ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

表層意識における概念的「本質」

井筒俊彦著『意識と本質』では、否定的な本質論と肯定的な本質論、表層意識レベルの本質論と深層意識における本質論などなどについて語られている。そのはじめとして今回取り上げる「本質」は表層意識レベルの本質であり、概念的な本質、禅で徹底的に否定されるべき本質(参照2016/11/8「無我とは本質なき実存、主体としての空」)である。

無我とは本質なき実存、主体としての空 - ウィルバー哲学に思う

本書を読み進めていく中でこのブログで触れてきた内容との共通性がいくつか想起されたが、まずはソシュール言語学でいうところのシニフィエ、コージブスキーの示した構造微分図、ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)などとの関係に触れることで理解を深めたいと思う。

 

井筒は『意識と本質I』でサルトルの『嘔吐』にある言語脱落(本質脱落)を見事に形象化した例として主人公がマロニエの根をベンチで見た時の描写を取り上げている。それがマロニエの根であることに気付かない短い時間に感じた「全く生のままのその黒々と節くれ立った、恐ろしい塊」に対する嘔吐的体験である。

 

サルトルが『嘔吐』で描いた本質については、Eテレ『100de名著』で「実存は本質に先立つ」というフレーズで解説されていたことを思す。ペーパーナイフでいうなら「切る」という働きが本質である。したがって職人は「切れる」という機能を有するナイフを最初から作ろうとするが、人間はそうではない。人間は生まれながらに医者や教師という働き(本質)が決まっているわけではなく、成長してからその人に適した働き(本質)が定まるのである。すなわち「実存が本質に先立ってある」のである。確かそういう話だった。

 

そこでは、モノの本質を、そのモノの機能や働きとしてとらえていたが、前のマロニエの根の例では、本質とは、それが「何であるか」という「概念」そのものを指している。

 

そうした概念はどこから来るかというと、コトバの本来的意味作用から来る、と井筒はいう。

(以下引用)

コトバの意味作用とは、本来的には全然分節のない「黒々として薄気味悪い塊り」でしかない「存在」にいろいろな符牒をつけて事物を作り出し、それらを個々別々のものとして指示するということ

 

老子的な言い方をすれば、無(すなわち「無名」)がいろいろな名前を得て有(すなわち「有名」)に転成するということである。

 

およそ名があるところには、必ずなんらかの形での「本質」認知がなければならない。だから、あらゆる事物の名が消えてしまうということ、つまり言語脱落とは、「本質」脱落を意味する。そしてコトバが脱落し、「本質」が脱落してしまえば、当然、どこにも裂け目のない「存在」そのものだけが残る。・・・それが「嘔吐」を惹き起こすのだ。(引用ここまで)

 

 

(なぜ、嘔吐なのか?それはこの『嘔吐』の主人公が深層意識の次元に身を据えていない、…実相を視る…それだけの準備ができていないからであるというくだりは大変面白いのだがここでは省略する。)

 

本質脱落=言語脱落であるという。コトバの本来的な意味作用に重要なポイントがあるのだ。このことを別の角度から考えてみよう。

 

ここで思い出すのは、このブログでも何度か取り上げたことのあるソシュール言語学でいうところのシニフィアンシニフィエの関係だ。

 

 

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シニフィアンとは語のもつ感覚的側面のこと。たとえば、海というコトバなら「海」という文字や「うみ」という音声のことである。一方、シニフィエとは、このシニフィアンに表象された海のイメージや海という概念ないし意味内容のこと。シニフィアンシニフィエとの対のことを「シーニュ」(signe)すなわち「記号」と呼ぶ、などと一般的には説明される。

 

 また指示対象そのもののことをレフェランという。

 

ウィルバーは『科学と宗教の統合』でこう書いている。

(以下引用)

ソシュールによれば、言語的な記号(シーニュ)は物質的シニフィアン(書かれた言葉、話された言葉、このページ上の諸々の符号)と概念的なシニフェ(シニフィアンに触れた時に心に浮かぶもの)で構成されている。両者とも実際のレフェラン(指示対象)とは異なる。たとえば木を見ているとすると、その実際の木がレフェランである。書かれた言葉「木」(tree)がシニフィアンであり、その「木」(tree)という言葉を読んだときに心に浮かぶもの(イメージ、想念、心的映像や概念)がシニフェである。シニフィアンとシニフェが合わさってシーニュ全体を構成している。(引用ここまで)

