ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

球技はなぜ楽しいのか(自己と世界を媒介する球)

蹴聖(しゅうせい)といわれた藤原成通の日記によると…

1000日休まず蹴鞠する千日行の夜に毬の精が出てきた。人が蹴鞠をしているときに鞠に憑き、しなくなると柳の林に戻ると言った、

とある。

 

鞠や球に不思議な力があるのだろうか。

 

私の好きな卓球でも、一体なぜ、こんなに多くの老若男女が楽しんでいるのだろうか。

 

本当の自己とは本当の世界であり、そこに分離はない。神秘家は、時に、自己もなければ世界もない、という言い方をする。しかし彼らが言いたかったのは、自己と分離した世界もなければ、世界と分離した自己もない、という意味であった。エックハルトはそれを混乱なき混合(統合)と呼んでいる。

The real self is the real world, no separation, so sometimes the mystics will also say there is no self, no world. But that's all they mean, no separate self, no separate world.  Eckhalt called it fusion without confusion.

(『グレース&グリット』CW5:122)

 

球が自己と世界を結ぶからではないか?

 

球には「1点を中心に集まる」の意味があるという。

球は自分と対戦相手、味方チームと敵チーム、審判、観客の視線を一点に集め、心を揺さぶり、場全体の空気を支配する。

局面は刻一刻と移り変わるが、1球の影響は次の1球に及び、次の1球もさらに次の1球に、そしてそのまた次へと波紋を拡げてゆく。
球は空間的にも時間的にもそこに繰り広げられる世界の中心となって、自己と世界を結び続ける。
自己が繰り出す球が場を構成し、フルセットジュースになってから繰り出されるサーブの1球、マッチポイントの1球に会場の視線は集中し、数秒後の世界がその1球で決定する。

その最後の1球には、試合の始まりからのすべての球が集積されている。

否、彼がこれまでの人生で打ち込んできたすべての球が蓄積されている。

その1球は、彼の人生の化身だ!

その最後の球が、数秒後のその会場の世界を創り出す。

その1球のエネルギーが会場に広がり、帰宅した家へと伝播し、妻、そして子どもへと伝わって行く…

 

自己と世界は複雑系である。球はそれを媒介する複雑系の担い手として、自己を世界につなぎ、世界を自己につなぐ。


弾かれた球は、自己と世界の間で共鳴し、自己は世界を変え、世界は自己を変える。

 

球技は、なぜ楽しいのか?

それは、自己と世界の実相を垣間みせてくれるから、ではないだろうか。