ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

なぜ「他者への関心」がうつに効くのか?(知縁カフェ予告編)

先日、私どものNPOが主催した岸見一郎氏の講演会で「他者への関心(social interest)」をもつことは、「うつ」に効果があるという話が聞かれました。

なぜ、アドラー心理学でいう「他者への関心」が、「うつ」に効いたりするのでしょうか?

 

来月から始まる「知縁」カフェの予告編として、このことを脳科学や人類進化と関連付けて考えてみたいと思います。

 

脳科学の知見を踏まえて考察すると、なぜ、social interestが「うつ」に効くのか?その問の答えが浮かんできます。

 

「うつ」のメカニズムは、扁桃体の過剰な活動→副腎からのストレスホルモンの分泌過多、という流れが頻繁に起こり、慢性化することで引き起こされます。ですから扁桃体の過剰な活動を抑えることが重要なのですが、結論から言うと、「公平感」や、他者と「助け合う」ことは、扁桃体の過剰な活動を抑えるのです。

 

NHK「病の起源~うつ病」で放送されましたが、アフリカのタンザニアで狩猟採取生活を今も続けているハッザの人々を対象に、ロビン・ピーターソン医師が調査したところ、「うつ」を示す兆候は2.2でした。「うつ」と判断されるボーダーラインのその値は11.0だそうで、米国での調査値は7.7、日本では8.7といいますから、ハッザの人々の数値がいかに低いかが分かります。ハッザの人々は捕ってきた獲物を、捕れなかった人にも、狩りに参加しなかった人にも徹底して平等に分けます。狩りをするために助け合い、平等に分け合うという慣習が「うつ」の値を低くしている要因ではないか、と考えられています。

 

玉川大学脳科学研究所の春野雅彦研究員は平等と扁桃体の関係に注目し、実験を行ってきました。お金を分け合う実験で、自分が損をする場合、扁桃体の活動は大きくなります。 また意外にも、自分だけが得をする場合でも、扁桃体の活動は大きな値を示しました。 そして、互いに公平な場合だけ、ほとんど反応しないという結果が得られたのです(参照:同上番組)。

 

 

これらのことから、平等はうつ病の原因となる扁桃体を過剰に活動させないことが分かります。

 

同様の実験がアメリカ・ラトガース大学で行われています。(参照:NHK「ヒューマン、なぜ人間になれたのか」)

 

被験者二人にくじを引いてもらい、くじの片方にはRich、もう片方にはPoorと書かかれています。

Rich には参加料として80ドル渡され、Poorには30ドルが渡されます。二人の間にわざと格差が作られます。ここで追加の50ドルをRichかPoorのどちらかに渡します。このとき調べるのはRichの脳の快楽の中枢「腹側線条体」。

Richが50ドルもらい、所持金が130ドルに膨れ上がったとき、Richの「腹側線条体」は0~5段階レベルでやや上昇(1のレベル)になりました。所持金が増えたことが快楽中枢に反応しました。

ところがRichではなくPoorに50ドル渡して、ともに80ドルとなった場合(格差はなくなります)、その時のRichの「腹側線条体」の反応レベルは、なんと最高の5のレベル。きわめて強く反応しました。20人への同じ実験でも同様に強いレベルを示しました。

ただ実験の前提は「相手が目の前にいる」ことだといいます。

  

助け合い、平等に分け合うのが習わしであるハッザの人々が、強い部族の絆、アドラー心理学でいう強い共同体感覚を持っているであろうということは容易に想像がつきます。

 

そして「他者への関心」とは、アドラーが共同体感覚を英語圏に紹介した時に使った言葉です。すなわち、共同体感覚とは「他者への関心」によって育まれる感覚、「他者への関心そのもの」であるということです。

 

他者に関心をもつことは、共同体感覚を育みます。共同体感覚はハッザの人々のように、強い絆で扁桃体の過剰な活動を抑制します。仲間にサポートされているという感覚、仲間に役立っているという感覚。

 

