ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

本来面目(Original Face)

「永平の風」を読んでいます。映画禅ZEN の原作です。

2009年01月12日(月)「道元のOne Taste」でも取り上げましたが、道元の歌

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷し(すずし)かりけり

 


は「本来面目(ほんらいのめんもく)」という題であったことを今回はじめて知り、「やっぱり!」「直球、ストライク!」と思ってしまいました。

これは主客合一の心境を詠んだものではないか。千の風のオリジナルと同じことを詠っている。花もほととぎすのなく声も、月もそして雪も・・すべて私なのだ。であるから冬の雪は心地よくすずしいのだ。客体ではないから、ドウッカにならない。(むしろ熱いかも)

などと以前から考えていたのですが、題が「本来面目」であることを知り、「そうかそうか、そうなんや」と思ったところです。

ウィルバーの「存在することのシンプルな感覚」のP369に次のように書かれています。

わたしは、もはや顔のこちらから世界をのぞいているのではない。わたしとは、単に世界である。わたしはここにいるのではない。わたしは顔を失ったのである。そして、本来の顔、本来の面目、コスモスそれ自体を取り戻したのである。鳥が鳴いている。わたしはそれである。太陽が昇っている。わたしとはそれである。月が輝いている。わたしとは、単純で、常に現前する意識の中でのわたしである。
 単純で、透明で、常に現前する意識のなかに安らぐ時、すべての対象はすべての主体である。…わたしは虹を見ているのではない。わたしは自分を見つめている虹である。わたしは樹を見つめているのではない。わたしは自分を見つめている樹である。すべて顕現された世界は、あるがままに生起する。ただ主体と客体が消滅するだけである。
…この開けは、主体と客体、こことあそこ、自己と他者、わたしと世界を分離する暴力から自由である。わたしは完全に面目を失う。そして単純で、常に現前する意識のなかで神を見出す。(引用ここまで)

 


わたしの面目(小さな自己)が死んだとき、本来面目Original Face があらわれる。

冬雪さえて すずしかりけり

すばらしい心境ですね。