ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

〈私〉と〈今〉は同じものの別の名

哲学者である永井均さんの著書『私・今・そして神』の中に、注目すべき表現があったのでその部分に線を引いた。それは「開闢(かいびゃく)の奇跡」という節のなかに書かれている。(以下、P40~p42より引用)

ある名付けえぬもの
・・・
まあ、基本的には、私はそういう気分の強い人間である。気分を率直に語るなら、「私」と「今」とは同じものの別の名前なのではないかとさえ感じている。そもそも初めから存在する(=それがそもそもの初めである)ある名づけえぬものに、あとから他のものとの対比が持ち込まれて、〈私〉とか〈今〉とか、いろいろな名づけがされていく、といった感じである。
 他人との対比が持ち込まれれば〈私〉ということになり、過去や未来との対比が持ち込まれれば〈今〉ということになる。・・・
 対比が持ち込まれた後では、あたかも対比が成り立つための共通項がもともとあったかのような錯覚が生まれる。そして、この錯覚こそが現実になるわけだ。〈私〉と他人との対比が持ち込まれると、あたかもそれらに共通の「人間」というものが存在するかのように考えられるようになり、〈今〉が過去や未来と対比されると、あたかもそれらに共通の客観的な「時間」というものが存在するかのように考えられるようになる。
 もともと存在しているのは〈 〉で囲んだほうだけなので、それがそれ以外のものと一緒にその内部に位置づけられるような共通項はじつは存在しない。人間たちの中に私はおらず、時間の中に今はない。むしろ、〈私〉の中に人間たちが、〈今〉の中に時間がある。
〈 〉で囲んだほうが、存在することこそが、世界の開闢そのものである。これを「開闢の奇跡」と呼んでおこう。(引用ここまで)

この「開闢」が何かは、読み始めたばかりの私にはまだ分からない。しかしウィルバーのいう大文字のOpenness、松永太郎さんが「開け」「空開処」と訳したものと同じではないか、と想像している。

それはともかく、この文章を読んで、ウィルバーのいう「原初の二元論」を思い出した。
『存在することのシンプルな感覚』のP211にこう書かれている(元は『意識のスペクトル』)。

(ここから引用)

簡単に言えば、わたしたちは「自己」を感知することはできない。そして、まさにここに問題、つまり「原初的な二元論」の始まりがある。つまり、わたしたちは、自分たちの「自己」なるものを見たり、知ったりしていると想像しているだけなのである。実際に見、かつ、知りえるのは、じつは感知された対象の複合体であり、それは「自己」ではありえない。黄檗がいったように、感知されたものは感知するものではありえないからである。
・・・
逆に「見者」(Seer 見ている者、見る主体)を見ることができるとしよう。例えばわたしたちが、「わたしは自分が誰であるかわかった」、あるいは「わたしは完全に自分を感知している、意識している」と言ったりするときのように。すると「見者」を見ることができ、知ることができるという仮定から「見者」とは、わたしたちの「内部」にいて、いろいろな対象を意識しているものであるという感じが自然に導き出されてしまう。ウィトゲンシュタインがぶっきらぼうに言ったように「わたしたちを悩ませるのは、わたしたちの心はわたしたちの内部に住んでいる小人のようなものだ、と信じ込む傾向である」。こうして「見者」つまり「見ているもの」は、「見られているもの」とは分離し、切り離されているものだ、というふうに見えてくる。これが「原初の二元論」である。(引用、一旦ここまで)

そうか、「開闢」とはウィルバーのいう「原初の二元論の生じる前」のこと、〈私〉が分離する前、切り離される前のことだ!

(ウィルバー引用続き)
別の言い方をすれば、実際に「見者」を見、「自己」を対象として知ることができるとするのは、わたしたちが見かけ上、つまり幻想として主体性(主観)を客体(客観)に転換し、それをもって“自己”と呼んでいるからである。実際には、その時の自己とは、客体として現れるさまざまな観念、感情、気分、アイデンティティ、価値評価などの複合体なのである。私たちは客体の複合体をもって、主体性と間違えている。すなわち、わたしたちが見ているもの(対象)を、それによって見ているもの(主体)と勘違いしているのだ。(引用、また一旦ここまで)

これを読むと、ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)でいうところの「概念としての自己」の意味が本当によくわかる、と思う。私たちは大抵この複合体を自分と思い込んでいる。それこそが「概念としての自己」だ。

(再び続きを引用)
わたしたちが理解していないこと、認識していないことは、この主体性は、幻想として以外は、絶対に客体にはなりえないということである。・・・わたしたちの「エゴ」「自我」なるものも本当の主体ではありえない。なぜならわたしたちは、自分たちの「エゴ」「自我」を「客体」としてみたり、知ったりすることができるからである。まさにそのために、そうした「自我」は偽りの自己、偽りの主体、偽りのアイデンティティなのである。偽りの主体と同一化し、すべての対象がわたしたちから分離されているかに思える。これが「原初の二元論」である。(引用ここまで)

この「エゴ」、「自我」、「概念としての自己」が生じることで、同時に「他者」「他人」が生じる。

これが永井均さんの言う「他人との対比が持ち込まれれば〈私〉ということになり」という意味だろう。

〈今〉が過去や未来と対比されると、あたかもそれらに共通の客観的な「時間」というものが存在するかのように考えられるようになる、と永井さんは書かれている。

「対比されると」というのは言い換えるならば、「二元化すると」という意味と同じである。

(ACTに出てくる関係フレーム理論を思い出した。しかしそのことに触れるのは別の機会に譲る)

〈私〉の中に人間たちが、〈今〉の中に時間がある。というのは名言だ。

このブログでも「過去と未来を含む永遠の今」という表現で何度となく書いてきた。

〈私〉のなかに人があり、〈今〉のなかに時がある


原初の二元論の生じる前、〈私〉と〈今〉は、同じものの別の名なのである。