共同体感覚尺度※というものが考えられています。共同体感覚尺度は共同体感覚を理解するヒントになります。それは「自己受容」(ありのままの自分を受け入れているか、自分が好きか)、「所属感」(ここにいてもいいと思えるか)、「他者信頼」(他者を敵ではなく仲間として信頼できるか)、そして「他者貢献」(他者に役立っていると思えるか)、です。

 

ありのままの自分を受け入れ、自分はここにいてもいいと居場所を感じられ、他者を仲間と信頼でき、自分は役立っていると実感できる。それが「共同体感覚が養われる」ということです。自己感覚が、個から脱同一化し、共同体との同一化する方向にシフトすると言い換えられるかもしれません。そうした時、扁桃体の過剰な活動は抑えられます。

 

共同体感覚を育むと扁桃体の過剰な活動を抑制できます。すなわち「他者への関心」が「うつに効く」ことは、このような脳科学的知見からも容易に察しが付くことなのです。

 

四日市市教育委員会のクラス会議の導入研究の評価に用いられた共同体感覚尺度

1)自己受容

 あなたは苦手な部分も含めて自分のことが好きですか

 なたは自分のことを大切にしていますか

2)所属感

 あなたのクラスは居心地がいいですか

 あなたはメンバーの一人であるという気持ちはありますか

 あなたはクラスのみんながいてくれてうれしいなと思いますか

3)信頼感あなたはクラスで大切にされていると思いますか

 あなたはクラスのメンバーを信頼していますか

 あなたのクラスは自分達で自分達の問題を解決しようとすることができますか

4)貢献感

 あなたは人のためにはたらくことが好きですか

 あなたはクラスのみんなのために役に立つことができると思いますか

 あなたはクラスのみんなを大切にしていると思いますか

生きかた「知縁」カフェ、はじめます!

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勉強会「生きかた知縁カフェ」第1回(9/17)を開催します。

知的好奇心が強く心理哲学的なアプローチと脳科学など最新の科学を融合させたい定年前後のシニアの方々の参加を想定していますが、「生きかた」に関心のある方ならどなたでもOKです。

NPOの審査やコンサルに長年関わってきた経験を活かし、認知症、超少子化、キラーストレス、高どまりの自殺水準、孤立とうつの蔓延など社会課題の解決に心理・哲学、脳科学を役立てるソーシャルビジネス(SB)の新しいスタイルを模索します。

単なる勉強会ではなく、異分野の知識と知恵が交流し、新しい知が生まれるような「知縁(ちえん)」のコミュニティへと発展していくことを目指します。

詳細、申込みはこちらをご覧ください。

www.kokuchpro.com

未来との共同体感覚

NHKの「100分de名著」2月の放送は、昨今ブームのアドラーが取り上げられました。解説はベストセラー「嫌われる勇気」(135万部)の著者で哲学者の岸見一郎氏です。25分(番組)×4回=100分で名著を読み解いていきますが、その第4回のテーマは「共同体感覚」でした。

 共同体感覚とは

われわれのまわりには他者がいる。そしてわれわれは他者と結びついて生きている。人間は、個人としては弱く限界があるので、一人では自分の目標を達成することができない。・・・そこで、人は弱さ、欠点、限界のために、いつも他者と結びついているのである。

 この「他者と結びついている」ということが、アドラーのいう「共同体感覚」の意味ですと岸見一郎氏はいいます。

 ドイツ語ではMitmenschlichkeit(ミットメンシュリッヒカイト)。Mitmenschen(ミットメンシェン)は仲間という言葉の原語だそうです。

すなわち、仲間としての他者と結びついている感覚が、共同体感覚です。

 戦争をはじめとするこの世の争いごとすべてが、共同体感覚の欠如によって引き起こされているといっても過言ではない、と岸見氏。

 アドラーも、「自分自身の幸福と人類の幸福のためにもっとも貢献するのは共同体感覚である」といっています。

 他者を敵として見るのではなく、他者(他民族、他国家)を仲間として見ることができるなら、人類の幸福につながるということでしょう。

 

そして共同体感覚における共同体とは

 さしあたって自分が所属する家族、学校、職場、社会、国家、人類というすべてであり、過去、現在、未来のすべての人類、さらには生きているものも、生きていないものも含めた、この宇宙全体をさしている。