 

 

したがって、井筒のいう表層意識における概念的な本質とは、ソシュールのいうシニフィエであるといっていいだろう。本質≒シニフィエだ。

 

このシニフィエを「わたし」に当てはめたのがACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)でいう「概念としての自己」である。これについては次の機会に取り上げる。

 

絶対無分節の「存在」と、それの表面に、コトバの意味を手がかりにして、か細い分節線を縦横に引いて事物、つまり存在者、を作り出していく

 

それが人間意識の働きであると井筒は書いている。

 

中川吉晴氏のいうコージブスキーの構造微分図を思い出した。

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中川吉晴著『気づきのホリスティック・アプローチ』を参照しながらリアリティが抽象化してしまう過程を振り返ってみたい。まず一番上はEvent(出来事)の次元である。いま起こっていることの全体であり、ありとあらゆる現象を含んでいる。Eventレベル≒絶対無分節「存在」の次元、と位置付けてよいだろう。

その下にある円状の部分はObject、すなわちモノ(対象)の次元である。知覚が人間の神経器官によって限定されるので、人間がそれとして知ることのできるのはこの次元からであり、すでに「第一次の抽象化」が働いている。しかしこのレベルは言い表せないモノのレベルであり、コトバにならないある種の感じ(feeling)として把握される。こうした言語以前の原感覚も意味を含んでおり、人間の生存がそれに基づいているため最も重要である、と中川氏は書いている。

 

これ以下はすべて「ラベル(名づけ)」の次元であり、ここから以降は言語化をともなって抽象化が進む。言語化レベルのはじめの段階は記述(Descriptive)のレベルだ。

 

ACTでは、この「記述」レベルとそれ以降の主観をともなったレベルとの識別を重んじることから、この境目は構造的に異なる次元にあることを、ぜひ覚えておきたいところである。

 

その下は、推論(Inference)のレベル。そして総合的な判断(Generalization)のレベルへと下降し、それ以降の思考過程に終わりはない。

 

コージブスキーはモノの次のレベルを「ラベル(名づけ)」としたが、中川氏いわく「モノ」の次のレベルとして「シンボル化」があり、その次に「概念化」がある。「概念からシンボルへ、さらにシンボルから(微細な)体験過程へと遡っていくことが必要なのである」という。フォーカッシングにつながる流れだがここでは詳しく触れない。

 

話を元に戻すなら、井筒のいう表層意識における本質とは、大乗仏教がナーマルーパ(名と形)とよぶ妄念の描き出す画像であり、禅が徹底して否定する「本質」のことである。それはコトバの働きと密接な関係がある。ここでいう本質は「木」というコトバを目にし、耳にした時に心に浮かぶイメージや概念としてのシニフィエであり、実際の指示対象であるレフェランとしての木の豊饒なリアリティから多くのものが削げ落ち矮小化されたリアリティなのである。

あるいは、推論、判断などによって歪められることを余儀なくされたリアリティなのだ。

 

井筒はいう。

概念的「本質」の世界は死の世界。みずみずしく生きて躍動する生命はそこにはない。だが現実に、われわれの前にある事物は、一つ一つが生々と自分の実在性を主張しているのだ。

 

 であるから、「本質を無化する」ことが極めて重要なことになってくる。次回ACTでいう「脱フュージョン」との関連においてこのことを取り上げてみたい。

 

1/allではなく、all/allとして観るために

『〈仏教3.0〉を哲学する』のp218で藤田一照さんがいいます。

(以下引用)

それで二つの自己というのを、すでに内山老師は言っていて、僕らは普通には1/all(オール分の1)という自分を自分だと思い込んでいるっていうんですよ。これが今までの議論だと平板な私に相当します。・・・坐禅というのは、尽一切自己が尽一切の自己に帰っていることだというんです。それはもちろん道元から来ているんですけど、尽一切、つまり全ての全てであるというのが自己であると道元さんの著書に書いてあって、これを数式で表すと、all/all(オール分のオール)ということになるんだと内山老師は言うんです。(引用ここまで)

