ケンウィルバーの著作の中で最も好きな
「存在としてのシンプルな感覚」の終盤、第7章〜第9章はよかった。
たぶんもう3回は読んだと思いますが、本当にいいです。
その中で、龍樹の
それは空でも、空でないものでもない。
その両方でも、その両方でないのでもない。
しかし、それを表すために、
それは「空」と呼ばれる。
という部分があり、そうだなあ、空は絶対の主体であり、対象ではないことから定義できないし、言葉にするということは限定されるということ、区別(分別)されるということから空を表現することはできない。
こんなイメージすることの矛盾に気づきながらもイメージしてしまいました。
目撃者(Witness)で究極の見者(Seer)としての空とは、「白地のキャンバスのようなもの」だと。
流れ行く雲、頭の中で起こる思考、そして感情は、みることのできる
対象、それはキャンバスに描かれた色、絵、記号、・・・。
もし、とてつもなく大きな(限界のない)キャンバスが世界の背景に敷かれていたなら、生まれる前(ビッグバン以前)から敷かれていたなら、私たちはそれをキャンバスだと気づかない、いやキャンバスという名前すらないだろう。
「空」とはキャンバスのようなものだ。描かれる色、絵、記号の背景
(グラウンド)であり、描かれた雲、思考、感情を照らし出す。
そして、思考は対象化できることから本当の主体(自分)ではない、感情も見ることができるため本当の自分(主体)ではない。
ではそれを見ている本当の自分とは?
・・・そう、わたしはキャンバスだった!