(これは一昨年の10月頃に書いたブログですが、アップしていませんでした。前回のブログとも関係するのでここに掲載します。)
玄侑宗久さんの「般若心経」を再読していて五蘊の働きにより、物事を認識するプロセスを確認していました。
五蘊とは「色(しき)受(じゅ)想(そう)行(ぎょう)識(しき)」です。
対象である「色」を、感受(「受」)し、表象化(シンボル化)された知覚が「想」、そして想によって志向性が芽生えます。「好きだとか、嫌いだ」「欲しい、欲しくない」等の意志を生じることになります、これが「行」。この知覚である想が、意志である行をともなって記録され蓄積されたものが「識」です。
「識」とはそれは、かくかくしかじかこういうものだという過去に心に累積させてきた観念、あるいは他者と共通のイメージを形成するにいたった概念です。
「想」は「識」によって吟味され検証されます。
これらのことから、物事を認識することは「表象化」の過程である「想」によってもありのままの実態とかけ離れて行く可能性がありますし、「識」に合致させるプロセスにおいても歪みを生じる危険性があります。
このことから物事を認識するというプロセスは、どうしても誤謬を免れないのです。
そういう五蘊の働きは、空であると看破することで、度一切苦厄、すなわちすべての苦厄を除くことができたと観自在菩薩が話したのがこのくだりです。
こうした認識の分かりやすい例が、玄侑宗久さんの「しあわせる力」という本に書かれていました。
それによると、感受した「表象」と「識」に貯蔵されていた概念が一致することで対象を認識する。大切なのは、感受したものを概念と一致させる前のその間、というかスペースだということです。
そしてそこには「時間がない」のだといいます。これはレフェラン(指示対象)をシニフィエ(概念)と結びつける一瞬前の間であるともいえます。その間を大事にしろと禅ではいうのだそうです。
なんとなく、オープンフォーカスの話との共通性を感じていました。そしてひとつの記憶がよみがえりました。
ある参観日のことです。16年前ぐらいでしょうか。小学校2年で算数の九九についての授業でした。先生が黒板に9の段の九九を書いていきました。くいち〈九一〉が、9。くに〈九二〉は?(生徒が)18(先生、そうですね)というように、先生は分かりやすいように上から一行ずつ順に下へと式と答えを書いていきました。
9×1=9
9×2=18
9×3=27
9×4=36
9×5=45
9×6=54
9×7=63
9×8=72
9×9=81
9×10=90
これを見て気づいたことを何でもいいから答えてください、と先生は言いました。
はは~、9の段なので、たしか一桁目の数字と二桁目の数字を足すとどれも全部9になるというのが答えだな、と私はそのとき思いました。
9と0で9、1と8で9、2と7で9、・・・。
その時、一人の女の子が手をあげました。ではAさん、と先生が女の子をさしました。あとで分かりましたが、先生もやはり私と同じ答えを想定していました。しかし女の子Aがそこで答えたのは・・・。
(A)「上の方の答えと下の方の答えは全部反対になっている」
(私、心の中で)「なに?なに?」
(先生)「Aさん、どういうことですか?」(先生も意味が分からない様子)
黒板には上から9×1=9・・・一番下に9×10=90と書かれています。
(A)「上の方の『九二18』は、下の方の『九九81』と反対」「三九も、九三と反対」
(教室)ざわざわ。
(私、心の中で)「うわっ、えっら~い。ほんとうや、気づかんかった」
(先生)「え~、なるほど…、そういうと、たしかにそうですね」(想定外だったためか、やや複雑な表情で)「この他には、意見はありませんか?」
(私、心の中で)「おい、おい、先生それだけか?いまの気づきはえらくない?」
この例は、Aが予断をもたずに、絵として黒板に書かれた行列を眺めたときに、上の方に書かれている答えの一桁目と二桁目が、下の方の答えのそれと逆さまになっていることに気づいたものです。18と81、27と72、36と63、45と54、というように。そして9も09と表示すれば09と90というようになります。
このとき授業参観ということもあって先生は授業のシナリオを十分に準備していたことでしょう。しかしながらそのことがあだになって、想定外の解答に柔軟に対応できなかったのです。
でもこのような、先入観のない固定観念をもたない物事の見方に尊いものがあるのだ、ということこそ教師が教えるべきことなのではないでしょうか。
その日、私は学校から帰ってきたAに「Aちゃんの答えはとても良かったよ」と言ってやりました。