10年ぶりにスペンサー・ジョンソンの「1分間自己革命」を読みました。
1日に何回か立ち止まって、1分間を「自分を大切にするためにできることは何か」と問うことの効果について書かれています。
「Stillness speaks」 や「場所中心的自己」と同じことが書いてあった記憶がありもう一度読み返しました。
1.自分のための1分間 2.自分を大切に生きる 3.相手を大切に生きる 4.お互いを大切に生きる 5.人生を変える の5章から書かれています。(以下引用)
(伯父)「自分自身に1分間をとるということは、昔の人の知恵を、現代の生活に単純な形で応用したものなのだ。これまで何世紀もの間、いろいろな文化の中で、多くの人によって説かれてきたこと・・・・
中国で、インドで、そして中東で説かれてきたことと同じなのだ。
禅ではこれを内観の力と呼んでいる。自己観察、つまり内観の力は、静寂の瞬間からはじまる。この場合はそれが1分間だ。
これだけで、1つの道が開けてくる。自分と対峙する静かな時間の中で、自分の行いや考えていることが見えはじめるのだ。自分自身を観察できるのだ。」
(甥)「そこで自分が行っていることが見えることによってそこからさらに・・・」
(伯父)「行うことを選びとることができる。・・・肝心な点は、わずか1分間で自分の行動や思考を内観できるということだ。」…
〈また私がずっと頭の中に記憶していたのは次のイメージでした。〉
(伯父)「自分を深刻に考えすぎているなと思う時は、雲の上で神様が面白がって、自分の歩みを眺めていらっしゃるなと想像するのだ。」(引用ここまで)
この1分間自己革命の方法は、清水先生のいう「自己中心的観点から見ることを止めて彼我の境界を超越した場所中心的観点に立つ」ことであり、
エックハルトのいう「意識を感覚に注いでみると、突如として感覚の周囲に空間と静止状態を感じはじめる」に通ずることであり、
ウィルバーのいう次のような「目撃者」に繋がっていくものではないでしょうか。
「目撃者に落ち着く。自己収縮を感じる。・・・開け、自由、空性、解放の中に安らぐ。ありのままにまかせよ(Let it be)。」
「わたしが目撃者に落ち着いている時、この無形の私−私に落ち着いている時、明らかなのは、わたしはこの家の中にはいない、この家はわたしの意識の中にあるということである。わたしは純粋な目撃者であり、その意識の中でわたしの家は生起しているのである。わたしは家の中にはいない。家がわたしの意識の中にある。であるがゆえに、意識のままであれ。」(ケン・ウィルバー『存在することのシンプルな感覚』より)