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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

アイデンティティを強めようとする傾向に気づく

マズロー わたし ACT エックハルト・トール ILP(インテグラル・ライフ・プラックティス)

20歳代の後半だったように思う。自分はいったい何がしたいのか。何が生きがいなのか?
どんな時に仕事にやりがいを感じるのだろうか?とよく考えたことがあった。

そのときの結論はかなり長い間、私の中で疑問視されることなくあった。

その時に得た結論は、

 以前の自分より、向上できた時に生きがいを感じる。→向上

 誰かに、あるいは何かに、貢献できた時にやりがいを感じる。→貢献

 自分ならではのものを、創造できた時にやりがいを感じる。→創造

向上、貢献、そして創造。この3つだと感じていた。そしてこの3つは別々なのではなく、トライアングルの関係にある。

すなわちこれらの組み合せ。

 自分ならではのものを創造できる次元にまで、以前の自分より向上できた。→創造的向上

 自分ならではのものを創造して、何かに貢献できた。→創造的貢献

このように「創造的向上」や「創造的貢献」ができたと実感できた時に、自分は生きがいや、やりがいを感じるのだ・・・と考えていた。

それは主に、コンサルタントとしての自分をふり返りながら得た、自分なりの結論であった。

そしてこれは一言でいうと向上、貢献、創造という形の「アイデンティティの発揚」なのだとも考えていた。

すなわち、自分がしたいこと、自分の強い欲求は、いうなれば「アイデンティティを発揚したい」ということなのだと、そのとき思った。
発揚という言葉が適切であったかどうか疑問だが、当時は「発揮でもなく高揚でもなく発揚だ」と思ったと記憶している。

そしてこうした欲求は、マズローの5段階欲求説の、第4段階「承認の欲求」と第5段階「自己実現の欲求」に対応したものであると考えていた。


しかし

しばらく前から、といっても2~3年前ぐらいであろうか、薄々感じていたことではあるが、

それが、最近、はっきりと、

このようなアイデンティティを強め、高めようとする傾向が、

自分を苦しめるもとにもなっているのだ


ということが分かってきた。

こうしたアイデンティティを強め高めようとする傾向は、必然的に「I, my, me, mine」という自我の意識を強くする。

いつも、心のなかで思考していることに「私」が張り付いているのだ。

そしてそれを良くないとは決して思わない。

むしろもっと、もっと自分はアイデンティティを実感できるようになりたいと欲する。


しかし

これはACTの言葉でいうと「概念としての自己」を増強させてしまう。

エックハルト・トールのいうエゴと自分を同一化してしまうのだ。

そうした傾向が苦しみを生んでいるとは、よもや思いもよらない。

自分を定義することは、自己と他者の間、自己と世界の間に、明確な線を引き、分断することでもあるのだ。

であるから、気づこう。

いつの間にか「私が」「私の」「私に」「私のもの」という思考に、浸ってしまっていないか。

いまとっている行動、いま話していることは「アイデンティティを増強したい」という動機に駆られていないか。
・・・

アイデンティティを強めようとする傾向に気づく

これが本当の意味で、「自己同一性の知性」の成長につながるのである。

私とは誰か?自己同一性のライン - ウィルバー哲学に思う