  

1/allである自分とは、世界のなかに存在している私、永井さんのいう「私」に対応し、all/allである自己とは、自己=世界であるような私、永井さのいう〈私〉に対応しています。

 これと同様のことを、ウィルバーが『ワン・テイスト』のなかでうまく表現しているところを紹介したいと思います。松永太郎さんの訳と、原書の英文を部分的に対応させました。

(以下引用)

人々がよく感じるのは、人生に捕えられている、世界に捕えられている、ということである。なぜなら、人々は自分たちが、実際に世界のなかにいるように感じ、それゆえに、世界はまるで虫のように自分たちを叩き潰すことができる、と感じているからである。しかしこれは事実ではない。あなたは世界のなかにいるのではない。世界があなたのなかにあるのである。

You are not in the universe; the universe is in you.

 

典型的な考え方の方向はこうである。わたしの意識はわたしの体のなか(ほとんどは頭のなか)にある。わたしの体はわたしの部屋のなかにある。部屋は家のなかにある……。これはエゴの見方からすれば事実であっても、真の「自己」の見方からすれば、まったく真実ではない。

That is true from the view point if the ego, but utterly false from the viewpoint of the Self.

 

もしわたしが「目撃者」に落ち着けば、すなわち形をもたない「私―私」に落ち着けば、明白なのは、今、ここにおいて、わたしはわたしの体のなかにはいないということ、わたしの体はわたしの意識のなかにいるということである。

If I rest as the Witness, the formless I-I, it becomes obvious that right now, I am not in my body, my body is IN my awareness.

わたしは、わたしの体を感じることができる。それゆえ、わたしは、わたしの体ではない。わたしは純粋な「目撃者」であり、その意識のなかでわたしの体は生起している。

I am the pure Witness in which my body is now arising.

わたしはわたしの体のなかにいるのではない。わたしの体が私の意識のなかにいるのである。であるがゆえに、意識のままであれ。

I am not in my body, my body is in my consciousness. Therefore, be consciousness.

 

わたしが「目撃者」に落ち着いている時、この無形の「私―私」に落ち着いている時、明らかなのは、私はこの家のなかにはいない。この家は、私の意識のなかにあるということである。私は純粋な目撃者であり、その意識のなかで私の家は生起しているのである。わたしは家のなかにはいない。家がわたしの意識のなかにある。であるがゆえに、意識のままであれ。

I am not in this house, this house is IN my awareness. I am the pure Witness in which this house is now arising. l am not in this house, this house is in my consciousness. Therefore, be consciousness.

 

家の外を見る。大地、大きな空、ほかの家、道や車などを見る。簡単に言えば、私の前の世界を見る。この時、目撃者に、無形の「私―私」に落ち着けば、今、ここで、世界はわたしの意識のなかにある。私は純粋な目撃者であり、その意識のなかで世界は生起している。であるがゆえに、意識のままであれ。

…and if rest as the Witness, the formless I-I, it becomes obvious that right now, I am not in the universe, the universe is IN my awareness. I am the pure Witness in which this universe is now arising, I am not in the universe, the universe is in my consciousness. Therefore, be consciousness.

 物質としてのあなたの身体は、物質としての家のなかにあり、物質としての家は、物質としての宇宙のなかにある。それは事実である。しかし、あなたは単に物質ないし物理的な存在なのではない。あなたは意識としてのこれそのもの(如)なのである。

But you are not merely matter or physicality. You are also Consciousness as Such, of which matter is merely the outer skin.

その時、物質は単に皮膚のようなものに過ぎない。

 

エゴは、物質的な見方をとる。したがって常に物質的なものに捕えられる。物理的な苦痛にとらわれ、苦しめられる。しかし苦痛もまたあなたの意識のなかで起こる。あなたは苦痛のなかにいるのか、それとも、苦痛をあなたのなかに見出すのか。

But pain, too, arises in your consciousness, and you can either be in pain, or find pain in you, so that you sound pain, are bigger than pain, transcendent pain, as you rest in the vast expanse of pure Emptiness that you deeply and truly are.

