盤に出てくる「エネルゲイア」という言葉に注目しました。

このブログに書いている、「今ここ」「プレゼンスの持続」「マインドフルネス」「道」などとの共通性を感じましたが、今回は「生命(いのち)の躍動」との関連でエネルゲイアを考えてみたいと思います。

まず北海道情報大学の三浦洋教授はエネルゲイアについてこう書いています。


アリストテレスは『形而上学』で様々な行為を「エネルゲイア(活動)」と「キーネーシス(運動)」に区別している。「エネルゲイア」とは、現在進行と完了が同時に成立する行為であり、「見る」がその典型例である(「見ている」と同時に「見てしまった」といえる)。他方「キーネーシス」とは、一定の目的に向かう末完了的な過程を持つ行為であり、現在進行と完了が同時には成立しない。その典型例は「建築」である(「建築している」と同時に「建築してしまった」ということはない)。

進行と完了が同時に成立する行為、例えば「見る」という行為がそれにあたるといいます。

岸見一郎氏は、「嫌われる勇気」の中でこう説明しています。(以下引用)

P266

たとえばバイオリニストになることを夢見た人は、いつも目の前の楽曲だけを見て、この一曲、この一小節、この一音だけに集中していたのではないでしょうか。・・・

こう考えてください。人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那なのです。そしてふと周りを見渡したときに「こんなところまで来ていたのか」と気づかされる。

P267

ダンスにおいては、踊ることそれ自体が目的であって、ダンスによってどこかに到達しようとはだれも思わないでしょう。・・・

あなたのおっしゃる、目的地に到達せんとする人生は「キーネーシス的(動的)な人生」ということができます。それに対して、わたしの語るダンスを踊るような人生は「エネルゲイア的(現実活動的)な人生」といえるでしょう。

アリストテレスによる説明を引きましょう。一般的な運動―これをキーネーシスといいます―には、始点と終点がある。その始点から終点までの運動は、できるだけ効率的かつ速やかに達成されることが望ましい。・・・

そして目的地にたどり着くまでの道のりは、目的に到達していないという意味において不完全である。それがキーネーシス的な人生です。

一方、エネルゲイアとは「いまなしつつある」ことが、そのまま「なしてしまった」ことであるような動きです。

別の言葉でいうなら「過程そのものを、結果と見なすような動き」と考えてもいいでしょう。ダンスを踊ることもそうですし、旅などもそうです。(引用ここまで)

 

 

この部分を読んで、エネルゲイア的な生き方とは、まさに3月にある報告にまとめた「生命(いのち)の躍動」を感じて生きること、なのではないかとの思いが強まりました。

3月2日のブログで「内なる躍動」のことを書きましたが、これは「生命(いのち)の躍動」と私が呼んでいるもので、この感覚をもっともよく表現しているのは藤城清治さんが『光は歌い影は踊る』で書かれた次の部分です。

91歳の影絵作家、藤城清治さんが影絵を切る時の心境を次のように語っておられます。

(以下引用)

木は生命の象徴といってもいいでしょう。・・・

その美しい木の葉を一枚一枚切り抜いていく。これが影絵制作の真骨頂です。・・・

文字通り一枚一枚の葉を根気よく、ごまかすことなく切り抜いていく。木の葉を一枚切るごとに喜びが増し、美しさが大きくなっていきます。切り始めたら、やめられなくなってしまう楽しさです。

よく人に「細かい木の葉をきるのは大変でしょう」といわれるけれど、僕は木の葉をきるのがうれしくてしょうがないのです。

 一見、同じように見える木の葉もみんな形がそれぞれ微妙に違っています。同じ種類の木の葉でも、一枚として同じ形はありません。自然のもつ奥深い、不思議な魅力を感じて驚いてしまいます。僕も一枚一枚、あっち向いてこっち向いて木の葉の形や波と葉の間の形を考えながら切って行くのがとても楽しい。それに、リズムにのって楽しく切らないと、木の葉も躍動してくれません。

