眼から外の世界に見えているもの
テーブル、椅子、棚、床、窓、カーテン、外の景色、自分の手足
などなどのこれら
両腕を後ろに回して、手の甲を重ねてみる
蝶が翅を閉じているときのように
そこから、ゆっくりと、巨大な岩の扉を開くように
周りに見えている世界を
後ろから横、横から前へと
圧縮していく
蝶が、折りたたんだ翅を
ゆっくりと広げるように
背中から、翅の後ろの隙間から
〈外〉が開く
〈外〉は、本当は無いものだが
ウォー
うぉー
WHOO ー
背中から〈外〉が開き
周りの世界、横の世界、前にある世界
もとは外だと思っていた世界
を縮めていく
腕が横まで回ったとき
(翅が広がったとき)
世界は腕の中にある
世界は手の内にある
世界は実は〈中〉にあったのだ
私たちは世界の中に存在しているのではない
世界が私の〈中〉にあるのだ
まさにクラインの壺の神秘である
※『〈仏教3.0〉を哲学する』を読んで心に浮かんだイメージを表現してみました。あえて言うならば、永井均氏のp189の図(上図)と次の文章に関連しています。
〈私〉というのは全く格別の存在で、それ自体は見えない。むしろ、この視野そのものが〈私〉です。そして、ある意味ではこれが全てなんですね。この視野が、視野は一つの比喩にすぎないので、実際は意識野全体に広がりますけど、この視野がすべてで、その外はない、ということになります。
誤解のないように書き添えると、永井氏は〈私〉〈いま〉という山括弧の表現をこの本のなかでされていますが、〈中〉とか〈外〉というような表現は使用されていません。私がこの記事のなかで通常の中、外と異なる意味を感じ取っていただくために、〈中〉〈外〉と表現させていただきました。