「原初の回避」については、『インテグラル理論を体感する Integral Meditation』(ケン・ウィルバー著)にこうある。
けれどもよく観察してみると、私たちはあまりにも多くの場合、何らかのものを「見たくない」と感じています。…
ちょっとした不快な身体感覚、不愉快な考え方、見るに堪えない光景、何であれそのまま受けとめるにはあまりに不愉快であったり、苦痛であったり、憂鬱であったり、不安を感じさせるものであったり、自分に近すぎたりするものを、私たちは避けようとします。…そこから目をそらし、顔を背け、離れようとします。
しかし、この動き、この最初の小さな動きこそが、人類のあらゆる苦しみの根底にあるものなのです。私たちは天国から地獄へと、たった一歩で転落するのです。(p210-211)
We move from heaven to hell in one step.
この「天国から地獄」という印象的な表現を敢えて使用したのは、それほど極めて重要なポイントであることを訴えたかったのではないだろうか。
私たちは世界(そして一連の出来事)を分断し、良いことと悪いことに分け、悪いことを避けたり取り除こうとする。
ホモ・サピエンスが言葉を使い、生存本能が拡張された結果、私たちの種にとって普遍的な特質であり、多くの人々に一般的に見られる傾向ではないだろうか。
しかしACTで指摘されているように、物理的な次元で一般的に採用される方略(避ける、取り除こうとする)を、心理的次元に同じように適用してはいけない、かえって事態を悪くする(典型的なのは抑圧しシャドウを作ってしまう等)。
ウィルバーはこれを全景画を彩る光と陰という表現を用いて、陰を取り除いてしまっては全景画の美は成り立たないのだといっている。
(同上p209)
言うなれば、世界とは、広大な絵画のようなもの。この絵画には、存在するもの全てが描かれています。それは〈在るものすべて〉の全景画(the Total Painting of All That Is)なのです。あなたの周りに存在している世界の全て、そしてあなたの内面に存在している世界の全ては、全てを包括するこの〈在るもの全ての全景画〉の一部なのです。
そしてどんな絵画もそうであるように、そこには光と闇があり、山と谷があり、高いところと低いところがあり、鮮やかな部分と曇った部分があります。言い換えれば、一般的に「よい」とされる領域と、「悪い」とされる領域が存在しているのです。…
しかし大事なことは、そもそもその両方がなければ、この〈全景画〉は存在しえないということです。もし全ての暗部、全ての日陰、全ての影を取り除いてしまったら、絵そのものが消滅してしまうでしょう。
なるほど!ビジュアルな心象が刻印された。
それとともに(私が勝手に命名した)「ヘキサキューブ」にシナプスが繋がる。
二次元では分断のヘキサゴン、三次元ではひとつの立体キューブとなるあの図形である。
ヘキサゴンに対角線を引いて分断された6つの三角形のいくつかに陰をつけてみる。(頭の中で想像してみて下さい)
ヘキサゴンは「原初の回避」によって「原初の境界」が生じ分断された世界の象徴だ。
世界には、あるいは人生には光と陰があることをシンプルに表現している。
この同じ図形をキューブとして見てみよう。
光が当たっているキューブの外側の表面が白っぽい。それに対し黒っぽいのはどうもキューブの内側の面のようだ。
そうか、いくつかの内側の面には光が届かず、陰となって黒っぽく映っていたのだ!
光のもとに出してみると同じ白なのだが光が届かないため黒っぽく見えるのである。
なにか暗示的な気がする…
このことに気づいた瞬間、黒はただの陰となる。Awarenessの光に照らされたなら、陰は、例えばペインボディのようなネガティブなものは、もはや黒ではない。卑金属は金に変えられる。これぞトールのいう「パウロの錬金術」ではないか。
無視せず、取り除こうとせず、拒絶しないでWillingness あるいはLetting go !
生命の躍動を感じる「価値」の山に向かって好ましからざる乗客も乗せてただただ走るのである。
エスビューロー事務局長のブログ: アクセプタンスとコミットメント
その登山路では美しい陰影のある全景画が観られるにちがいない。