前回のブログで「言葉で言い表せないものの価値を見出す」と書いた。そしていろいろと思いを巡らせるうちにやっぱり「青い鳥」ではないのかとの思いが強くなり、メーテルリンクの「青い鳥」(新潮文庫)を購入して読んでみた。
ご存じの通り、クリスマスイブ、貧しい木こりの子チルチルとミチルの部屋に醜い年寄りの妖女が訪れ、「これからわたしの欲しい青い鳥を探しに行ってもらうよ」という下りから始まる物語だ。ダイヤモンドのついた魔法の帽子をもらうのだが、これを回すと世界が違って見えてくる。光や犬や猫、そしてパンといった登場人物たちと「思い出の国(過去)」「幸福の花園」「未来の王国」・・・と不思議な旅を経験する。しかしどの国にでも見つけたと思った青い鳥は死んでしまったり色が変わってしまったりと本当の青い鳥ではなかった。そして最後に自分の家に帰った二人は、自分たちの家にいた鳥を見ると青い色に変わっていることに気づく。本当の青い鳥はここに居たのだ!というお話しである。
訳者があとがきで書いている。「万人のあこがれる幸福は遠いところにさがしても無駄、むしろそれは日常生活の中にこそさがすべきだというのがこの芝居の教訓になっているわけです」と。
しかしこの物語を教訓としてだけ受け取るのは間違いだと感じた。神秘主義者でもあるメーテルリンクの表現したことはそうではない。
教訓ではなく本当にそのように見えるのだ
日常の中に幸せを見つけなさいという教訓めいたものとして理解してはいけないと思う。本当にそのように見えるようになるのであり、今まで見えていなかったことに気づくようになるのだということなのではないか。
「ぼくたち随分遠くまで行ったけど、青い鳥ここにいたんだな」と夢から覚めたチルチルがいう。それから父さんに昨日と同じで何も変わっていないはずの家の中を見て「前よりずっときれいになったね」「全部ペンキを塗り替えたみたいだね」
という。
「なにもかも光ってきれいに見えるね」「それから森をごらん。なんて大きくてきれいなんだろう。新しくなったみたいだ」「ああ、ぼくいい気持ちだ。うれしいなあ。うれしいなあ。」
といっている。
また、物語の冒頭でチルチルは妖女から目をよく見えるようにするダイヤモンドのついた帽子をもらう。妖女はいう。
「この帽子をかぶって、このダイヤモンドを少し回すんだよ。右から左へ、ほら、こんな風にね。わかるかい?するとそれが人間には分からない頭のこぶを押すんだよ。それで目が開くのさ」・・・チルチルがダイヤモンドを回すと、すべてのものが突然、ふしぎに変わってしまう。年とった妖女は、たちまちすばらしく美しい王女様になり、小屋の壁にぬり込められた小石は光だし、サファイヤのように青く、透き通るようになって・・・みすぼらしい家具も、いきいきと輝きだし、・・・柱時計の文字盤がまばたきしてうれしそうに笑ったかと思うと、・・・「時間」たちが飛び出し、手をつなぎ合って、面白そうに笑いながら、すてきな音楽に合わせて踊りはじめる。
また、終盤の舞台である「幸福の花園」では「母の愛」がチルチルに向かってこういう。
「お前がここに来たのは、下界でわたしを見るとき、どのように見なければいけないかを学んで、よく知るためなんだから」
この「幸福の花園」での登場人物は興味深い。
「お金持ちである幸福」「地所持ちである幸福」「虚栄に満ち足りた幸福」「かわかないのに飲む幸福」「ひもじくないのに食べる幸福」といった人たちが出てくる一方で、
「清い空気の幸福」「夕日の幸福」「星の光り走り出すのを見る幸福」「雨の日の幸福」「冬の火の幸福」といったすてきな幸福たちが登場する。「露の中を素足で駆ける幸福」なんていうのもいる。
これらは、前回までのブログで書いた表現を用いれば、
ことばのベールを通さない豊饒なリアリティの経験過程である
といえる。そしてそれはまた「往道」から引き継がれる「還道」への道のりであるともいえるだろう。
中川吉晴氏は「ホリスティック臨床教育学」(p21)でこう記している。
「自己をふくめた存在世界の体験が根底から変容され、ありのままの現実が無限の広がりをもって経験される。これは神秘学の伝統では往道から還道への転換として語られる。・・・変容した意識をもって日常的な現実世界へと帰り、現実世界をその無限の深みにおいて生きることである」
「人が無窮的現実に覚醒するとき、すべての存在次元は根底から変容され、そのありのままの姿で無限なるものを開示する。」(p151)
と。
そしてこれは十牛図だ
青い鳥を探す旅とは、十牛図でいうところの第八「人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)」までの道程であり、目覚めて自分の家に青い鳥を見つけるとは第九「返本還源(へんぼんげんげん)」である絶対肯定の世界だ。
「色即是空」の果てに、日常の中に「空即是色」を獲得すること、ともいえるだろう。
今回のタイトルに再び「曇りなき眼(まなこ)」ということばを使った。この「曇りなき眼」とは、帽子についているダイヤモンドのつまみを回すことにより、観念というベールを通さず、脱フュージョンにより、条件づけを解き、物事をありのままに見る「観想の眼」である。
曇りなき眼で見つける青い鳥
あなたは見つけることができるだろうか。