後者であれば、あなたは、深々と真のあなたである空性の広大な「開け」に落ち着いて、苦しみをとりまいて、苦しみよりも大きくなり、苦しみを超越することができる。

 

 もしわたしがエゴとして収縮すれば、わたしの身体はこの家のなかに、この家は宇宙のなかにとらえられている。しかし、もし広大で空なる目撃者の意識に落ち着けば、私は身体のなかにいるのではなく、身体がわたしのなかにいる。私は家のなかにいるのではない。家がわたしのなかにある。私は宇宙のなかにいるのではない。宇宙がわたしのなかにある。このことが全く明白になってくるのである。すべては広大で開けており、純粋で光り輝く原初の意識の空間のなかで生起しているのである。それは今、今、今、常に永遠に今、ここで生起しているのだ。それゆえに、意識のままであれ。(『ワン・テイスト』より)

All of them are arising in the vast, open, empty, pure, luminous Space of primordial Consciousness, right now and right now and forever right now.

   Therefore, be Consciousness. (引用ここまで)

 

 

いかがでしたでしょうか?

 1/allは通常の世間レベルの見方で、この世界のなかに私は孤立して存在しているという見方です。私たちは通常、世界のなかに家があり、家のなかに私がいると認識しています。

 それに対しall/allとは、自己=世界となるような、実はこれしかない、その外側には何もない、というような見方です。わたしの原初の意識の空間のなかに世界が生起しているのだ、とウィルバーは言います。

 

そうか!これが法話「あの世めぐり」の答えなのだ、と閃きました。

nagaalert.hatenablog.com

目の前に展開している事象はまったく同じであっても、自己認識の違い、すなわち「1/allとしての自己」としてしか存在しないか、そうではなく「all/allとしての自己」としても存在しうるか、その違いにより、行動が大きく異なってくるということの喩えなのです。

 

冒頭の藤田一照さんの表現に「平板な私」とありました。この表現はまさに私が「ヘキサ・キューブ」と呼ぶ図形を、対角線のある平面六角形として観た場合の認識です。しかしこのヘキサ・キューブは、同時に立方体として観ることができます。

 

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平面六角形の内側にある対角線のように見えていた線分は、実は外側の輪郭の視点から立方体の内側を見ていたのでした。

1/allの「私」は世界のなかに存在していると思っていたけれど、むしろall/allである〈私〉の意識のなかで世界は生起していたのです。

1/allではなく、all/allとして世界を観るためには、このように意識すればよいのではないでしょうか。       長々と失礼しました。

 

 

 

 

リアリティは部分/全体であるホロンから構成されている

ホロンとは、
アーサー・ケストラーが作った造語で、「ある文脈において全体であると同時に別の文脈で部分である単位のこと」を指します。

ケンウィルバー著「進化の構造Ⅰ」のp57にこう書かれています。

実在/現実(リアリティ)はモノあるいはプロセスから構成されているのではない。それらはまた原子あるいはクォークから構成されているのでもない。また全体からだけ、あるいは部分からだけで構成されているのでもない。リアリティは部分/全体であるホロンから構成されているのである。
 原子、細胞、シンボル、観念のどれをとってもそうである。そのどれもモノともプロセスとも、また全体とも部分であるとも言うことはできない。それらはすべて同時に部分/全体である。したがって、すべては原子であるとする原子論、すべては全体であるとする全体論ホーリズム)はまったく的外れである。すべてはホロンであり、ホロンでないものはない(そしてそれはどこまでも上昇し、どこまでも下降する)。
 原子は原子である前にホロンである。細胞は細胞である前にホロンである。観念は観念である前にホロンである。それらはすべて他の全体の一部として存在している全体である。したがってそれらは(私たちがそこにいかなる「特別な性質」を発見するずっと以前から)、最初から、最後まで全体/部分、ホロンなのである。
 同じように、確かにリアリティはモノではなく、さまざまなプロセスから構成されていると言えるかも知れない。しかしそのプロセスは、それ自体、他のプロセスの一部なのである。リアリティを基本的に構成する要素がモノなのかプロセスなのかというのは、ポイントが外れている。なぜならどちらにしたところで、それらはホロンなのであり、どちらかに片寄って見ることは的を外してしまうからだ。確かにモノは存在する。またプロセスも存在する。しかしどちらもすべてホロンなのである。

