ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

目撃者の視点を常に保つ Running as the Witness

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前回のブログで取り上げたthe 3 Body Workoutでcausalなボディを一定に保ち、その上にsubtleボディとgrossボディを乗せていく一連の流れをみましたが、一体それはどんな感じかをもう少ししっかりとインプットしたくて、思いを巡らしました。動きを伴いながらも背景として一定にそれを保つには、ウィルバーの「ワンテイスト」( One taste )のこの文章が最も感覚としてピタッとくると思われます。(以下One tasteより引用、訳は「存在することのシンプルな感覚」より)

Worked all morning; decided to go jogging down behind my house. If you remain as the Witness while you run, you don’t move, the ground dose. You, as the Witness, are immobile―more precisely, you have no qualities at all, no traits, no motion and no commotion, as you rest in the vast Emptiness that you are. You are aware of movement, therefore you as the Witness are not movement. So when you run, it actually feels as if you are not moving at all―the Witness is free of motion and stillness―so the ground simply moves along. It’s like you’re sitting in a movie theater, never moving from your seat, and yet seeing the entire scenery move around you.
(This is easy to do when you’re driving down the highway. You can simply sit back, relax, and pretend that you are not moving, only the scenery is. This is often enough to flip people into the actual Witness, at which point you will simply rest as choiceless awareness, watching the world go by, and you won’t move at all. ・・・

早朝から仕事。家の裏へジョギングに出かけることにする。走っている間、「目撃者」にとどまれば、あなたは走っていない。走っているのは地面である。「目撃者」は不動である。より正確に言えば、この広大な空性のなかで安らいでいれば、どんな軌跡も運動も、動揺も混乱もない。あなたは、運動に気が付いている。したがって「目撃者」としてのあなたは運動ではない。
そこで、走っている時も、まるで自分はまったく動いていないように感じる。目撃者は、運動からも静止からも、自由なのである。そこで地面が単に動いているように感じる。ちょうど映画館で、自分自身は席に座って、まったく動いていないのに、すべての場面が目の前で動いているようなものである。
 高速道路で運転している時、こう感じることは易しい。単に座って、リラックスし、あたかも自分が動いているのではなく、風景が動いているのだと感じてみる。これはしばしば人を目撃者の位置にフリップさせる。この時、あなたは「無選択の意識」に安らぎ、世界が通り過ぎていくのを見ているが、あなた自身はまったく動いていない。・・・(引用ここまで)


the 3 Body Workoutは瞑想の実践ではなく実際に運動を伴います。運動しながらもcausalの状態を底流として保つ必要があります。そのイメージはまさにこのRunning as the Witnessとも言える状態ではないでしょうか?

しかしこれって、まったく清水先生の場所中心的自己ですね。柳生新陰流の極意です。宮本武蔵の「観の目うらやかに相手を見るべし」も同じだと思われます。イチローのWBC決勝打もそうでした。

このように理解してくると、自分の中でも感覚的に腑に落ちたような気がします。Keep some withinを発展させればやれそうです。Subtleとの境界がはっきりするかどうか分かりませんが。Stillnessの感覚と鳥瞰的な視点の維持がポイントになりそうです。Running as the Witnessと勝手に名称をつけましたが、まず1日1回は思い出してやってみようと思います。