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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

困難な状況でも態度は選択できる

実存主義心理学者ヴィクトール・フランクルのいう「態度価値を実現する」とはまさに表題の「困難な状況でも態度は選択できる」ということです。前回のブログに通じる部分があります。

フランクルアウシュビッツでの体験をもとに実存分析と意味による心理療法であるロゴセラピーを開発しました。その基本となる概念は「意味への意志(The Will to Meaning)」です。人間は意味を見つけようとするものだということです。人間はそれさえ見つければ他のすべてを放棄する、あるいは生命を犠牲にすることもいとわないような生きる意味を求めるとフランクルはいいます。そして超えることのできない状況にあっても意味の実現に献身できることを自らのアウシュビッツでの体験で明らかにしました。

フランクルの著書「夜と霧」(池田香代子訳)のP110からの「精神の自由」という節でこう書かれています。

収容所生活そのものが、人間には「ほかのありようがあった」ことを示している。その例ならいくらでもある。感情の消滅を克服し、あるいは感情の暴走を抑えていた人や、最後に残された精神の自由、つまり周囲はどうあれ「わたし」を見失わなかった英雄的な人の例はぽつぽつ見受けられた。一見どうにもならない極限状態でも、やはりそういうことはあったのだ。
 強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人々について、いくらでも語れるのではないだろうか。そんな人は、たとえ一握りだったにせよ、人は強制収容所に人間をぶち込んですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ。…つまり人間はひとりひとり、このような状況下にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になれるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。
…最後の瞬間まで奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最後の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。


メル・ギブソンの映画「ブレイブハート」のFreedom!と叫ぶ最後のシーンを思い出しました。

フランクルは実存について「死と愛」(霜山徳爾訳のP90)でこう言っています。

人間の存在は、それが自由存在である故に、責任存在なのである。それはヤスパースの述べたごとく常にそれがあるところのものをまず決定する存在、「決断する存在」である。これこそまさに「実存」であり、単なる物質的存在ではない。私の前に在る机は少なくとも誰か他のものによって動かされなければ、いつまでもそこにあるだろう。しかしその机の傍らで私に向かいあって坐っている人間は次の瞬間に「在る」ことを、たとえば話しかけたり、沈黙したりすることを決定できるのである。人間がその中から只一つを実現化しうる多様な数多くの可能性は人間の実存を特徴づけている。



つまり、実存としての人間は、どのような在り方も選択できる自由を有している。強制収容所のような状況においても、他者を思いやり自分の尊厳を守る態度を選択することはできるのだ、ということです。そしてそのような態度に意味がないといえようか?というのがフランクルの主張です。

「実践インテグラルライフ」のP496の次の文章に通じるものがあります。

真のゲームとは有利なカードを配られるということではなく、配られたカードを知性と慈愛と創造性を可能な限り発揮して活用するということなのです。ときとして、障害を背負って生まれてきた人々は、少ない可能性に勇気と心意気をもって対峙しますが、そうした生き様は、すべての人の魂を打ち震わせます。




人生に意味がないとは、生きている意味がなくむなしい、空虚あるいは虚無的だということです。フランクルは「実存的欲求不満」と呼びました。そしてそれに起因する神経症がロゴセラピーの対象となるのですが、これはウィルバーの「万物の歴史」のP243のF-6にある実存的病理と実存セラピーに対応していると考えてよいでしょう。

そしてフランクルは人生の意味を充実させるとは3つの価値を実現することであるといいました。創造的価値、体験価値、態度価値の3つです。

創造的価値とは、人間が行動したり何かを作ったりすることで実現される価値です。仕事をしたり、芸術作品を創作したりすることがこれに当たります。私自信の言葉でいうと「意義のない仕事では意味がない」ということと、これは同じことを言っているなと思いました。社会人になってからずっと思ってきたことです。

体験価値とは、人間が何かを体験することで実現される価値で、芸術を鑑賞したり、自然の美しさを体験したり、あるいは人を愛したりすることでこの価値は実現されます。マズローのいう至高体験もこれにあたります。

そして態度価値とは、人間が運命を受け止める態度によって実現される価値です。病や貧困の前で活動の自由を奪われ、創造価値が実現できなくても、そして体験価値実現の機会さえ奪われたとしても、その運命を受け止める「態度」を決める自由が人間に残されているということです。

この態度価値への気づきがどのように生まれたのか?「夜と霧」P124にこう書かれています。

来る日も来る日も、そして時々刻々、思考のすべてを挙げてこんな問いにさいなまれねばならないというむごたらしい重圧に、私はとっくに反吐が出そうになっていた。そこで、私はトリックを弄した。突然、私は皓々と明かりがともり、暖房のきいた豪華な大ホールの演台に立っていた。私の前には坐り心地のいいシートにおさまって、熱心に耳を傾ける聴衆。そして、わたしは語るのだ。講演のテーマは、なんと、強制収容所の心理学。今わたしをこれほど苦しめうちひしいでいるすべては客観化され、学問という一段高いところから観察され、描写される…このトリックのおかげで、わたしはこの状況に、現在とその苦しみにどこか超然としていられ、それらをまるでもう過去のもののように見なすことができ、わたしの苦しみともども、わたし自身がおこなう興味深い心理学の対象とすることができたのだ。



これって明らかに目撃者の視点に軸足が移っていますよね。場所中心的自己の視点にシフトしていることが明らかです。最初は未来の自分に対する想像から始まっていますが、今の自分を「学問という一段高いところから観察され描写している」のは紛れもなく目撃者です。

そうだったのです!実存的存在として態度価値の実現を選択しようとするためには、目撃者の視点が重要だということです。目撃者の視点により態度価値を自覚でき、その実現が実践されるといえるのではないでしょうか。これでウィルバーの「万物の歴史」にある実存的病理からの脱却のプロセスと整合しました。

そしてまたフランクルはこのことを「コペルニクス転回」と呼んでいます。自分が人生に何を期待するかではなく、人生が自分に何を期待しているのかを問うのだといいます。

「夜と霧」のP129からはじまる「生きる意味を問う」にこうあります。

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。私たちが生きていることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、時々刻々、問いかけてくる。


これは麻雀をする人にはなじみのある発想ではないでしょうか。最初の配牌を見て、(特にひどい時は)一体これは私に何をしろということか?あるいはこのタイミングでこの牌を引いてくることの意味は何か?を問われているということです。人生も同じで時々刻々の状況が、わたしたちが何を期待されているのかを知らせているのだということでしょう。

実存とは、自由に決定できる存在であることです。絶望し堕落することもできれば、遭遇することの一回性と無二性に気づいて「自分ならでは」の気高い態度価値を実現することもできます。このフランクルの主張はILPの結びに書かれたまさにユニークセルフの意味でしょう。

そして大切なのは困難な状況にあっても、状況をコントロールしようとするのではなく、手放し、(トレヤのいった)「情熱的な無執着」をもって目撃者の状態を維持し、価値のある態度を選択することです。これこそ真のLet It Beといえるのではないでしょうか。どこの力を抜き、どこに注意を持続すればよいのか、少し分かったような気がしました。