ここだけを読むと、前回のブログで表現した構造は、かなりイケてるかなと思われましたが…。

ウィルバーはホロンについて以下20の原則(小分類、付加原則含む)を提示しています。

1.リアリティを構成するのは、モノでもプロセスでもなく、ホロンである。

2.ホロンは四つの基本的な力を持っている。
   a.自己保存(エージェンシー)
   b.自己適応(コミュニオン)
   c.自己超越
   d.自己分解

3.ホロンは発生する。

4.ホロンはホロン階層的に発生する。

5.発生したホロンは先行するホロンを超越し、包括する。

6.低位のホロンは高位のホロンの可能性を定め、高位のホロンは低位のホロンの確率性を定める。

7.階層が包含するレベルの数が、その階層が深いか、浅いかを決定する。そして所与のレベルにおけるホロンの数を幅(スパン)という。

8.連続的に発生する進化は、より深い深度と、より狭い幅(スパン)を持つ。

   付加原則1:ホロンの深度が深くなれば、意識の深度も増大する。

9.どのレベルのホロンを消去しても、それより上のホロンはすべて消去され、それより下のホロンは消去されない。

10.ホロン階層は共振化する。

11.ミクロは、深度のあらゆるレベルでマクロと相関的な交換を行う。

12.進化は方向を持つ。
    a.複雑性の増大
    b.差異化/統合の増大
    c.組織化/構造化の増大
    e.相対的な自立性の増大
    f.テロスの増大

これらのことを読み返していて、前回のブログで提示したヘキサキューブ・フラクタル構造は、こうしたホロンの階層構造をいくらかは表現しているものの、少なくとも「自己超越の原則」が反映されていないことに思い至りました。

「ホロンの自己超越の力によって新しいホロンは発生する」(第3の原則)のですが、そのときに、出現した新しいホロンは、その要素である部分の要素に完全に還元することはできません。上位のホロンは、下位のホロンを「含んで超えている」のです。

単なる寄せ集めで新しいホロンが発生するのではないということです。

原則5の説明では、こうかかれています。「新たに発生したホロンは、先行するホロンを包括し、かつ自己を定義する新たなパターン、形式、全体性を付け加える」と。例えば、水素原子は水分子の中にありますが、水分子は原子の中にはありません。単語は全部、文の中にありますが、文の全部は単語の中にはありません。            

そうでした、そうでした。

「一即多」「多即一」ではありますが、「多」から「一」へは上昇する(自己超越)のであり、「一」から「多」へは下降する(自己崩壊)のでした。フラクタルは全体と部分の、その相似性の方に注目した構造ですが、上位の「全体」で新たに付加される性質もまた表現に組み込まねばならないはずです。

こうした点を踏まえ、「形」への表現を今後もさらに進化させて行きたいと思います。

「縁」の入れ子

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元日のブログで「さらにこの大きなヘキサ・キューブ形の中には、無数の小さなヘキサ・キューブがぎっしり詰まって並んでいると想像する。」と書いた。

これをもう少し、華厳経の世界観であるインドラ網、そして入れ子状のフラクタル構造(注1)を取り入れて表現できないかと、この数日試行錯誤していた。

(注1)
フラクタルとは、一つのもののなかに無限の繰り返しが含まれていて、細かく見ていくとそこにはいくらでも相似形の個が出てくるけれども遠くから見れば一つの個に見えるという幾何学的世界観のことです。それと同じく、一微塵の中には、無限の宇宙が存在していて、同時に無限の宇宙は一微塵と同じであるというのが「一即多・多即一」で表現される華厳経の世界観です。(『100分de名著 集中講義 大乗仏教佐々木閑著)

一番下の図で…黄色の線で描かれたヘキサ・キューブのなかに、緑のヘキサ・キューブを並べた。7個を並べると興味深いことにハニカム構造(注2)になった。

6つのコーナーそれぞれに隙間が空いているように一見されるが、平面六角形としては隣接の六角形と3分の1を共有しており、立方体としてサイコロのように積み上げてみても空間はあるが、隙間があるのではないことが分かる。

