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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

いま以上の何ものかになろうとしていないか

コントロール あるがまま 藤城清治 今ここ

しばらく前から書き留めておきたいコンセプトがあって、それをどう表現しようかと思っていたところ、昨晩ヒュー・プレイサーの「わたしの知らないわたしへ」(中川吉晴、訳)の中から、「私は常にいま以上の何ものかになろうとしてきた」という一文を見つけ、これだ!と思って線を引いた。

「いま以上の何ものかになろう」とすることが悪いというわけではない。

しかし、そうした願望に無意識に突き動かされている自分に気づいていない、ことが問題なのだ。

無意識にいま以上の何ものかになろうとしていること、の問題は大きく3つあるだろう。

まず、「人生の繰り出す妙に対するセンス・オブ・ワンダー」が鈍ってしまうことだ。

これは、これまで何回か書いてきた「状況をコントロールしようとすること」の弊害でもある。

自分にとってのあるべき姿にコントロールしようとすればするほど、そこに至ろうとするシナリオに沿った一定の「枠」が形成されてしまい、その「枠」から外れた出来事や情報は無駄なもの、望ましくないもの、期待はずれなもの、時間の無駄として捨て去られていく。

結果として、自分の予期しないものから思いがけず広がり展開されていく人生の妙に、心を開いていることができなくなるのだ。

語りかけてくる人生に「耳を澄ます」ことができなくなってしまう。

後になってわかる、人生って不思議なものですね♪(「愛燦燦」)という機会を摘み取ってしまうともいえる。


「いま以上の何ものかになろう」とする2つ目の問題点は、

その望ましいゴールと、そうならない現実のギャップから「苦しみ」を生じさせてしまうことだ。

この本には、こうある。(P33)

結果のために人生を送るというのは
はてしなくつづく欲求不満の刑を自分に課すようなものだ。



「自作の苦」であるともいえる。

またP24には、こう書かれている。

不安が私の人生にまとわりついて離れないのは
「あるべき自分」と「あるがままの自分」のあいだに緊張があるからだ。
わたしの不安は
先行きを思いわずらうことから起こるのではない。
それを思いどおりにしてやろう望むことから起こるのだ。
自分は「こうあるべきだ」と思ったり
人は「こうあるべきだ」という期待をいだいていると
不安はやってくる。
不安はというのは
この現実をどうにかしようとしても、できないと気づくとき
そこに生まれる緊張だ。
「あるがままにある」―このなかのどこに
不安があるだろう。




自分をふり返ると、「不安」は「怒り」に置き換えて読むことができる。

まさに私の「怒り」はこうした構造からやってきているのだ。


「いま以上の何ものかになろう」とする問題点の3つ目は、

「よろこび」よりも「たのしみ」に偏重した日常を形成してしまうことではないかと思う。

私にとって「よろこび」は現在に、「たのしみ」はどちらかというと未来にある。

「よろこび」は、いま実現していること、そのプロセス自体から感じ取れるものであるといえる。

これに対し「たのしみ」は、明日がたのしみだとか、結果がたのしみだね、あるいは将来がたのしみ、といったように未来に対して感じるものだろう。

(「楽しい」と表現すると「いまが楽しい」という使い方もされ、未来志向的なニュアンスは違ってくるが)

この「たのしみ」を「よろこび」と勘違いしてはならない。

「よろこび」は、究極的にはthe Motherがいった「歓び(delight)」として、いまこの瞬間にある。

Waitingに気づく、そして存在することのシンプルな感覚 - ウィルバー哲学に思う

それは藤城清治さんが影絵を切ることの中に見出した「よろこび」のことだ。

そのこと自体に喜びを伴っているか? - ウィルバー哲学に思う


この何ヶ月間、私は「よろこび」よりも「たのしみ」の志向に偏った日常を過ごして来たように思う。

「たのしみ」は、欠乏感(a sense of lack)を裏返しにしたものだ。

「たのしみ」よりも「よろこび」を日常に取り戻すため、ふたたび自分に問おう。

私は、いま以上の何ものかになろうとしていないだろうか?