また、切っていく上で大切なのは自分の呼吸です。自分の息づかい、リズム、それがうまくからみ合って、大自然の神秘に挑戦していけるのです。切っていくうちに神経が集中し、研ぎ澄まされていきます。気がつくと、祈りのような思いがこめられています。

 特に木の葉をきるときは、片刃のカミソリの刃でないと葉っぱが生きてきません。カミソリの刃だと、人差し指の先が刃物になったように思えて、自由自在にひねったり、力の強弱をつけたりして、自分の息づかいを感じているような切り方ができるからです。カッターでは、なかなかそういう感じにはなりません。

僕は木の葉を切るとき、いちばんの喜びと幸せを感じます。・・・

深夜や明け方まで夢中で切っていて、僕は自分で折ったカミソリの刃の屑の上に座って、傷つくのも知らずにのめり込んでいることもしばしばです。・・・

一本の木を見た僕たちが、そのいのちを表現するには、その木をじっと観察して、そこから様々なものを感じなければ描いたり切ったりできないと思うのです。(引用ここまで)

 

 

藤城さんは、木の葉に生命の躍動を見て、その躍動に自分自身の内なる躍動を共振させているのだと思います。そして無心に影絵を切っているのでしょう。

「深夜や明け方まで夢中で切っていて、僕は自分で折ったカミソリの刃の屑の上に座って、傷つくのも知らずにのめり込んでいることもしばしばです」という藤城氏の表現は、「ふと周りを見渡したときに、こんなところまで来ていたのかと気づかされる」という岸見氏の表現と重なります。

作品が完成してはじめて意味があるというよりも、創作の過程に、生命の躍動、よろこびの感覚が内在しています。

これはダンスの過程に、生命の躍動、よろこびの感覚が内在している、のと同じことではないでしょうか。

エネルゲイアの「いまなしつつある」ことが、そのまま「なしてしまった」ことであるような動きとは、この影絵を切るときの藤城さんのような境地のことでしょう。

プロセスに目的が内在するような、そんな動き。

エネルゲイアとは、ある意味、生命の躍動を感じて生きることなのだと思います。

 

(過去の参考ブログ)

2011/12/08

そのこと自体に喜びを伴っているか? - ウィルバー哲学に思う

2014/4/12

灰色の男たちの罠から抜け出し、ゆっくり動こう - ウィルバー哲学に思う

 

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微かだが大切な、内なる躍動

朝から、長引く風邪に体調もすぐれず、諸事あまり良いとは言えない状況にあって、気分もやや落ち込んでいた。

年末年始に掴みかけていたあのビジョン、意欲、情熱は、もはやいずこに過ぎ去ったかと思われた。

しかし・・・、おっと、そうであった。

こういう時こそ真価の見せ処なのだ、と思い出した。

そう、こういう時こそ真価の見せ処なのだ。

状況に、持っていかれていた。

状況に、振り回されていた。

体調も、ここでいうその状況のひとつである。

状況が、快いものを持ってきてくれるように漠然と思っていたのではないか。

無意識に。

私は自分の意識の持ち方に、意識を馳せるのを失念していた。

自分の「意識の野」に生起するものを、注意深く見守ることを怠っていた。

私は、NPOの子どもたちがどうなれば良いのかを考えていたはずであったが、自分がどうであればよいのかを失念してそのことを実現できるはずもなかった。

こういう時こそ、やがて後にも記憶の残るような真価の見せ処なのだ。

ふりかえった時に、そうそうそれでよい、と思える切り換えの瞬間、それが今なのだ。


今この瞬間の状態を整えよう。

状況はコントロールできずとも状態はコントロールできる。

意識をどこに向けるかは選択できるのだ。

意識を向けるべきところに向ける時、明晰性が戻ってくる。

明晰性が連れてきてくれるのは、微かな内なる躍動だ。

微かだが大切な、内なる躍動…。

それはいつもここにある。

『寛容論』を実践する、すなわち脱ペインボディ。

昨年1月のパリのテロの後、フランスの思想家ヴォルテール(1694-1778)の著書である『寛容論』が10万部のベストセラーになったといいます。
今月の2日に放送された『100分de平和論』で作家の高橋源一郎さんが取り上げた名著です。