緑のヘキサ・キューブの中にも、さらに小さな黒のヘキサ・キューブがまた七個収まっている。そして黒のヘキサ・キューブの中に赤のヘキサ・キューブが7個入っている。この構造は大から小へ、小から大へと無限に続く。そしてすべての要素は繋がって、より大きな全体を構成している。

(注2)
ハニカム」とは英語でhoneycomb。蜂の櫛という意味になりますが、多くの蜂の巣がこのような構造をしていることからこう呼ばれるようです。材料効率がよく柔軟性に優れた構造であることが知られています。


中央の緑のヘキサ・キューブを「自己」として想定してみよう。とするなら隣接する緑のヘキサ・キューブは「他者」だ。緑(自己)のヘキサ・キューブのなかにある黒のヘキサ・キューブは、隣接している「他者」としてのヘキサ・キューブを(相似形として)映し出したものであると理解される。「自己」は、「他者」を内に包含して存在し、同時に「他者」にも包含されている。それはまさしく「インドラ網」だ。

nagaalert.hatenablog.com

数日前、結婚式に参列する機会があった。
少なくともそこに集った人々は新郎の、そして新婦の中に、「縁」の大きな「他者」として存在しているから招かれたのであろう。しかし参列はしなくとも大きな「縁」のある「他者」もいるだろう。亡くなってなお新郎新婦の中に存在している「他者」もいるはずだ。
そこに招かれた「他者」の中にも、彼/彼女なりの「縁」によって結びついた多くの「他者」が存在しているだろう。参列者のその「縁」は新郎新婦が「知らない他者」まで大きく広がっているはずだ。するとその「知らない他者」もまた新郎新婦の中で間接的に存在することになる。「縁組」とは、両家だけでなく、そうした二人の2大ネットワークが結合することでもあるのだ。

おおっ、結婚!

 

次元が上がると「一つ」に見える

経営マトリックス研究所のマークであるヘキサ・キューブ(hexa-cube)について、また新たなことに気がついたので、今回はそれを書きます。今年1月1日のブログ「次元を行き来するヘキサキュ―ブ、元日の夢」の続編です。

 

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(上の図表は次元を理解する参考にしてください。出所:ウィキペディア「次元」)

まず3本の線分を想定する。それらを2本つないでも閉じた図形にはならないが3本をつなぐ(1本目の始点に3本目の終点をつなぐと)と3つの角をもつ閉じた図形、すなわち三角形になる。

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線の上をなぞっている限りは1次元だが、閉じた図形の内側を「意識する」なら三角形の2次元平面となる。1次元では線分は3本だが、2次元では一つの面となる。

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3本の線分がただつながっているより、一つの三角形の面として観た方がリアルな気がする。

さて次に、6角形に(対極の)対角線を入れると、このような図形になる。

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この図形は2次元平面では、6角形が6つに分割されたものと見ることができる。また正三角形6つが隙間なく隣接した形としても見ることもできる。

しかし次の図のように対角線に「強弱をつけて観る」と、一つの3次元立方体(cube)が浮かび上がる。

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私がこの図形をヘキサ・キューブ(hexa-cube)と呼ぶ所以である。

2次元では6つのピースに分かれて見えたものが、3次元では一つの全体として観える。

6つの三角形の集まりとしてみるより、一つの立方体として観た方が、リアルだ。手ごたえのあるリアルな構造が感じられる。

2次元に上がることで、3本の線は一つの三角形という面になり、3次元に上がることにより、6つの三角形という面は、一つの立方体という空間になった。

同じものを見ていても意識の馳せ方によって、見え方は大きく異なる。

下の次元でバラバラに分割して(separated)見えていたものが、上の次元では「一つの」リアルな「全体」として顕現するのだ。

私たちの通常の眼では、「色(しき)」をバラバラなものとしてしか認識していないが、ウィルバーのいう「観想の眼」で観るならば、それぞれに自性のない相互依存的な一つの全体(=空)として構造を顕すのではないか。

そのようなことの比喩に、このヘキサ・キューブ(hexa-cube)は使えないだろうか・・・

(下の次元でみることを「見る」、上の次元でみることを「観る」と、あえて使い分けしました。)

