ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

これらは実は〈中〉だった!クラインの壺の神秘

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眼から外の世界に見えているもの

テーブル、椅子、棚、床、窓、カーテン、外の景色、自分の手足

などなどのこれら

両腕を後ろに回して、手の甲を重ねてみる

蝶が翅を閉じているときのように

そこから、ゆっくりと、巨大な岩の扉を開くように

周りに見えている世界を

後ろから横、横から前へと

圧縮していく

蝶が、折りたたんだ翅を

ゆっくりと広げるように

背中から、翅の後ろの隙間から

〈外〉が開く

〈外〉は、本当は無いものだが

ウォー
うぉー
WHOO ー

背中から〈外〉が開き

周りの世界、横の世界、前にある世界

もとは外だと思っていた世界

を縮めていく

腕が横まで回ったとき

(翅が広がったとき)

世界は腕の中にある

世界は手の内にある

世界は実は〈中〉にあったのだ

私たちは世界の中に存在しているのではない

世界が私の〈中〉にあるのだ

まさにクラインの壺の神秘である

 

※『〈仏教3.0〉を哲学する』を読んで心に浮かんだイメージを表現してみました。あえて言うならば、永井均氏のp189の図(上図)と次の文章に関連しています。

〈私〉というのは全く格別の存在で、それ自体は見えない。むしろ、この視野そのものが〈私〉です。そして、ある意味ではこれが全てなんですね。この視野が、視野は一つの比喩にすぎないので、実際は意識野全体に広がりますけど、この視野がすべてで、その外はない、ということになります。

誤解のないように書き添えると、永井氏は〈私〉〈いま〉という山括弧の表現をこの本のなかでされていますが、〈中〉とか〈外〉というような表現は使用されていません。私がこの記事のなかで通常の中、外と異なる意味を感じ取っていただくために、〈中〉〈外〉と表現させていただきました。