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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

〈自己=世界〉と「常に現前する気付きの意識」

Awareness Presence(現前、現存) Witness(目撃者) 今ここ 永井均 存在することのシンプルな感覚

仏教3.0を哲学する』のp110、P111に描かれている第五図、第六図がとても興味深いです。この絵にあるような「自己ぎりの自己」すなわち〈自己=世界〉を実感を持って確立するためにはどうすれば、あるいは「どうあれば」いいのだろうかということを改めて考えました。

そして今朝、坐っていて、やっぱりこれだと思い至ったのは、ケンウィルバーのいうEver-Present Awarenessです。「常に現前する気付きの意識」と松永太郎さんは訳されました。

まず、『仏教3.0を哲学する』の第五図は、次のように描かれています。

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これは、山下良道氏いわく「映画の中に入ってしまわないで、映画を見ている自分に気づいている」状態です。

以下、永井均氏の言葉を引用します。

「わが生命」は中に入っていないで、外に出ているんです。その一員として何かヤリトリはしていないで、その様子を外から見ているんですね。だから、「たんなる人間としての自分ではない」とも言われています。

じゃあいったい何だと問われたなら、もちろん何でもない。本質ではなく、存在、実存そのものです。何でもないのですから、もちろん誰でもないです。

一員として投げ込まれて、分別や比較や価値づけによって他人とヤリトリはしていないような、だから体験する自己と体験される世界の区別がもはやないような、独我的=無我的な自己、つまり〈自己=世界〉であるような自己で、これが最後の第六図に表されている「自己ぎりの自己」であるわけです。(引用ここまで)

 

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坐禅している人の頭の位置にあるスクリーンに描かれている絵は第四図として出てくるAとBがいっしょに描かれていますが、
「アタマが展開した世界に住む人間」
A 逃げたり追ったり
貧乏・不幸から逃げ、金・幸福を求める
B グループ呆け
思想や主義で集団を形成して争う
例)ユダヤ教徒 VS マホメット教徒  於: エルサレム
と書かれています。

人間は言葉を発明したせいで「アタマが展開した世界」に住んでしまっている。個人としては、A 逃げたり追ったりし、グループでは、B 思想や主義で集団を形成して争う、ことになる。そうしたことをある種、運命づけられているといえます。

「アタマが展開した世界に住む」とは山下氏のいう「映画のなかに入ってしまっている」ことで、これは熊野宏昭氏のいう「思考の黒雲の中に巻き込まれている」こと、私の用いてきた喩えでは「風船の中、あるいは吹き出しの中に頭がすっぽり入ってしまった」状態を言います。

それを永井氏は中に入っていないでその様子を外から見るのが第五図だといっています。
雲から出て思考という雲を外から見ること。風船あるいは吹き出しから頭を外に抜くことです。

 

では、このような「あるがまま」の認識は、どのようにすれば達成できる、あるいは獲得できるのでしょうか?

ケンウィルバーの『存在することのシンプルな感覚』の第9章は、次のようなことばで始まります。

「スピリット」はどこにあるのだろうか?いったい聖なるものとみなされることが許されるものとは何か?「存在の基底」とは何か?何が究極の「神聖なるもの」なのか?

第9章は、「常に現前する意識の輝くような明晰性」というタイトルで、英語では
The Brilliant Clarity of Ever-Present Awareness
となっています。その第一節から、以下に引用します。

もっとも高次の形態においては、「スピリット」の「偉大な探求」という形をとる。わたしたちは、罪や幻惑や二元論に満ちた目覚めていない状態から、もっとスピリチュアルな状態へ移行したいと思う。私たちは「スピリット」のないところから「スピリット」のある場所へ移行したいと願うのである。

しかし、「スピリット」のない場所はない。・・・
「スピリット」が不在の場所などない。・・・

もし「スピリット」が偉大な探求の未来の産物として見出されることがないのであれば、選択肢は、たった一つしかない。

「スピリット」は現在、たった今、完全に、完璧に、現前しているのであり、そしてあなたは、それに完全に、十全に気づいているはずだ、ということである。・・・

覚醒それ自体、気付きの意識(awareness)それ自体は、いつも完全に、十全に、現前しているのである。・・・

現在に私たちの気付きの意識(awareness)のうちに、すべての真実が含まれているに違いない。・・・

あなたが、今、見ているものが、答えである。「スピリット」は100%、あなたの知覚の中にある。・・・文字通り、100%の「スピリット」があなたのアウェアネスの中にある。

そして、秘密とは、常に現前しているこの状態を認識することであって、未来において「スピリット」が現前するように仕組むことではないのである。

この、常に、すでに現前する「スピリット」をありのままに単に認識することこそが、偉大な非二元の伝統なのである。(引用ここまで)

 いかがでしたでしょうか?

いきなり「スピリット」という単語が出てきましたが、『仏教3.0を哲学する』の文脈では「実存」という単語に置き換えてもいいかもしれません。

どのように達成されるのでしょうか?と自問しましたが、その答えは「達成」するものだという前提が間違っているということです。同時にどのように獲得するかという問いも間違っています。それは獲得できません(無所得)。すでに獲得されているものだからです。達成するものなのでもなく、「ありのままに単に認識すること」だと書かれています。

秘密とは、常に現前(ever present)しているこの状態を認識すること。
すなわち「すでに常に現前する気付きの意識」Ever-Present Awarenessにあるのだということです。

ケンウィルバーがよく引く喩えとして、日曜日の新聞などに出ている「隠し絵」があります。「この景色の中に20人の有名な人の顔が隠されています。誰だかわかりますか」というあの隠し絵です。

その顔はケネディだったり、リンカーンだったり、最近ではトランプ大統領であったりします。私たちはまっすぐ、その顔を含めて絵全体を見ているのですが、はじめはそれと認識できません。しかし一度それを認識すると、それ以降はもう簡単に隠れた顔を認識できるようになります。

そしてこの隠し絵がもはや隠し絵でなくなるような認識を得ると、「A逃げたり追ったり」、「Bグループ呆け」の夢から覚めることができるということなのでしょう。

〈自己=世界〉は、「常に現前する気付きの意識」として認識されるのだと思いました。