◆補足:関連エピソード

そういえば、子どものころ、「陣地取り」という遊びがあったのを思い出した。

土の地面の上に釘や石で大きな正方形を描いて、4人それぞれが角をコーナーとして自分の陣地を決める。まず開始時点で、角に親指を置き中指をコンパスとして中心角90度の弧(円の1/4の扇形)を描く。その内側が最初の自分の陣地だ。

その扇形の陣地から、円盤状の石を人差し指でピンと弾いて跳ばす。跳んだところまで始点と終点を結んで線を引く。その終点からまた石をピンと弾く。跳んだところまで線を引く。そしてまた石を弾く。これで3回弾いたことになるが3回目で自分の陣地に石を戻し入れないと無効になる。うまく弾いて石を陣地に戻せたなら3つの線で囲まれた内側の部分(面)が自分の陣地に組み込まれる。

この遊びなどは、1次元の線としてなぞっていきながら、それが閉じたときにその内部を2次元の面として自然に認識できるという脳の働きに基づいている。1次元から2次元へ、2次元から3次元へという次元の移行が人間の脳では自然に行われるといっていいだろう。


今回は以上です。お付き合いいただき、ありがとうございました。<m(__)m>

いつも「意識を意識しておく」

コトバで表現すると何を言っているのか分からないようなことですが、この感じを何とか是非とも書き留めておきたいと思い、書いています。

日常のなかで、いつも、四六時中、どんな時でも、なんと言っても、大切なのは、「意識を意識しておく」ことだということです。

Be aware of the Consciousness!

あるいは

Be conscious of the Awareness!

でしょうか。

このことは、ジムでウォーキング・メディテーションにトライしているときに、気づきました。

先ごろ、名古屋国際女子マラソンで五輪銀メダリストのキルワと終盤までデッドヒートを演じ、惜しくも2位になりましたが、初マラソンで日本歴代4位のタイムをたたき出した安藤友香さんの走りとイメージが重なります。「忍者走り」と高橋尚子さんは解説されていましたが、この安藤さんは「意識を意識する」、そんな感覚で走っているのだ、と直感しました。

この状態では、頭に浮かぶコンテンツにあまり入り込みません。今のタイムは?とか、後ろの選手との距離は?とか、このままいけば世界選手権?とか、相手はどこで仕掛けてくるか?とか…当然ながらそうした思考は、沸き起こるでしょうが、おそらく、それに囚われることなく自然と受け流し、ひたすら心をむなしゅう(空しゅうor虚しゅう)して、リズムをとっていたのだと思われます。

そうした思考や派生する感情、感覚を淡々と観察しながら、それらと同一化せず、むしろそうしたコンテンツの背景としての静穏な「観察者としての自己」と同一化していたのだと思われます。