トゥールーズプロテスタントの一家で起こった長男の自殺事件が、その父親が犯人だという冤罪を着せられ拷問の上死刑に処せられたという実際の事件をもとに書かれました。

この事件はカソリック側によるプロテスタントへの宗教的弾圧だ!とヴォルテールは確信し、この本を書いたのだと高橋さんは言います。

寛容論の中では、宗教的不寛容に対しての批判が強く書かれている、そして彼は人間の理性を信じる理神論を唱えたと解説されていました。

それぞれの宗教が掲げる神ではなく、その神を超えた存在に意識を馳せ、

われわれはみんな同じ父を持つ子供たち、同じ神の被造物ではなかろうか、

という視点にたどり着いてほしいとヴォルテールは願った。「わが宗教こそ」と考えるのは狂信であって、そうした「狂信を打ち破るのは人間の理性である」という立場、それがヴォルテールの唱えた理神論だと言います。

普遍的な原理のひとつは「自分にして欲しくないことは、自分もしてはならない」ということである、という言葉が取り上げられた後で、

2015年11月13日130人の被害者を出したパリ同時テロ。そのテロで妻を失ったアントワーヌ・レリスさんがファイスブックに上げたという言葉に、私は釘付けになりました。(以下引用)

『君たちは僕の憎しみを手に入れることはできない』

僕は君らに憎悪という贈り物はしない。
君らはそれを望んでいるのだろうけれど、
憎悪に怒りを返すことは、
君らを作り上げたのと同じ無知に屈服することに等しい。

君らは僕に恐怖を抱いてほしいだろう、
僕の周りの人々に警戒の目を向けてほしいだろう、
僕に安全と引き換えに自由を失ってほしいだろう。

だが君らの負けだ。
僕は変わらずに生き続ける。


これは寛容論そのものだ、と高橋さんは言います。

憎しみに対し憎しみで返すことはしない、これがひとつ、そして

無知に屈することはしない、(憎しみに対して憎しみで返すことは憎しみの連鎖が続くだけである、そのことが分かっていない無知)これがひとつである(高橋さん)。

ロンドンでテロが起こった時に、ロンドン市長がこれと同じようなことを言ったと斉藤環さん※がコメントしました。

日本の政治家でこれを言える政治家はいない、国民も共同体感情に負けてしまうのではないか、という斉藤さんのコメントが印象に残ります。

寛容論の最後で「ヴォルテールは神に祈りをささげています」と、映像とともに紹介された言葉、素晴らしかったです。(以下、引用)