 とアドラーは定義したといいます。

 人類までは理解できるような気がします。生きとし生けるものすべて、そして生きていないものすべてというカテゴリーも人類の生存基盤である生命圏(バイオスフィア)まで視野を押し広げて考えるなら理解できないことはないでしょう。

 しかし、過去と未来まで含めた共同体というものをどう考えればいいのだろうか?と考えていました。

 そして、昨日、NHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」を見ていて、200年続いた老舗の木材商の女将で祖母役の大地真央が、主役の常子に送った最後の言葉を聞いて、思わぬところでシナプスがつながり、これか!と思いました。

木材ってのは、いま植えたもんじゃない

40年、50年前に植えたものが育って商品になる

だから植えたときは自分の利益にならないのさ

それでも40年後に生きる人のことを思って植えるんだ

次に生きていく人のことを考えて暮らしておくれ

 「次に生きていく人のことに思いを馳せられる」、これがまさに「未来との共同体感覚」です。

私は2000年ごろに再生可能エネルギーの普及浸透に関連した自治体のビジョンづくりの仕事をしていたのですが、「温暖化が進行し、2100年頃には地球の気温は数度上昇して気候が暴走、大きな問題になる」というようなことを住民の説明会で話すと、「自分たちは死んでしまってるから関係ないや」というような声が必ず聞かれました。このようにしか思わない人はまさに「未来との共同体感覚」が欠如しているのです。

原子力発電所の核のゴミの問題も同じでしょう。何万年も分解されない危険な核廃棄物でも地中深く埋めてしまえば数百年、数万年先のことはどうでもいいじゃないかと考える人は、「子々孫々の世代との共同体感覚」が欠如しているのです。

インディアンは、常に、7世代先の子孫のことを考えて自然と共に暮らしていた、という話を読んだことがあります。

 「未来との共同体感覚」とは、まだ見ぬ世代の幸福を仲間として願う気持ちなのだと思いました。

 

次回は過去との共同体感覚について考えてみたいと思います。

エネルゲイア、それは「生命の躍動」を感じて生きること

岸見一郎氏の「嫌われる勇気」を読んで、終盤に出てくる「エネルゲイア」という言葉に注目しました。

このブログに書いている、「今ここ」「プレゼンスの持続」「マインドフルネス」「道」などとの共通性を感じましたが、今回は「生命(いのち)の躍動」との関連でエネルゲイアを考えてみたいと思います。

まず北海道情報大学の三浦洋教授はエネルゲイアについてこう書いています。


アリストテレスは『形而上学』で様々な行為を「エネルゲイア(活動)」と「キーネーシス(運動)」に区別している。「エネルゲイア」とは、現在進行と完了が同時に成立する行為であり、「見る」がその典型例である(「見ている」と同時に「見てしまった」といえる)。他方「キーネーシス」とは、一定の目的に向かう末完了的な過程を持つ行為であり、現在進行と完了が同時には成立しない。その典型例は「建築」である(「建築している」と同時に「建築してしまった」ということはない)。

進行と完了が同時に成立する行為、例えば「見る」という行為がそれにあたるといいます。

岸見一郎氏は、「嫌われる勇気」の中でこう説明しています。(以下引用)

P266

たとえばバイオリニストになることを夢見た人は、いつも目の前の楽曲だけを見て、この一曲、この一小節、この一音だけに集中していたのではないでしょうか。・・・

こう考えてください。人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那なのです。そしてふと周りを見渡したときに「こんなところまで来ていたのか」と気づかされる。

P267

ダンスにおいては、踊ることそれ自体が目的であって、ダンスによってどこかに到達しようとはだれも思わないでしょう。・・・

あなたのおっしゃる、目的地に到達せんとする人生は「キーネーシス的(動的)な人生」ということができます。それに対して、わたしの語るダンスを踊るような人生は「エネルゲイア的(現実活動的)な人生」といえるでしょう。

アリストテレスによる説明を引きましょう。一般的な運動―これをキーネーシスといいます―には、始点と終点がある。その始点から終点までの運動は、できるだけ効率的かつ速やかに達成されることが望ましい。・・・

