以前から思っていたのですが、般若心経で説明されるところの「空」とケンウィルバーが書いている「空」は違うような気がします。本当は同じなのかもしれません。空が違うということ自体、空が非二元であることから矛盾しているといえますが、異なる説明がされていると思います。
例えば、龍樹−空の理論と菩薩の道(瓜生津隆真著)によりますと龍樹(ナーガールジュナ)による説明として、「縁起(依存関係による生起)とは実体として生起することではないから、生と滅、有と無などの極端を想定する垢に汚されることのない縁起は、実体が空である」とし、「もろもろの存在が他によってあることが空性の意味である、とわれわれはいうのである。他による存在には本体(自性)はない」と書かれています。
般若心経の現代語版といわれる柳澤桂子さんの「生きて死ぬ智慧」にも、「形のあるもの、いいかえれば物質的存在を私たちは現象としてとらえているのですが、現象というものは、時々刻々変化するものであって、変化しない実体というものはありません。実体がないからこそ形をつくれるのです。実体がなくて変化するからこそ、物質であることができるのです。」というように色即是空、空即是色のことが書かれています。
すべてのものは相互依存関係にあるためそれ自体で固定したものはない、だからこそ諸行無常であるということでしょう。縁起というはたらきによってあらゆる物は生じており、だからその本質は「空」であるということです。ある意味では非常に自然科学的な見方だと思います。
それに対してケンウィルバーは「広大な空はどのように性格づけることも描写することもできない」としながらも「それは対象をもたない「意識」である。主体として「見る」ことはできるが、対象として「見られる」ことのない純粋な「自己」である。無私の「目撃者」であり、すべての宇宙を映し出す鏡の心(鏡智)である」と表現しています。
そして「あなたとはいったい誰か?あなたはあなたの思考ではない。なぜなら、あなたは思考に気づいているから。あなたは感情ではない。なぜならあなたは感情に気づいているから。あなたは、あなたが見ているいかなる対象でもない。なぜならあなたはそれらに気づいているからである。
ではあなたの内にあって、そのすべてを意識しているものは何か?この広大な気づきの意識。これを認識できるだろうか?すべてに気づいている意識、すべてを目撃している「目撃者」とは何か?あなたは、まさにこの目撃者ではないだろうか。純粋な「見者」ではないだろうか。あなたの意識は広大であり、大きく開かれている。「空」であり、透明である。」(「存在することのシンプルな感覚」やっぱり松永さんの訳はすごい)というように主体としての「空」が表現されています。
さらに「常に現前する私の意識である広大な「空」のなかで、雲が漂っているのに気づいていると、突然、目撃者がいなくなる。見者は見られるものすべてのなかに消える。主体と客体は1つの味わい(ワンテイストス)の中に消えてしまう。」これはウィルバーのいう元因から非二元への移行を表現したものですが、とてもロマンティックだと感じてしまいます。
この主体としての「空」、皆さんはどう思われますか?