ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

五蘊その4「行」―Mental Formations

自分のつくり出している「メンタル・フォーメイション」に気づく

五蘊の4番目は「行」です。英語ではMental Formationsと表現されています。まずは、Ayya Khemaによる「行」の解説です。(“Being Nobody, Going Nowhere”p122)
(以下引用拙訳)

さらにまた、私たちは「心的構成物(mental formations)」から成っている。それらは「意志をともなった構成物(kamma-formations)」とも呼ばれる。それらは「業(ごう:仏教用語)」をつくる主体だ。思考プロセスが動き出したとたんに私たちは「業」をつくる。もし誰かがこの置き時計を見て「それは私がもったことのない時計だわ、私も欲しい」と言うなら、「業」がつくられたことになる。貪欲の「業」だ。あるいは誰かがいう「これは素敵な時計ね、私のはそうじゃないもの」。それは嫉妬の「業」だ。思考プロセスが動き出すや否や何らかの心的構成物がつくられる。それのいくらかは中立であり、それからの悪影響はない。人が「あー、置時計だね」とだけいう時、それは中立だ。しかしたいていの場合、私たちは良かれ悪しかれ「業」をつくっている。もし私たちが色を見て「家をその色に塗るつもりよ」と言うなら、それは中立だ。しかしその背後に隣人より良い家をもちたいという意志がすでにあるかもしれない。それは未熟(unskillful)な「業」だ。

 私たちが心の中で生じていることすべてを信じるなら、それはエゴを支持することに愛情を注いだということだ。それが瞑想中に考えることを止めるのが難しい理由である。たとえ思考がしばらく止んで静穏と静寂が訪れたとしても、思考は即座に戻ってきていう。「えー、それは何?すてきじゃない」、それは瞑想の終わりであり、またはじめからやり直さないといけない。私たちの思考プロセスによっていつもつくられている「業」がある。それらはジャッジし、決め事をし、掴んだり、拒絶したりしているのだ。

瞬間、瞬間に気づきを保つマインドフルネスだけが、正しい解析を可能にする。そのとき私たちは何をしているかを理解しており、マインドが話しかけてくることを、もはやすべて信じる必要はない。瞑想的な実践において、マインドのたわごとの大半はかなり信用できないものであると、明確に察知される。時間を経て過ぎ去ったものであろうと、まだ起こっていないことであろうと。マインドは常に引き金に指を掛け、それを使って自分のゲームを仕掛けてくるのだ。(引用ここまで)


メンタル・フォーメイションを、主にkamma-formationsの観点から説明しています。私はこれを敢えて「意志をともなった構成物」という表現にさせていただきました。五蘊の3番目の単なる「知覚」から一歩進んで「意志を生じた」構成物というニュアンスを含ませたかったからです。そして意志を伴って構成された「業」について簡潔に説明されています。

では次に、Thich Nhat Hanhによるメンタル・フォーメイションの解説です。
(“The heart of the Buddha’s Teaching”p180より)

(以下引用)
他の要素からつくられたものは「構成物(formation)」である。花は構成物だ。なぜならそれは日光、雲、種子、土、ミネラル、庭師などなどによってつくられるからである。怖れもまた構成物、心的な構成物(メンタル・フォーメイション)だ。私たちの身体は構成物、フィジカルな構成物だ。Feelingや知覚も心的構成物だが、この二つはとても重要なので別々の分類に入れられている。北方伝播の唯識派によると、心的構成物には51の分類がある。
 
この五蘊の4つ目は(feelingと知覚を除いて)49の心的構成物から成っている。全部で51の心的構成物は、私たちの意識(マインド意識〔mind consciousness〕、これもひとつの心的構成物)のひとつ上のレベルである保蔵意識〔store consciousness:阿頼耶識〕の奥深くに存在している。私たちの実践は心的構成物の顕在化とその存在に気づくことであり、それらの本質を理解するために、それらを深く見通すことである。

私たちはすべての心的構成物が、一時的(impermanent)でリアルな実体などないことを知っているので、自分自身をそれらと同一化したり、その中に逃げ場を求めたりしない。日常の実践により、健全な心的構成物を滋養し、成長させることができ、不健全なものを変換させることができる。自由、怖れからの脱却、平安はこの実践の結果なのである。(引用ここまで)



保蔵意識と訳したstore consciousnessは「唯識」でいうところの阿頼耶識のことです。このことについては次回の五蘊の五番目「識」で取り詳しく書かれているので、実践による健全化の方法を含めて、そこで取り上げたいと思います。

話は前半の「業」に戻りますが、私の出身地である姫路市では、「業わく」という方言があります。「腹が立つ」という意味で使われますが、「保蔵意識」へ格納したり、そこから顕在化してきたりする心的構成物として「業」を理解した上で、「業沸く」という言葉を吟味してみると、その言葉の由来についてイメージが広がります。そういえば「業を煮やす」という言葉もありますね。「業を煮やす」「業を沸かす」・・・。
あるとき「業」は格納され、あるとき何かをきっかけに「業」は顕在化する。何かの現象に腹が立ったとき「もう、絶対に許さない」と、意志を伴った心的構成物「業」という気泡が、水の奥底からから上方へ、プクプクと上がってくる。そんなイメージでしょうか。

そしてこの心的構成されたものは、表現を変えればナラティブだということです。ですから仏教学者のDavid Loyは、「The World is made of Storeis」といい、「I Am made of Stories」というのです。

そしてそれに気づいた瞬間、「I Am not made of Stories」というのです。

このような気づきは、インテグラル理論でいうターコイズ段階の特徴です。
The Turquoise worldview recognized more deeply how all ideas are constructs, even one’s own sense of self. (”Integral Life Practice” p96)
ターコイズの世界観はすべてのアイデアが「構築物」(construct 虚構)であることを認識します。私たちの自己という感覚さえもそうなのです。(「実践インテグラル・ライフ」p126参照)

またこれは、Cook-GreuterのいうConstruct-Aware段階に該当しますが、このようにしてリアリティにフィルターがかかりバイアスがかかる傾向があることに気づく段階、無濾過のリアリティに対する憧れを強め、客観的な自己アイデンティティを疑問視する段階を、彼女はpost-representational段階と呼んでいます。

私とは誰か?自己同一性のライン - ウィルバー哲学に思う


「自分のつくりだしているメンタル・フォーメイションに気づく」

これを今回のタイトルとさせていただきます。