そして目的地にたどり着くまでの道のりは、目的に到達していないという意味において不完全である。それがキーネーシス的な人生です。

一方、エネルゲイアとは「いまなしつつある」ことが、そのまま「なしてしまった」ことであるような動きです。

別の言葉でいうなら「過程そのものを、結果と見なすような動き」と考えてもいいでしょう。ダンスを踊ることもそうですし、旅などもそうです。(引用ここまで)

 

 

この部分を読んで、エネルゲイア的な生き方とは、まさに3月にある報告にまとめた「生命(いのち)の躍動」を感じて生きること、なのではないかとの思いが強まりました。

3月2日のブログで「内なる躍動」のことを書きましたが、これは「生命(いのち)の躍動」と私が呼んでいるもので、この感覚をもっともよく表現しているのは藤城清治さんが『光は歌い影は踊る』で書かれた次の部分です。

91歳の影絵作家、藤城清治さんが影絵を切る時の心境を次のように語っておられます。

(以下引用)

木は生命の象徴といってもいいでしょう。・・・

その美しい木の葉を一枚一枚切り抜いていく。これが影絵制作の真骨頂です。・・・

文字通り一枚一枚の葉を根気よく、ごまかすことなく切り抜いていく。木の葉を一枚切るごとに喜びが増し、美しさが大きくなっていきます。切り始めたら、やめられなくなってしまう楽しさです。

よく人に「細かい木の葉をきるのは大変でしょう」といわれるけれど、僕は木の葉をきるのがうれしくてしょうがないのです。

 一見、同じように見える木の葉もみんな形がそれぞれ微妙に違っています。同じ種類の木の葉でも、一枚として同じ形はありません。自然のもつ奥深い、不思議な魅力を感じて驚いてしまいます。僕も一枚一枚、あっち向いてこっち向いて木の葉の形や波と葉の間の形を考えながら切って行くのがとても楽しい。それに、リズムにのって楽しく切らないと、木の葉も躍動してくれません。

また、切っていく上で大切なのは自分の呼吸です。自分の息づかい、リズム、それがうまくからみ合って、大自然の神秘に挑戦していけるのです。切っていくうちに神経が集中し、研ぎ澄まされていきます。気がつくと、祈りのような思いがこめられています。

 特に木の葉をきるときは、片刃のカミソリの刃でないと葉っぱが生きてきません。カミソリの刃だと、人差し指の先が刃物になったように思えて、自由自在にひねったり、力の強弱をつけたりして、自分の息づかいを感じているような切り方ができるからです。カッターでは、なかなかそういう感じにはなりません。

僕は木の葉を切るとき、いちばんの喜びと幸せを感じます。・・・

深夜や明け方まで夢中で切っていて、僕は自分で折ったカミソリの刃の屑の上に座って、傷つくのも知らずにのめり込んでいることもしばしばです。・・・

一本の木を見た僕たちが、そのいのちを表現するには、その木をじっと観察して、そこから様々なものを感じなければ描いたり切ったりできないと思うのです。(引用ここまで)

 

 

藤城さんは、木の葉に生命の躍動を見て、その躍動に自分自身の内なる躍動を共振させているのだと思います。そして無心に影絵を切っているのでしょう。

「深夜や明け方まで夢中で切っていて、僕は自分で折ったカミソリの刃の屑の上に座って、傷つくのも知らずにのめり込んでいることもしばしばです」という藤城氏の表現は、「ふと周りを見渡したときに、こんなところまで来ていたのかと気づかされる」という岸見氏の表現と重なります。

作品が完成してはじめて意味があるというよりも、創作の過程に、生命の躍動、よろこびの感覚が内在しています。

これはダンスの過程に、生命の躍動、よろこびの感覚が内在している、のと同じことではないでしょうか。

エネルゲイアの「いまなしつつある」ことが、そのまま「なしてしまった」ことであるような動きとは、この影絵を切るときの藤城さんのような境地のことでしょう。

プロセスに目的が内在するような、そんな動き。

エネルゲイアとは、ある意味、生命の躍動を感じて生きることなのだと思います。

 

