〈画像はintegrallife.comの Integral Mindfuinessより〉
藤田一照氏、永井均氏、山下良道氏鼎談『〈仏教3.0〉を哲学する』を見ております。
第1章に、「無我と本質と実存」という節があり、たいへん興味深く読ませていただきました。主に永井氏によるコメント部分で、本書全体のエッセンスをなぞるのに最適かと思われます。まずは要点を抜粋します。
無我とは何がないことか?
本質がない、ことである。
本質とは何か?
実存と対立する言葉である。
どちらもbe動詞
「~がある」が実存
「~である」が本質 (一照さんはお坊さんである、という場合「お坊さん」が本質)
私には本質はないけど実存がある
「実存は本質に先立つ」(サルトル)
何であるか(本質)は分からないけど、とにかくそれ(実存)がある
他人たちは本質(属性など)で見分けるが、どの人が自分であるかは直接的に実存しているこいつ、と識別できる。
このように識別ができるものとして「今」がある。端的に存在しているときが今。今しかない。
同じように、私以外のものはない。というか他者を見て、ああいるな、何とかさんだとか思っているのはいつも私で、すべては私において起こる。それもただ実存しているだけで、特定のだれかであることがないような私において。
そういう意味で、わたしはただ実存しているだけで、今が今しかないのと同じ意味で、私も私しかなくて、それが全てなんです。
過去や未来はあるが、それらはみな今においてあるだけである。私自身を他から識別してとらえる時、ただ端的に存在しているという事実によって、識別してとらえている。➡認識論的な考え方
本質(属性など)において自分と全く同じ人がいたとする。しかしその人が自分になるわけではない→私は本質ではない。
私が存在するとは、ある特定の本質を持った人が存在しているということではない➡存在論的な考え方
そういう内容、中身とは関係なく、なぜか端的に感じられる生き物が一つだけある。
今もおなじ。
現在というのは、こういうことが起こっているから現在であるというのではない。
今起こっていることは、内容を全く変えずに過去になる。
ただ過去になるだけで、全く同じ中身が過去になるだけ。
だから今であること自体は、起こっている内容とは関係なく端的に今であるだけ。私であるということも、その人の中身とは関係なく、なぜかそいつが端的に私であるだけ。
私はその成立において端的に無我である。本質がなくもちろん実体もない。「何であるか」がない。
坐禅をやると本質とか内容というものが捨てられていく。そんなものは自分じゃないとずっと昔から思っていたから。それで残ったものが実存。(仏教用語の仏性)
良道氏の「私の本質は青空だ」
永井氏「私には実存だけがあって本質はない」
本質とか内容とか中身じゃなくていわば空っぽ。
「空」といってもいい。
中身はあることはあるけど関係ない。煩悩の浮き沈み、ああなりたいこうなりたいはみんな本質
悩みもみんなそこに入る
それを私という実存と区別して切り離す訓練(哲学的ワーク)をしているともっと楽に坐禅や瞑想に入れる八正道の最初の二つが正見と正思であることに関係しているかも。
(最後の5行は藤田氏のコメントからの抜粋です。)
いかがでしたでしょうか?抜粋なので伝わりにくい点があると思われますが、琴線に触れる言葉がひとつでもありましたら是非本書をご一読ください。
私はこのブログでケンウィルバーの選集『存在することのシンプルな感覚』からも多くを引用してきましたが、共通した点が本当にたくさんあります。この原書のタイトルは"The Simple Feeling of Being Embracing Your True Nature"ですがこの言葉でウィルバーの言っている意味は、上の文章中で永井さんのいった「ただ端的に存在している」とか「端的に感じられる」という意味に大変近いと思われます。
ブログのカテゴリー分類として使用している、Witness(目撃者)、Self(大文字の自己)、Seer(見者)、Awareness、などは『存在することのシンプルな感覚』のキーワードですが、文脈によるニュアンスの違いこそあれ、永井さんのいう「実存」にほぼ重なっているといえます。
ですから、いわば空っぽ、「空」といってもいい、という永井さんの表現を目にして、冒頭の画像ー顔が円相(実存)で、おそらく月を背にして(いや月に向かってでしょうか?)の坐禅ーがぴったりという気がしました。
そして、この実存は私が好んで使っている表現としては「主体としての空(くう)」です。
今後も積極的にウィルバーの言葉と『仏教3.0を哲学する』の関連について取り上げて行きたいと思います。