ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

虚無感すらも無い

前回のブログで「虚無感すら無い」と書いた。これは、

「何も無い」(すなわち虚無)でも「何もないのでも無い」

という絶対否定を表した言葉だ。

「何もない」と聴くと、あるはずのものが全て失くなるような、あるいは私という存在がなくなってしまうような暗いイメージが頭に浮かぶかもしれない。

そのようなネガティブな心象(すなわち虚無感)は「悲観的シニフィエ」にすぎないと看破して、それすらも無いと否定するのが「虚無感すら無い」である。

何も無いでも、何もないのでも無い

これで頭に浮かぶイメージは空白すなわち「無」となる。「空」の円相となる。

そして次へと向かうのである。

 

以下、数年間に書いて下書に保留していた稿をアップさせていただきます。

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死後の世界があるかないかなどという話が、佐々木閑氏と科学者の大栗氏の間で交わされているところを読んでいて、死後の世界というのは、AQAL4象限でいう右上の象限すなわち個人の外面としての側面では死は厳然たる事実としてあるのであるから議論の余地はない。であるから問題となるのは左上の象限すなわち個人の内面において、有りや無しやということであろう。
意識というものが脳神経ネットワークによって生起されるものであるとするなら、肉体の死とともに意識も消滅すると考えるのが合理的であろう。

その時何もなくなるのか?すなわち実存と本質という永井氏の文脈における実存も消滅するのであろうか?

意識のコンテンツに何も立ち昇らない、がしかしそれは存在する意識(実存)というものはウィルバーによると(ラマナによると)ある(らしい)。

それを信じたり期待することに意味があるのだろうか?

私たちがなぜそうしたことを考えるのかというと、この身心が消滅すると何もなくなってしまうのではないかという「虚無」に対する恐怖であろう。

すなわち「虚無」は何か恐ろしいもの、とらえどころのない、不安で、足元のない、どこまでも底のない穴を落ちていくような、ネガティブな感覚としてとらえられている。

それはいうなれば「虚無感」である。

本当に何もなくなることは、ネガティブな感覚なのであろうか?

「何もなくなる」のではなく、「何でもなくなる」と表現してみよう。

ちょっとニュアンスが変わる。

「何でもなくなった」感覚とは、どんなものだろうか?

誕生する前のように、何でもないものに戻るのである。

ひょっとしたら、限りなく満たされている感覚がするのかもしれない。

果てしなく自由な感覚があるのかもしれない。

しかし話を元に戻すと、心身の消滅とともにそうした感覚を感受する機能も喪失するわけだから何の感覚もないはずであるといえるだろう。

何の感覚もないとは、もとの虚無である。

では、そうした自由や充満というポジティブな感覚がないと同時に、虚無感というネガティブな感覚もまたあり得ないことは論理的に明白である。

虚無感もまた感覚だからだ。

とすればいえることは、虚無感すらも無いということ。

そして死の内面は未来にしかなく、しかしその未来に到達したときそれを感受すべき身心の感覚系統は消滅しているのであるから、それは今現在の概念としてしか存在しない。そのため死の内面(左上象限)とは証明しようのない幻想であることは間違いない。

それをあれこれと想像しているのだ。

ポジティブな感覚を感じるかもということも幻想でしかないのと同様に、虚無に陥って虚無感に支配されてしまうのだろうというのもまた幻想にすぎない。

はっきり言えることは「虚無感すらも無い」ということである。

死後には虚無感すらも無い。

それは自由ではないだろうか?

自由という感覚からも解放されている「自由」といえるかもしれない。

 

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