(過去の参考ブログ)

2011/12/08

そのこと自体に喜びを伴っているか? - ウィルバー哲学に思う

2014/4/12

灰色の男たちの罠から抜け出し、ゆっくり動こう - ウィルバー哲学に思う

 

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微かだが大切な、内なる躍動

朝から、長引く風邪に体調もすぐれず、諸事あまり良いとは言えない状況にあって、気分もやや落ち込んでいた。

年末年始に掴みかけていたあのビジョン、意欲、情熱は、もはやいずこに過ぎ去ったかと思われた。

しかし・・・、おっと、そうであった。

こういう時こそ真価の見せ処なのだ、と思い出した。

そう、こういう時こそ真価の見せ処なのだ。

状況に、持っていかれていた。

状況に、振り回されていた。

体調も、ここでいうその状況のひとつである。

状況が、快いものを持ってきてくれるように漠然と思っていたのではないか。

無意識に。

私は自分の意識の持ち方に、意識を馳せるのを失念していた。

自分の「意識の野」に生起するものを、注意深く見守ることを怠っていた。

私は、NPOの子どもたちがどうなれば良いのかを考えていたはずであったが、自分がどうであればよいのかを失念してそのことを実現できるはずもなかった。

こういう時こそ、やがて後にも記憶の残るような真価の見せ処なのだ。

ふりかえった時に、そうそうそれでよい、と思える切り換えの瞬間、それが今なのだ。


今この瞬間の状態を整えよう。

状況はコントロールできずとも状態はコントロールできる。

意識をどこに向けるかは選択できるのだ。

意識を向けるべきところに向ける時、明晰性が戻ってくる。

明晰性が連れてきてくれるのは、微かな内なる躍動だ。

微かだが大切な、内なる躍動…。

それはいつもここにある。

『寛容論』を実践する、すなわち脱ペインボディ。

昨年1月のパリのテロの後、フランスの思想家ヴォルテール(1694-1778)の著書である『寛容論』が10万部のベストセラーになったといいます。
今月の2日に放送された『100分de平和論』で作家の高橋源一郎さんが取り上げた名著です。


トゥールーズプロテスタントの一家で起こった長男の自殺事件が、その父親が犯人だという冤罪を着せられ拷問の上死刑に処せられたという実際の事件をもとに書かれました。

この事件はカソリック側によるプロテスタントへの宗教的弾圧だ!とヴォルテールは確信し、この本を書いたのだと高橋さんは言います。

寛容論の中では、宗教的不寛容に対しての批判が強く書かれている、そして彼は人間の理性を信じる理神論を唱えたと解説されていました。

それぞれの宗教が掲げる神ではなく、その神を超えた存在に意識を馳せ、

われわれはみんな同じ父を持つ子供たち、同じ神の被造物ではなかろうか、

という視点にたどり着いてほしいとヴォルテールは願った。「わが宗教こそ」と考えるのは狂信であって、そうした「狂信を打ち破るのは人間の理性である」という立場、それがヴォルテールの唱えた理神論だと言います。

普遍的な原理のひとつは「自分にして欲しくないことは、自分もしてはならない」ということである、という言葉が取り上げられた後で、

2015年11月13日130人の被害者を出したパリ同時テロ。そのテロで妻を失ったアントワーヌ・レリスさんがファイスブックに上げたという言葉に、私は釘付けになりました。(以下引用)

『君たちは僕の憎しみを手に入れることはできない』

僕は君らに憎悪という贈り物はしない。
君らはそれを望んでいるのだろうけれど、
憎悪に怒りを返すことは、
君らを作り上げたのと同じ無知に屈服することに等しい。

君らは僕に恐怖を抱いてほしいだろう、
僕の周りの人々に警戒の目を向けてほしいだろう、
僕に安全と引き換えに自由を失ってほしいだろう。

だが君らの負けだ。
僕は変わらずに生き続ける。


これは寛容論そのものだ、と高橋さんは言います。

憎しみに対し憎しみで返すことはしない、これがひとつ、そして

無知に屈することはしない、(憎しみに対して憎しみで返すことは憎しみの連鎖が続くだけである、そのことが分かっていない無知)これがひとつである(高橋さん)。

ロンドンでテロが起こった時に、ロンドン市長がこれと同じようなことを言ったと斉藤環さん※がコメントしました。

日本の政治家でこれを言える政治家はいない、国民も共同体感情に負けてしまうのではないか、という斉藤さんのコメントが印象に残ります。

寛容論の最後で「ヴォルテールは神に祈りをささげています」と、映像とともに紹介された言葉、素晴らしかったです。(以下、引用)

