ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

2009-01-01から1年間の記事一覧

Shadowモジュールの「The 3-2-1 Shadow プロセス」

ウィルバーのIntegral Life Practiceに挑戦中です。 本日は4つのモジュールのなかの一つ、Shadowモジュールから「The 3-2-1 Shadow プロセス(1分間モジュール)」を紹介したいと思います。 Shadowすなわち「影」のメカニズムについてはインテグラル・スピリ…

To take a deep, feeling breath

Integral Life Practice(P189)から呼吸に関して印象深い短文を紹介させていただきます。 Stop and Take a Breath 立ち止まって、呼吸に戻ろう! あなたが今この瞬間にもっと感覚と気づきをもたらしたいと望む時はいつでも、あなたにできる最も効果的なこと…

BodyモジュールのFIT

ウィルバーのIntegral Life PracticeではBody, Mind ,Spirit, Shadowという4つのコア・モジュールが用意されていますが、そのひとつBodyモジュールの中にFocus Intensity Training(FIT)というものがあります。 このFITは、ウエイトリフティングやランニング…

Get a Feel for Integral Awareness

先週からケン・ウィルバーのINTEGRAL LIFE PRACTICEに挑戦しています。昨年の9月に出版されたばかりのこの本の副題はA 21st-Century Blueprint for Physical Health, Emotional Balance, Mental Clarity, and Spiritual Awakeningとなっています。 そうか!…

I AMness

なんとなくウィルバーのWitnessを探しているとYouTubeで、彼が詩の朗読のような感じでアイアムネス、アイアムネスと繰り返している動画に遭遇しました。これはI amにness をつけた言葉に違いないと思ったので、すぐに興味を持ちました。調べていくうちに次の…

目撃者とは

目撃者は 心―身体の内側と外側に起こる出来事の流れを創造的に切り離された態度で見つめることである。 目撃者は ラマナ・マハリシが「私−私」と呼ぶものである。なぜなら、それは「個別のわたし」を意識できるが、それ自体は対象として見られることがないか…

アルケミストとしての目撃者

インテグラルジャパンの鈴木規夫氏の記事からヴィジョンロジックは3段階に分けられることを知り、インテグラル・スピリチュアリティの第2章「意識の段階」とあわせて吟味することで大変理解が進みました。 ヴィジョンロジックの第1段階はIndividualistです。…

死の「受容」段階と「目撃者」

キューブラー・ロスは終末期にある患者へのインタビューにより、死を受容するプロセスを「否認」「怒り」「取り引き」「抑うつ」「受容」の5段階にまとめています。 すべての人が受容の段階に到達して亡くなるということではない(「死ぬ瞬間」中央公論新社…

目撃者による実存的病理からの離脱

万物の歴史ではp294-p295を境に、進化の構造Ⅰではp414-p415を境にヴィジョン・ロジックの段階でおこる実存的病理からの突破(ブレイクスルー)の様子が描かれています。 進化の構造p413ではトルストイの言葉を引用してその苦悶を表現しています。 50歳になっ…

〈生態−認識的自己〉が〈大きな織物〉の糸に還元される病理

私がはじめてケン・ウィルバーの著作を手にしたのは「万物の歴史」でした。あの「眼からうろこが落ちた」と感じたのはどこだったか?3日ほどパラパラめくっていて、先ほどやっと見つけました。完璧に書かれています。すばらしいです。まず、p302にこうありま…

認知療法の自動思考

配偶者や子どもなど大切な家族との死別をきっかけにうつ病を発病することがあります。そしてうつ病になった人は自殺を企てることが少なくありません。うつ病にならないように、そしてうつ病になっても回復させる治療法の一つに認知療法というものがあること…

パウロのいう神の平安は躁的防衛か?

1月7日のブログに書いたように、配偶者や子どもなど自分と同一化していた親しい人を悲劇的に喪失した場合に、当初感じた苦悶や激しい恐怖に代わって、ふいに「いまに在る」という聖なる意識、深い安らぎと静謐と、恐怖からの完璧な自由が訪れることがある、…

完全なる充溢

朝、瞑想をしていました。 坐ってすぐに額から、いつもの感覚が広がっていきました。 心がしゃべる小さな自分を目撃しようと、努めました。 気付いて目撃すると、おしゃべりは止まります。トーレの 書いている通りだなと思いながら、その思考も目撃し続けま…

自伝的記憶が形成したアイデンティティとの同一化をやめる

今日は4月11日に続いて「わたし観の転換Ⅱ」を書きたいと思います。 私たちは「私とはこのような人だ」と考えるとき、そのベースとなる自分の過去の出来事の記憶を持っています。このような記憶を自伝的記憶といいます。自伝的記憶は次のように説明されていま…

思い出してきた、「今ここ」の感覚

Eckhart TolleのThe Power of NOWを読んでいて、「今ここ」にあるときの感覚として「ぴったりと静止している」と書いてあるところ(和訳p96)があり、その部分を読んでからある感覚を思いだしました。 わたしは中学、高校と卓球をしていたのですが、その卓球…

