ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

統合的な見解をもつ

1月18日に「自分の見解に同一化しない」というテーマのブログを書きました。

これはこれで大変重要なことなのですが、これだけだと見解そのものをどう扱っていいかという姿勢が不明確で、ややもすると、見解を持つこと自体意味がないとか、価値判断すること自体が無意味であるというグリーンミームの病理、いわゆるブーメリティスに陥る危険性があることに気づきました。

ブーメリティスとはウィルバーの「インテグラル・スピリチュアリティ」第5章団塊世代仏教(P152)によると「団塊世代特有の病を意味するが、ここではベビーブーマーを中心とする自己中心主義とナルシズムのことをさす」と訳者である松永さんが注記されています。


インテグラル・ジャパンの鈴木規夫氏のレポート「Boomeritis Spirituality」には「グリーンミーム脱構築ポストモダニズムと形容される思想運動が世界的に展開されるなかで前期Vision Logic段階を基盤として集合的に喧伝、受容された価値体系。」とあり、非常に重要な洞察を提供してくれるが「AQALの一領域(Lower Left)の重要性を絶対化することをとおして、人間の歴史的存在としての性格を過度に強調する歪な世界観を称揚するものでもある。」と書かれています。

ウィルバーがよく引用する分かりやすい例としてヴェトナム戦争反対者にみられる「前・後(プレ・ポスト)の混同」の話があります。以下P152-P153より引用。

多元主義者、またはブーメリティスは、最初1960年代、ヴェトナム戦争に対する学生の抗議運動において、目立つようになった。・・学生たちは、みな、この戦争に反対するのは、倫理的に間違っているからだ、と主張した。倫理の発達段階の検証では、確かに、これらの学生のなかには、倫理が発達している人もいた。自分たちが間違っていると感じる戦争に「ノー!」という学生には、世界中心的理性を使う、後−慣習段階の倫理認知から、そう叫ぶ学生もいる、という研究もある。しかし、戦争反対者たちの多くは、前−慣習段階にあり、彼らが「ノー!」を叫ぶのは、自己中心的ナルシズムのレベルからであった。基本的には、「うるさい!おれさまにどうしろ、こうしろと言うな」ということである。同じ抗議行動で、同じ陣営にいて、同じスローガン、「絶対に戦争なんか行かないぞ」と叫びながらも、そこには前−慣習段階と後−慣習段階の抗議が同居していたのである。・・この2つを一緒に、同じように扱うのは、完璧な「前・後(プレ・ポスト)の混同」である。(引用ここまで)


したがって自己の見解に同一化しないことを短絡的に実践すると、脱構築のわなにはまり、見解を持つこと自体を貶める「前・後(プレ・ポスト)の混同」あるいは「前・超の虚偽」を起こしかねません。

見解を持つことが無意味なのではなく、特定の視点からの見解に執着し、それと同一化することがよくないのです。

ではどうすればよいか?特定の視点に同一化していることに気づき、統合的視点での見解に持ち上げることでしょう。

見解を持つこと自体を否定するのではなく、その見解を統合的なものへと昇華させるのです。

自分の動機によく気をつけながら。

P160に「正しい見解は正しい瞑想と同じくらい重要であり、実際には、この2つは切り離せないものだ、・・」とあります。もう一度この章を読み直そうと思いました。

自己中心性を世界中心的なオブラートで包むのは偽善です。この偽善の構造についても、次回もう一度取り上げたいと思います。