「納得がいかない」ことが時として起こります。この「納得がいかない」こととは何でしょうか?
私たちの多くは合理的に物事を理解できるように教育を受けてきています(基本的にオレンジの教育を受けているといえます)。投げたボールが落ちてくるのは万有引力の法則が働くからですし、海が青く見えるのは青色以外の光が海に吸収され、青色の光だけが反射されて目に入るからです。
このように原因が分かると「納得がいき」ます。ですから、いろいろな事柄を「こうだからこうなったのだ」、あるいは「こうすればこうなるだろう」と因果関係において捉えるよう習慣づけられています。
自分に降りかかってきたことについても同じです。
原因を整えれば結果が得られるような場合は「納得がいき」ます。たとえば「努力して勉強をすれば成績が上がり、よい大学に入れる」ことや、あるいは「頑張って営業すれば営業成績が上がり、給料が上がる」というように物事が運べば「納得がいく」のです。逆に「頑張って営業成績を上げたのに賞与が少ない」のはどうも「納得がいきません」。会社全体の景気が悪いからと説明されれば、ああそうかとも思いますが、それなら自分より業績の悪い者の方が昇進したりすると、原因と結果の整合がつかないため、これはどういうことか?と「納得がいかない」のです。
人生には、時として「納得のいかない」ことが起こります。100人にひとり、1000人ひとりしか罹らないような病気になった時もそうではないでしょうか。なぜ自分なのか、なぜわが子なのか「納得がいきません」。一定の確率で起こることであるとしてもなぜそれが他人ではなく自分なのか、頭で分かったとしても心はどうしても「納得できない」のです。
「納得できない」というのは、いいかえると「道理に合わない」すなわち「非合理」だということです。
非合理な状況に遭遇した場合、人は時として非合理的に判断し対応します。
インテグラル理論ではこの「非合理irrational」を「前-合理的pre-rational」と「超-合理的trans-rational」に見分けることが重要だと言っています。数ある発達ラインのうちJean Gebserの世界観の発達ラインは、前‐合理的段階(archaic、magic、mythic)から合理的段階(rational)、そして超‐合理的段階(pluralistic、integral)へと発達します。そして前‐合理的段階も超‐合理的段階もともに非合理的なため混同されることが多いのです。これを前/超の混同(the pre/trans fallacy or the pre/post fallacy)とウィルバーは呼んでいます。
原理主義者とニューエイジは前合理的 - ウィルバー哲学に思う
超‐合理的なリアリティを前‐合理的な幼児性に縮小・還元してしまったのがフロイトであり、前‐合理的な幼児的な要素を、超‐合理的な栄光へと上昇させてしまったのがユングだとウィルバーはいいます。そしてこの上昇も縮小も同じ前・超の混同です。
前‐合理的な反応とはどのようなものでしょうか。
たとえば、こんな話がありました。子どもが難病になったことを占い師に相談したところ家族に誰か動物を虐待した人がいるのでは、と言われました。家族で話し合うと、夫が少年時代に川に子猫を流したことを記憶していました。これが原因かと占い師にまた相談すると、その子猫を毎日供養しなさい、といわれて実践したという話です。特別に迷信深い人ではなかったといいます。これなどは「前‐合理的」の典型的な反応でしょう。呪術的価値観(magic)です。
それに対し、前々回のブログで紹介したフランクルの気づき。「今わたしをこれほど苦しめうちひしいでいるすべては客観化され、学問という一段高いところから観察され、描写される…このトリックのおかげで、わたしはこの状況に、現在とその苦しみにどこか超然としていられ、それらをまるでもう過去のもののように見なすことができ…」というVision。「人生からなにを期待するかではなく、人生が私たちからなにを期待しているか」であるというコペルニクス的転回によって獲得した使命感などは、「合理的」を超えた超‐合理的な段階、実存的段階、インテグラル段階で獲得されるものであるといえるでしょう。
次々と闘病仲間の子ども達が亡くなっていく小児病棟の中で、「私は必ず何かする!」とコミットしたひとりの母親の想いからNPO法人エスビューローもはじまりました。
納得のいかない状況に遭遇し、合理的解釈では歯がたたないような実存的苦悩に直面したとき、前‐合理的な価値観へと退行するのではなく、合理を超えるミッションに覚醒したVisionの探究(Quest)こそが求められるべきものなのではないでしょうか。