影絵作家である藤城清治さんの「光は歌い影は踊る」の中に、次のような文章がある。
木は生命の象徴といってもいいでしょう。・・・
その美しい木の葉を一枚一枚切り抜いていく。これが影絵制作の真骨頂です。・・・
文字通り一枚一枚の葉を根気よく、ごまかすことなく切り抜いていく。木の葉を一枚切るごとに喜びが増し、美しさが大きくなっていきます。切り始めたら、やめられなくなってしまう楽しさです。
よく人に「細かい木の葉をきるのは大変でしょう」といわれるけれど、僕は木の葉をきるのがうれしくてしょうがないのです。
一見、同じように見える木の葉もみんな形がそれぞれ微妙に違っています。同じ種類の木の葉でも、一枚として同じ形はありません。自然のもつ奥深い、不思議な魅力を感じて驚いてしまいます。僕も一枚一枚、あっち向いてこっち向いて木の葉の形や波と葉の間の形を考えながら切って行くのがとても楽しい。それに、リズムにのって楽しく切らないと、木の葉も躍動してくれません。
また、切っていく上で大切なのは自分の呼吸です。自分の息づかい、リズム、それがうまくからみ合って、大自然の神秘に挑戦していけるのです。切っていくうちに神経が集中し、研ぎ澄まされていきます。気がつくと、祈りのような思いがこめられています。
特に木の葉をきるときは、片刃のカミソリの刃でないと葉っぱが生きてきません。カミソリの刃だと、人差し指の先が刃物になったように思えて、自由自在にひねったり、力の強弱をつけたりして、自分の息づかいを感じているような切り方ができるからです。カッターでは、なかなかそういう感じにはなりません。
僕は木の葉を切るとき、いちばんの喜びと幸せを感じます。・・・
深夜や明け方まで夢中で切っていて、僕は自分で折ったカミソリの刃の屑の上に座って、傷つくのも知らずにのめり込んでいることもしばしばです。・・・
一本の木を見た僕たちが、そのいのちを表現するには、その木をじっと観察して、そこから様々なものを感じなければ描いたり切ったりできないと思うのです。
これは先日、ヤマハ銀座スタジオの彼の光のシンフォニー展に行った時に、入口を入るや否や飛び込んできた文言のもとになる文章だ。その文言の詳細についての記憶は定かではないが、上記のなかの「人差し指の先が刃物になったように思えて、・・・自分の息づかいを感じているような切り方ができる」という部分が引用されていたのは間違いない。会場を出たあと何とか思いだしたくて、このエッセイ本をアマゾンで購入した。
こうしてこの部分を読んでみると、これが前回のブログ、『なぜ、書道は、書「道」か?』で言いたかったことのような気がしてならない。
本当に、こんな感覚でやることが大切なのだ。
これを読んで思い出したのは、小学生時代の器械体操だ。そのころ僕は、学年一の器械体操少年だった。
一年生で鉄棒の「空中前まわり・空中逆上がり・巴、連続」が出来たし、2年生では砂場のコンクリートに頭を二度ほどぶつけたものの、バク転、バク宙、側転バク転、前宙が出来た。
大好きで、そんなことばかりやっていた。誰に教えてもらったわけでもなく、まったくの自己流だ。一度、家のガラス障子を壊して、踝にガラスの破片がいくつも入ってしまい何回も外科に通ったことがあり、親は困惑していたようだ。でもどうしてかそんなことが楽しくて、5年生のときには自然倒立もできるようになった。
友達と切磋琢磨したのを思い出す。
「(切っていく)上で大切なのは自分の呼吸です。自分の息づかい、リズム、それがうまくからみ合って、大自然の神秘に挑戦していけるのです。(切っていく)うちに神経が集中し、研ぎ澄まされていきます」
この文の「切っていく」を別のフレーズに置き換えると、自分にも当てはまる気がする。
本当はそんな感じで仕事もすべきなのだ。そうでなければ、いい仕事はできないし、長続きもしない。
仕事は作品であり、ある種の喜びを伴った自己の表現なのだ。
そのこと自体に喜びを伴っているか?
もし伴っていないのであれば、伴うようなやり方に改めることが、大切なのだと思う。