ケンウィルバーの『存在することのシンプルな感覚』(The Simple Feeling of Being)は、訳者松永さんも言われたように最終章がたいへん素晴らしいのですが、私は「目撃者」とタイトルがふられた第1章にも大いにインスパイアーされました。その中に『〈仏教3.0〉を哲学する』p110の第五図(出典:内山興正著『進みと安らい―自己の世界』)の示しているものを、違う形ではあるが大変うまく表現していると思われる一文がありましたので、紹介したいと思います。
『〈仏教3.0〉を哲学する』の第五図については先月
で取り上げました。
第五図は坐禅をしている絵ですから、坐禅しているこの自己は、「アタマの展開する世界」の中に「わが生命」を「その一員として投げ込んで」はいないんですね。「わが生命」は第五図の場合には中に入っていないで、外に出ているんです。中に入って、その一員として何かヤリトリはしていないで、その様子を外から観ているんですね。
と、永井均さんが語られた、あの〈私〉です。その第五図の〈私〉を実感するために以下のウィルバーの文章を是非ご一読ください。
(以下、『存在することのシンプルな感覚』の第1章「目撃者」より引用)
わたしはたくさんのことを疑うことができる。しかし、今、この瞬間におけるわたし自身の意識を疑うことはできない。わたしの意識は「ある」。それを疑おうとしても、疑っているのはわたし自身の意識である。わたしは、今、自分の感覚、知覚に提示されているのが、完全にヴァーチャルな、あるいはデジタルなリアリティであって、精密な映像であると想像することはできる。しかし、そうしたリアルな映像を見ているのが、わたし自身の意識であることは疑うことはできない……。
今、この瞬間における意識の、こうした疑うことのできない性格が、直ちに、この瞬間における存在の確かさを伝えてくれる。現在、ただ今、「存在している」(ある)ということの確かさを。なぜなら、それこそ、すべての知ること、見ること、存在することの基盤(ground)だからだ。
わたしとは誰か。この疑問を何度も何度も繰り返す。深く、繰り返す。わたしとは誰か。わたしの中にあって、今、この瞬間、すべてを意識しているものは何か。
・・・意識の対象は疑うことができる。しかし、そう疑っているものは、疑うことはできない。すべての現象を目撃しているものの存在は、疑うことはできないのである。それゆえに、目撃者に安らぐことである。・・・この確実性は、自分で感じる純粋な意識のなかにあって、対象はそのなかに現れてくる。確実性は、対象自体のなかに存在しているのではない。あなたは決して神を見ることはできない。なぜなら神は見ている者であり、有限で、時間や空間に拘束されている、見られる対象ではないからである。
この純粋な「わたしは・ある(I AM)」という状態は、達成するのが困難なのではない。避け得ようのないものなのである。それは常に現前しており、疑いようのないものなのである。・・・それは、今、この瞬間、このページを見ているものである。その「一者」を感じないだろうか。・・・
わたしとは誰か、わたしとは誰か、わたしとは誰か、深く問い続けよ。
わたしは、自分の感覚に気づいている。ならば、わたしはわたしの感覚ではない。ではわたしとは誰か。雲が空に漂っている。思考が心のなかに漂っている。感情が体のなかを漂っている。わたしは、そのいずれでもない。なぜなら、わたしはそれらすべてを目撃するものだからだ。
わたしは、雲が存在するのか、感情が存在するのか、感情が存在するのかなどと疑うことはできる。しかし、今、この瞬間、それらを目撃している意識は疑うことはできない。なぜなら、疑いという行為を目撃しているのが目撃者の意識だからである。
わたしは、自然のなかの対象ではない。身体のなかの感覚ではない。心のなかの思考ではない。なぜなら、わたしはそれらすべてを目撃することができるからだ。無限に広がり、空であり、明晰であり、純粋であり、透明なこの「開け(Openness)」は、公平に、あますところなく、起こることすべてに気づいている。自在にすべてを映し出す鏡として。
すでに、この「偉大な解放(Great Liberation)」を少し、感じられたのではないだろうか。今、この瞬間の気づきに安らぐ。すでに単なる客体、単なる感情、単なる思考の窒息するような拘束から自由になった感じを味わっているのではないだろうか。すべての対象は、来たりては、去る。しかしあなたは、この広々とした、自由で、開け放たれた「目撃者」であり、対象の苦しみ、拷問からは、離れているのだ。
この純粋な「開け」、神聖な「自己(Self)」、無形の「目撃者(Witness)」、原因としての「無(nothingness)」、広大な「空(Emptiness)」のなかに「すべて」が起こり、しばらくのあいだとどまり、やがて去っていくということ、そしてあなたはこの「開け」そのものである、ということ、これこそ、深遠な発見である。あなたは身体ではない、思考ではない。これでもない、あれでもない。あなたは「空」であり、「自由(Freedom)」であり、「開け」であり、「解放」である。
この発見……あなたはすでに半分の道を往っている。あなたは、すべての有限な対象から自分を切り離した(自己同一化を脱した)。あなたは無限の意識として安らいでいる。あなたは自由であり、オープンであり、透明であり、光を放つものであり、空間に先立ち、時間に先立ち、涙と恐怖に先立ち、苦しみ、苦痛、死に先立つ存在としての至福の空に浸されている。あなたは、偉大な「不生(Unborn)」、「深淵(Abyss)」、属性をもたない基盤(Ground)を見つけたのである。それはかつてあり、今もあり、これからもあり続けるグラウンドである。
しかし、なぜそれが半分の道なのか。なぜなら、あなたがこの意識の無限の安らぎにとどまり、すべて自然に起こることに気が付いている時、やがて最後の自由(Freedom)と充満性(Fullness) への「突破」(great catastrophe)が起こるからである。
〔注:( )内の英単語は原書を参照し追記しました〕
私たちは例えば、部屋の中でイスにすわっているとき、「部屋のなかに私はいる」と自覚しています。これが通常の感覚ですが、一方で、「私の意識のなかに部屋がある」ということもできる、とウィルバーは言います。
ここでいう「私の意識」こそ、今回テーマとした「疑いようのない意識」です。
2次元で見たヘキサゴンは6角形ですが、その6角形に対角線が入った図形は3次元の立方体(キューブ)として見えます。
これが、私のいう「ヘキサキューブ(hexa-cube)」です。
頂点を結んだ対角線は2次元平面では内側に引いた線ですが、立方体としては外の辺をなぞっていることになります。見方によって視点によって内と外が入れ替わるのです。
第五図で「その様子を外から見ている」とは、ヘキサキュ―ブのように見方によって内と外が入れ替わり、部屋は自分の外にあると思っていたが、自分の意識の内に部屋はあったのだ、ということです。
しかしこれは半分の道であると、ケンウィルバーは言います。では残りの半分はというと、それが第六図になります。このことについては次回、書きます。