私が訴えるのは
もはや人類に対してではなく、
それはあらゆる存在、あらゆる世界、
あらゆる時代の神であられる
あなたに向かってである。

なにとぞ、われわれの本性と
切り離しえない過ちの数々を
あわれみを持って
ごらんくださいますよう。

これらの過ちが
われわれの難儀のもとに
なりませぬよう。

あなたはお互いに憎み合えとて、心を、
またお互いに殺し合えとて、手を
われわれにお授けになったのでは
ございません。

苦しい、つかの間の人生の重荷に
耐えられるように、
われわれがお互い同士
助け合うようお計らいください。

すべて滑稽なわれわれの慣習、
それぞれ不備なわれわれの法律、
それぞれがばかげているわれわれの見解、

われわれの目には
違いがあるように思えても
あなたの目から見れば
なんら変わるところない
われわれ各人の状態、

それらのあいだにある
ささやかな相違が、
また「人間」と呼ばれる
微小な存在に区別をつけている
こうした一切の
ささやかな微妙な差が、

憎悪と迫害の口火にならぬよう
お計らいください。

すべて人は兄弟であるのを
みんなが思い出さんことを。

この番組を見終えて、しばらくして・・・。

これは個人レベルではエックハルトトールのいう「ペインボディと同一化しないこと」と同じだ、という想いが強く湧き起りました。

この寛容論を実践することとは、まさにペインボディと脱同一化することです。

ペインボディ(例えば怒りや憎しみ)に自動的に、機械のように反応しがちな自分(エゴ)がいます。

このような無意識のメカニズムが、共同体感情となった時、人を戦争へと導くのです。

○○は許さないと、生の欲動(エロス)と、死(破壊・攻撃)の欲動が複合化し、大義名分を形成し、それが集団心理になる時、戦争は起こります。

私たちは、この報復したくなるエゴ、すなわちペインボディの誘惑にこそ、屈してはならないのです。

その出来事、状況に問題があるように見えますが、実はそうではないのです。

それに自動的に反応する心、グルジェフのいう機械のように反応する心、中沢新一さんのいう無意識であることこそが問題なのです。

ペインボディと同一化するとき、私は個人レベルのA級戦犯です。

それが集団意識となった時、集団的ノルアドレナリンが分泌される時に、戦争は起こります。

寛容論を実践するとはたんに、寛容であれということではありません。

それは、無知を自覚すること。無意識を自覚すること。二つの欲動の複合体を自覚することです。

ほんとうの敵とは誰か、それが心の中にいることを自覚することなのです。

寛容論を実践する、それは日常の中で生じる些細なペインボディを観察し、ペインボディの誘惑に気づき、その手には乗らないとコミットし、脱同一化をはかることなのだと思います。



ペインボディについては過去のブログこちらを参照下さい

http://nagaalert.hatenablog.com/entries/2011/09/18

憎しみだけでなく、不安、怖れ、抑うつ、嫉妬、焦燥、短気、怒りもペインボディの形です。


昨年の「100分de日本人論」に引き続き、今年も出演した斉藤環さんの話も大変興味深かったです。『人はなぜ戦争をするのか?』のなかでフロイトは「なぜなら人間は憎悪と破壊を求める欲望を自らの内に持っているから」だといいます。人間にある二つの欲動、生の欲動、死の欲動これは愛の欲動、憎しみ(攻撃・破壊)の欲動、この2つが複合化して起こるというのです。「国家の構造と共通する個人の心の暴力衝動」として紹介されていました。これは「ペインボディと同一化してしまう衝動」と言い換えることができるでしょう。