私が訴えるのは
もはや人類に対してではなく、
それはあらゆる存在、あらゆる世界、
あらゆる時代の神であられる
あなたに向かってである。

なにとぞ、われわれの本性と
切り離しえない過ちの数々を
あわれみを持って
ごらんくださいますよう。

これらの過ちが
われわれの難儀のもとに
なりませぬよう。

あなたはお互いに憎み合えとて、心を、
またお互いに殺し合えとて、手を
われわれにお授けになったのでは
ございません。

苦しい、つかの間の人生の重荷に
耐えられるように、
われわれがお互い同士
助け合うようお計らいください。

すべて滑稽なわれわれの慣習、
それぞれ不備なわれわれの法律、
それぞれがばかげているわれわれの見解、

われわれの目には
違いがあるように思えても
あなたの目から見れば
なんら変わるところない
われわれ各人の状態、

それらのあいだにある
ささやかな相違が、
また「人間」と呼ばれる
微小な存在に区別をつけている
こうした一切の
ささやかな微妙な差が、

憎悪と迫害の口火にならぬよう
お計らいください。

すべて人は兄弟であるのを
みんなが思い出さんことを。

この番組を見終えて、しばらくして・・・。

これは個人レベルではエックハルトトールのいう「ペインボディと同一化しないこと」と同じだ、という想いが強く湧き起りました。

この寛容論を実践することとは、まさにペインボディと脱同一化することです。

ペインボディ(例えば怒りや憎しみ)に自動的に、機械のように反応しがちな自分(エゴ)がいます。

このような無意識のメカニズムが、共同体感情となった時、人を戦争へと導くのです。

○○は許さないと、生の欲動(エロス)と、死(破壊・攻撃)の欲動が複合化し、大義名分を形成し、それが集団心理になる時、戦争は起こります。

私たちは、この報復したくなるエゴ、すなわちペインボディの誘惑にこそ、屈してはならないのです。

その出来事、状況に問題があるように見えますが、実はそうではないのです。

それに自動的に反応する心、グルジェフのいう機械のように反応する心、中沢新一さんのいう無意識であることこそが問題なのです。

ペインボディと同一化するとき、私は個人レベルのA級戦犯です。

それが集団意識となった時、集団的ノルアドレナリンが分泌される時に、戦争は起こります。

寛容論を実践するとはたんに、寛容であれということではありません。

それは、無知を自覚すること。無意識を自覚すること。二つの欲動の複合体を自覚することです。

ほんとうの敵とは誰か、それが心の中にいることを自覚することなのです。

寛容論を実践する、それは日常の中で生じる些細なペインボディを観察し、ペインボディの誘惑に気づき、その手には乗らないとコミットし、脱同一化をはかることなのだと思います。



ペインボディについては過去のブログこちらを参照下さい

http://nagaalert.hatenablog.com/entries/2011/09/18

憎しみだけでなく、不安、怖れ、抑うつ、嫉妬、焦燥、短気、怒りもペインボディの形です。


昨年の「100分de日本人論」に引き続き、今年も出演した斉藤環さんの話も大変興味深かったです。『人はなぜ戦争をするのか?』のなかでフロイトは「なぜなら人間は憎悪と破壊を求める欲望を自らの内に持っているから」だといいます。人間にある二つの欲動、生の欲動、死の欲動これは愛の欲動、憎しみ(攻撃・破壊)の欲動、この2つが複合化して起こるというのです。「国家の構造と共通する個人の心の暴力衝動」として紹介されていました。これは「ペインボディと同一化してしまう衝動」と言い換えることができるでしょう。

円相(円窓:えんそう)を常に意識する

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忘れてはいけないイメージ。

今この瞬間の「意識の野」に、鳥の声、朝の匂い、窓からの景色など、すべてのものが生じている。

その気づきを忘れないでおくこと。

その気づきを常に思い出すこと。

その気づきのイメージは楕円のような気がしていた。

その気づきはまさにAwarenessそのものであり、Awarenessという「意識の野」に知覚を通じて世界が生起しているのだ。

しかし、いつの間にか、Awarenessという枠組みを忘れてしまう。

それは「色」が生起する「空」としての「背景」だが、いつしか日常の中で、空を忘れ、色しかないかのように思い込んでしまう。

そのたびに「そうそう、これを忘れてはならぬ」と思い起こしていたのだ。

何かこのイメージを表したものはないか

何かこの忘れてはならない楕円のような形

ふっっ…それは、禅でよく書かれるあの「円」だ!とひらめいた。

禅で描かれているあの円とは、Awareness(「気づきの意識」松永太郎氏訳)なのでは。


この円(円相)はすべてを表している。

これしかないのだ。(「今」しかない、「ここ」しかないというのとおなじように)

いや、この円の外と、円の中しかないのである。

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 なぜ禅寺にある円窓があれほど美しいと感じられるのかが分かった

