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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

目撃者とは

Witness(目撃者)

目撃者は

心―身体の内側と外側に起こる出来事の流れを創造的に切り離された態度で見つめることである。

目撃者は
ラマナ・マハリシが「私−私」と呼ぶものである。なぜなら、それは「個別のわたし」を意識できるが、それ自体は対象として見られることがないからである。

目撃者は
特定の思考ではない。

目撃者は
純粋な主体であって客体ではない。

目撃者は
純粋な空性であって、そこにおいてすべての現象は、現れ、しばらくの間、とどまり、そして去っていく。

目撃者は
いかなる意味でも見られることはない。

目撃者は
時間の流れのなかにはない。それは、そのなかで流れが生起する広大な自由の広がりのなかにいる。

目撃者は
それら(目撃する小さな主体や客体)から完全に解放されている。苦悩、混乱、恐怖、望みなどに決して捉えられることはない。それらから完全に自由である。

目撃者は
来るものでも、去るものでもない。それは空間のなかに生まれるものでも、時間のなかで動くものでもない。それは客体として、そこにあるものではないので、時間、空間、誕生と死の流れのなかに入っていくことはない。

目撃者は
顕現に先立ってあり、ビッグバンに先立ってあるものである。

目撃者は
決して生まれることがないので、死ぬことがない。不生不滅である。それは決して時間の流れのなかに入らない。

目撃者は
それ自体、あなたが見ることのできる特定のものではない。それは広大な、すべて起きるものの背景となっている自由の感覚である。

目撃者は
ネティ、ネティ、つまりこれでもなければ、あれでもない。それは属性をもたないブラフマンアートマンである。非-時間的な、「不生」なるもの、無形の見者、根源的な「私-私」、輝くような空性である。

目撃者は
すべてのものから解放された大いなる「自由」「解放」としてすべてのものの背景としてのみ「感じられる」ものである。

目撃者は
公平な鏡のような心(「大円鏡智」)

目撃者は
特定の経験ではない。それは、そのなかですべての経験が来ては去っていく「開け」である。

目撃者は
目撃されるもののなかに溶解する。あなたが雲を目撃するのではない。あなたが雲となる。これが「スピリット」である。

目撃者は
目撃されるものすべてのなかに溶解する。主体/客体の二元性が解体され、そこには非二元的な意識があるのみである。


以上、目撃者についての理解を深めるため、ウィルバーの「存在することのシンプルな感覚」 第1章 目撃者 より抜粋しました。