「過去」、「未来」はなく、「いま」しかない、ことについて

過去は記憶として思考のなかで体験され、未来は予期としてやはり思考のなかで体験される。 過去や未来を、直接に、見たり、聞いたり、匂ったり、触れたり、味わったりすることはできない。 このように(五感を通して)直接体験できるのは過去でも未来でもな…

「気をとられている」ことに気付く、ことから

訳者の松永太郎さんがケンウィルバーの「存在することのシンプルな感覚」のあとがきで次のように書かれていますところがあります。 “Presence”とは「現前」と訳されるが、それは「今、ここにいる」ということである。日本語では「気をとられる」というが、私…

あらゆる手立ては「それ」を遠ざけるだけ

ウィルバーの「存在することのシンプルな感覚」P265~P266から書きとめておきたい印象深い部分を抜き出しました。 あらゆる手立てというものが、実際には「それ」を遠ざけるだけのものであり、「それ」に対する抵抗であると本当に悟った時、抵抗のメカニズム…

「うすらぼんやり」見る

玄侑宗久さんの「禅的生活」に意識を拡散したまま集中している状態として「うすらぼんやり見る」ことの奨めがでてきます。雪舟の描いた達磨さんの絵をみて、 眼があんなふうに面壁していると、それはすぐに眼そのものの疲労につながる。いきおい眼差しはぼん…

今、ここ NOWHERE

ウィルバーの「存在することのシンプルな感覚」P336に次のようにあります。 次元や延長をもたない点、持続や日付をもたない瞬間、それが「絶対」である。それはどこにもなく、あらゆるところにある。これが偏在〔あまねく、ある〕ということの意味である。絶…

不確実性を受け入れる方法 BECOMING TRANSPARENT

起こることは無常であり、本来その不確実さは避けようがありません。 しかし私たちは何とかその不確実さを回避しようと外のモノや起こるコトをコントロールしようとします。 そしてそれができないときに葛藤やショックなどに陥ります。 あるいはこうしたこと…

僕って何? 〜わたし観の転換〜

「僕って何」は芥川賞を取った三田誠広の本の題名ですが、(たしか高校生のときに課題図書で読んだ記憶があります。)この僕って何なのか、私とは?ということに関して、それまでの認識がまったく間違っていたんだ、(本のことではなく)と気づき始めたのは…

観の目とKeep some within

「観の目強く見の目弱し、相手をうらやかに見るべし」とは宮本武蔵が兵法三十五箇条で書き記したことばですが、これは具体的にはトーレのKeep some withinを心がければよいのだということに思い至りました。 2006年07月30日(日)場所中心的自己のブログの中で…

本来面目(Original Face)

「永平の風」を読んでいます。映画禅ZEN の原作です。 2009年01月12日(月)「道元のOne Taste」でも取り上げましたが、道元の歌 春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷し(すずし)かりけり は「本来面目(ほんらいのめんもく)」という題であったことを…

無意識に心が何かを求めて

無意識に心が何かを求めている状態はないでしょうか? テレビのチャンレルをどんどん変えて、それでも見たい番組がなくて… というような時があります。 何か少しイライラしていたり、退屈だったりする時に、少しでも自分をいい気持ちにしてくれるものを無意…

「私たち」という奇跡

ウィルバーのインテグラル・スピリチュアリティの第7章のタイトルは『「私たち」という奇跡』です。これは、AQALの左下の象限についてそれを内側から見たゾーン3と外側から見たゾーン4について書かれています。この象限についても一定の理解をしているつも…

本音とペインボディの混乱

本音とは本心から出た言葉であり、本音を漏らすとか本音を吐くというように、従来はネガティブな文脈で使われることが多かったように思います。しかしながら最近は「本音で語ろう!」や「本音トーク」というように、包み隠さず本心を出すということで、それ…

心を鏡のように用いる

「存在することのシンプルな感覚」の最後の章「常に現前する意識の輝くような明晰性」は本当にすばらしい。どこもいいのですが、今日は目撃者がどのように目撃するのか、を荘子の言葉を引用して書かれた部分があるので取り上げたいと思います。 (以下P364よ…

ケンタウロスとuncontrollable

ウィルバーの「意識のスペクトル」では、ペルソナと、投影された影を統合して健全な自我を回復した後、自我(心)と身体とを統合してケンタウロス(心身統合体)に至ります。これは無境界(非二元、統一意識)に向かう途中のアイデンティティ拡大の1プロセス…

What to do ではなく How to be

私たちは事体が望ましくない状況であるとき、いったい何をすればいいのだろうか?と考え、悩む傾向があります。事体を望ましい姿にもって行くために必要なことを洗い出し、優先順位を決めて実行しようとします。 経営の世界でも一定の未来(例えば3年後)の…