円窓は、くりぬいた円形の窓から外の景色を眺めるが、

ここでは、黒のスクリーンに映像が映っているとイメージしよう。

景色の映像の下にも黒いスクリーンは隠れて存在している。

このスクリーンの黒い部分は、Awarenessの思考のない「無」の領域である。

あるいは、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」のStillness「閑さ」の領域である。

あるいは無形の領域であり、空白のスペースである。


この円窓から観ることは、実相を観ることなのだろう。

だから、あれほど、言葉を失い、釘付けになるほど、美しいのだ。


思考や感情も、この円相の中にある。

過去も未来も、この円相の中で、生じては消えていく。

空に月が浮かんでいるように、青空に雲が流れているように。

(写真は「明月院円窓」http://96chillout.blog39.fc2.com/blog-entry-302.htmlより)

「不即不離」という対人関係のフローを実現する

森田療法の勉強を始めました。そして森田正馬先生の『自覚と悟りへの道』を読み進めていく中で、自分にとって大切な人(上司、顧客、恋人、友人etc.)との関係のとり方について、たいへん興味深いと思われる部分がありましたので紹介して考察してみたいと思います。

(以下p74~p75より引用)
ここに入院している人は、森田を尊敬し、あるいは信頼しているからこそ入院したわけで、森田がこわいのは当然のことであります。この森田がこわいという心そのままであると同時に、一方では森田の話を聞き、指導を受けたいという心があるはずです。このこわくて逃げたい気持ちと、近づいて幸せになりたい気持ちとがはっきり対立している時に、私たちの行動は微妙になり、臨機応変になり、もっとも適切になり、いわゆる不即不離の態度となるのであります。
恋人には近づきたいし、近づくのは恥ずかしい。このように二つの相対立した心が働くのを、私は精神の拮抗作用もしくは調節作用と名づけています。この相対立する心が双方とも強くて大きいほど、精神の働きが盛んであるといえます。
神経質者の考え方、あるいはまちがった精神修養にとらわれている人は、「こわい」とか「恥ずかしい」とかいう心を否定し圧迫しようとし、一方には近づきたいという心をやたらに鞭打ち、勇気をつけようとして無理な努力をし、その結果は精神の働きがかえって萎縮し、偏ったものになってしまうのであります。
「こわくない」ように思おうとするから、ムリに虚勢を張って「かたくな」になり、しいて近づこうとするから、相手の迷惑などには少しも気がつかず、「ずうずうしく」なってしまうのであります。
それとは反対に、両方の心が相対立して働いているときには相手に接近しても、くっついたきりにはなりません。つまり「不即」の状態でありまして、相手のよろこぶときには近づき、相手が迷惑がるようなときには、ちょっとその場を外すのであります。また一方には、「近づきたい」心があるために離れていても離れきりにはならないで、ちょっと相手の声がするとか、暇なときがあるということを、きわめて微妙に見つけて、すぐそのそばに近づいてゆくというふうに、不離の状態になります。
つまりくっつくでもなく離れるでもなく、その駆け引きが自由自在で、極めて適切な働きができるのであります。「親しんで狎れず、敬して遠からず」というふうになるのであります。(引用ここまで)



ここに書かれている「不即不離」とは、「対人関係においてフローの状態が実現されたものではないか」という想いが浮かびました。

私たちはとかく「こわい」「恥ずかしい」という心を否定圧迫しようとして、ムリに虚勢を張って「かたくな」になったり、相手の迷惑などには少しも気がつかず、しいて近づこうとして「ずうずうしく」なってしまったりしがちですが、そうではなく、つまり「くっつくでもなく離れるでもなく、その駆け引きが自由自在で、極めて適切な働きができる」状態こそ望ましいわけです。そうした状態とは、まさに「対人関係におけるフロー状態」といってもいいでしょう。

では、この対人関係のフロー状態である「不即不離」はどのように達成されるのでしょうか?

