新年あけましておめでとうございます。
まず、このタイトルを元日の記事に持ってきたのは、忘れてはならない貴重なコンセプトであると、昨年10月ごろから幾度となく思い返したからです。
私たちは得てして、過去に経験したネガティブ(と感じた)な出来事〈event〉に対して、悲観的な心象イメージを貼り付けてしまい、再びそのeventが近い未来に生じる時、過去と同様に暗いイメージを抱いてしまうことがあります。そして、月並みで無意識な対応、すなわち考えないでおこうとか、そのeventの予定自体をキャンセルしてしまおうとか、というような対応を取ったりしてしまいます。
しかしこのように嫌なことを、先送りしたり、周縁化したり、抑圧したりしていると、どんどん類似の事柄が増えてきて、嫌なことばかりで身動きが取れなくなってしまいます。
これはホモサピエンスが食物連鎖の頂点に君臨するうえで私たちが手にした「記憶」と「ことば」の副作用でもあります。(cf.NHKスペシャル病の起源「うつ病」、「関係フレーム理論」※)
しかしミンゲール(cf.カテゴリーのヨンゲイ・ミンゲール)が言うように、これはピンでとめた昆虫採集の蝶のごとく、そのイベントに貼り付けた悲観的な心象イメージ(≒シニフィエ)にすぎません。
「裸足で歩いている僧にとって歩いているときに砂利道が現れ、その上を歩かねばならないとしたら、一般的にはネガティブな出来事ととらえられる。しかしこんな所で足つぼ健康法を実践できるとは誠にありがたいと、考えることもできる」わけです。
すなわち、そうした困難なeventに遭遇した時に、そのeventや状況を中立にとらえて感情を交えずdescriptionすることと、そのeventを評価することを切り分けるのです。これはACT(cf.カテゴリーのACT)でいう「脱フュージョン」です。そして脱フュージョンしたのちポジティブな解釈を貼り付け直します。
上の例では「砂利道を裸足でいかねばならない困難」(悲観的シニフィエ)→このことは本当に困難なことか?先入観にすぎないのでは?(本質の無化※、シニフィエ看破)→足つぼ健康法を実践する機会に恵まれた!(新たなポジティブ解釈)への転換です。
そしてこの悲観的シニフィエを看破することによる本質の無化→意味の再構築は、二つのことを連想させます。
一つ目は、ソシュールの言うように「意味は文脈に依存する」ということです。
barkという単語が(犬の)吠え声を意味するのか、木の皮を意味するのかは、前後の文脈によって判断するしかありません。
意味は文脈に依存しているのです。
Eventの意味も同じでしょう。同じeventでもそのことをどのような心構えで行うのか、そして過ぎ去った後、そのことをどう解釈するのかによってeventの意味は大きく変わります。
大谷翔平も肘の靱帯を痛めて手術したこと、その翌年にはさらに膝を痛め離脱せざるを得なかったこと。これらの不遇の意味は、単なるリハビリを超えて投球ホームや打撃スイングまでも改造することで、大きく書き換えられました。まさに文脈を再構成することによって、不運と思われるeventの意味を、世界が称賛する物語へと再構築したのです。
「不運に見せかけた幸運」(ジョンレノンの妻オノヨーコ)の代表例と言えるでしょう。
二つ目には、事事無碍法界とはこのようにして達成されるものかもしれないということです。
まずは悲観的シニフィエを看破する。すなわち本質を無化する。すべての事物は依他起性であり自性の無い「空」であると看破する段階を経て、すべての事象と、観念を固定することなく融通無碍にかかわれるようになること。
すなわちシニフィエを無化するまでもなくネガティブな心象どころか、固定したシニフィエすらも初めから貼り付けもせず、事象のありのまま(suchness)に接することができる。こうしたあり方で経験の凹凸を次々とこなしていける。それはある種の「フロー」なのではないでしょうか。フローLife ver.といえるかもしれません。
そこまではいきなり行き着けないかもしれませんが、「看破し続ける」ことで、還暦越えの残りの人生を「闊歩する」ことができるようになるのでは...
そうした志(こころざし)の意を込めて
「悲観的シニフィエを看破し続け闊歩する」
を年初のタイトルと致します。
本年もよろしくお願いいたします。m(__)m
※例えば「木」というコトバを目にし、耳にした時に心に浮かぶイメージや概念をシニフィエといいます。ここでは過去に経験のあるような出来事(event)に接するときの心象イメージまで拡大してシニフィエと表現しました。
(以下、※参照記事です)