そんな雰囲気が「忍者走り」の走り方から漂っておりました。

それは取りも直さず、「意識を意識している」ことです。

この「意識」(Consciousness or Awareness)とは、前々回のブログで書いた「疑いようのない意識」のことです。

コンテンツではなく「実存」としての意識です。

自由な感覚と満たされた感覚が共存しています。Freedom and Fullnessです。

明晰性(Clarity)があります。同時に臨機応変に対応できる鋭敏さ(Alertness)があります。

「フローの状態」、あるいは「ゾーンに入ったのだ」という人もいるかもしれません。

しかしおそらくそれは結果論であり、大切なのは「意識を意識する」。それを絶えず心掛けることです。

この感覚はしばしば訪れますが、いつの間にか忘れてしまいます。そしてどうしたらそうした状態を取り戻せるのか、分からなくなってしまいます。

あの時は、何とはなしにそうなったのに、もうその感覚は戻ってこない、のです。

「意識を意識する」は、その感覚をよみがえらせるためのメモです。

あの状態を取り戻すためのリマインダーです。

そうそう、「意識を意識する」のだった。

こんな時こそ、「意識を意識する」のだ。

今後こんな風に、この言葉を使っていけたらと思います。

自分用のメモでしたが、お読みいただき、ありがとうございました。<m(__)m>

「自己ぎりの自己」とワン・テイスト

前回の続きです。

『〈仏教3.0〉を哲学する』p110に出てくる内山興正氏の描いた第5図について永井均氏はこう話されていました。

「わが生命」は中に入っていないで、外に出ているんです。その一員として何かヤリトリはしていないで、その様子を外から見ているんですね。

ですから、第5図は、前回のブログで取り上げたようにケン・ウィルバーのいう目撃者(Witness)あるいは見者(Seer)に対応しているといえます。

それに対し、P111の第6図については以下のように永井さんは話されています。

体験する自己と体験される世界の区別がもはやないような、独我的=無我的な自己、つまり〈自己=世界〉であるような自己で、これが最後の第六図に表されている「自己ぎりの自己」であるわけです。

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〈自己=世界〉であるような自己、「自己ぎりの自己」とはどのようなものなのでしょうか?

前回取り上げたケン・ウィルバーの「やがて最後の自由と充満性への突破が起こるからである。」の続きは以下のように書かれています。

あなたがこの意識の無限の安らぎにとどまり、すべて自然に起こることに気が付いている時、やがて最後の自由と充満性への突破が起こるからである。
「目撃者」それ自体が消えてしまう。空(そら)を目撃するかわり、あなたは空(そら)である。大地に触れるかわり、あなたは大地である。雷を聞くかわり、あなたは雷である。あなたとコスモスは一つである。太平洋を一息で飲み込むことができる。エヴェレストを手の上に載せることができる。超新星があなたのハートで渦巻き、太陽系があなたの頭のかわりとなる。
 あなたは、「一者の味わい(One Taste)」である。起こること一つひとつ、そのすべてである、空なる鏡であり、まったく透明であり、無限で、永遠で、解放すら超えている、それが……あなたである。
そこで、デカルト的な二元論―こことあそこ、主体と客体、空なる目撃者と目撃されているすべてのもの、という二元論―は最終的に解体され、非二元の一味となる。目撃者と完全に接触すると、その時、ただその時のみ、それは根源的な非二元性へと超越される。そして半分ではなく、ついに故郷に到着したのである。今、ここである、常に現前する「あるということ、そのもの」へ。
 どのように、最終的に、そして完全にデカルト的な二元論を克服した、といえるのだろうか。簡単である。完全にデカルト的な二元論を克服した時、あなたは、あなたの顔のこちら側で世界を見ているのではない。世界は一つであり、あなたはそれである。あなたは一瞬一瞬、起こっていること、すべてと一つである。あなたは顔のこちら側で世界をのぞいているのではない。こちら側と向こう側は、震撼させるような明瞭性と確実性をともなって、一つとなる。それはあまりにも深い発見なので、まるで5トンの岩が頭に落とされたようである。それは、逃しようのない感覚である。
 その時(実はそれが、あなたに常に現前している状態なのであるが)、特定の肉体への同一化はなくなる。頭のなかの意識への同一化はなくなる。あなたとは、頭のなかから世界をのぞいているものなのだという拘束がなくなる。個人的な心身への縛り付けられるような関心はなくなる。そのかわり、意識は常に起きているあらゆることと一つである。意識は、コスモス全体を抱擁する、広大で、開けており、透明で、光を放ち、無限に自由で、無限に充満しているこの開けであり、したがって、すべての客体とすべての主体は、この「一者の偉大な抱擁」のなかで、官能的に結ばれる。眼のこちら側の存在としてのあなたは消え去る。あなたは、一瞬一瞬に起こること、それそのもののすべてである、と直接、実際に感じる(ちょうど、以前、あなたは自分とは、あなたが肉体と呼ぶ、有限で、分離した、部分的な、死すべき塊であると感じていたように)。
 内側と外側は一つになる。それは、こうして起こりえるのである。

いかがでしたでしょうか?

内山老師の書かれた「自己ぎりの自己」すなわち、「ナマの生命体験」と「ナマに体験される世界」とそれぐるみの自己とは、まさにケンウィルバーのいうワン・テイスト(One Taste)にほかなりません。

松永さんは「一者の味わい」と訳されました。

2002年にケン・ウィルバーの日記が上下巻の書籍になって邦訳出版されていますが、そのタイトルが「ワン・テイスト」です。アマゾンでまだ購入できるようです。よろしければご一読ください。

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