「こわい」とか「恥ずかしい」というのは、本来私たちに備わっている性情であり、「純なる心」であるにもかかわらず、これを否定、圧迫しようとすることが間違いであると書かれています。

本来コントロールできない感情をどうこうしようと格闘しない(=感情のLet it go)ということです。そして対立した精神の拮抗作用がある方がむしろ精神の働きが盛んであり、好ましいのだということです。

さらに

(p76より引用)
不即不離の状態にはどんなときになるかといえば、一心に注意が目的物だけに向かっていて、自分自身の「はからい」や小細工がなくなったときになるものであります。この「はからい」のことを「とらわれ」ともいいます。「恥ずかしがってはいけない」とか、「先生に接近しなければならない」とか主義やモットーを立てるのが「とらわれ」であります。この「とらわれ」が多くれば多いほど不即不離から遠ざかるのであります。
ここの入院療法のもっとも大きなねらいは、この「とらわれ」から離れることであります。それにはどうすればよいかというと、一方には自分の目的物から目を離さぬことが大事でありますが、一方には自分の心が「とらわれ」から離れられないときには、そのとらわれのままにとらわれていることも、同時に「とらわれ」から離れるところのひとつの方法であります。(引用ここまで)


ネガティブな感情をどうにかしようとして主義やモットーを打ち立てない、すなわち「とらわれ」の思考を手放す(思考のLet it go)ことが2点目です。

そして、一心に注意が目的物に向かうこと、目的物から目を離さぬことと書かれていますが、「気分本意ではなく目的本位で行動すること」(これについてはまた稿を改めて触れたいと思います)、が3点目でしょうか。

そして、一方には自分の心が「とらわれ」から離れられないときには、そのとらわれのままにとらわれていることだといいます。

これは、単に、無意識に「とらわれている」のではなく、とらわれていることを自覚し、さらに、「とらわれていてはいけない」というのもまた一つの「とらわれ」であること(メタとらわれ)に気づいた上で、それをそのままにしておく(メタとらわれのLet it be)こと、これが4つ目のポイントです。

『新時代の森田療法』(慈恵医大森田療法センター編)にはこう書かれています。

「神経質性格の患者さんには、自己の不安や恐怖の感情を無理に排除しようとするところに、とらわれの源がある」(p39)

「そもそも不安やその根底にある死の恐怖は、限られた時間を生きる私たちにとっては避けることのできない普遍的な感情です。」「そうした不安を排除しようとする行動や心のやりくりをはからいと呼びます。こうしたはからいをやめそのままにしておく」(同書、p40)ことが、森田療法のいう「あるがまま」の心の姿勢なのです。

あるがままの心の姿勢(対立する感情と思考のLet it go、目的本位で行動すること、メタとらわれのLet it be)に努めることによって、「不即不離」という対人関係のフローを実現しうるよう、日々心掛けてゆきたいと思います。

離れ内、重ね外

前回のブログで「離れ内、近く外(笑)」と書きました。長々と書き記したコンセプトを短い言葉で覚えやすいように、どう表現しようかと何回か修正したあげく、この表現に行きついたのでありました。

「はなれうち、ちかくそと」と読んでもらっていいのですが、「はなれない、ちかくがいい」と読んでも面白いかな、などと独りよがりな考えに、ほくそ笑んでおりました。
しかしながら、「はなれうち、ちかくそと」・・・う〜ん、それではあまりにも語呂が悪い、と反省し、改訂したいと思います。

「内(うち)とは離れ、外(そと)には重ねる」という意味で「離れ内、重ね外(はなれうち、かさねそと)」ではどうでしょう。

「思考、感情、感覚といった内面のもろもろから離れてこれを観るよう努めるべし」
そして、「これらを観ている者こそ自己の本質である」という教えが「離れ内」です。

一方、「世界と自己は相互依存的に連携生起しており、分かつことはできぬ」したがって「不可分な世界とは、対立するのでなくむしろ自己を近づけ重ねていくべし」という教えが、「重ね外」です。

ということで「離れ内、重ね外」に改訂させていただきたいと思います。<(_ _)>