ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

Natureを支配しようとすること(Objectify)の逆説

かなり前から取り上げたいと何回か思ってきたテーマなのですが、自分の中でクリアーになりきれていない部分が残っていました。

しかし「緊急のモードで、モノやことを対象化することは感情移入を減じ、分離感をつくりだすことで、経験から私たちを遠ざける」というフェーミ博士の一文に触発され、やっぱり書こうと本日、筆を取りました。

仏教学者David LoyのLack and Transcendenceの第5章Trying to Become Realには「歴史的に条件化された幻影の4つの形(名声欲求、ロマンティックな愛、金銭的強迫観念、科学技術の発達)」が書かれています。

その4つ目、技術の進歩に対する集団的な投影について取り上げたいと思います。p149「進歩は私たちの最も重要な産物である」 という節から、ラインマーカーを引いたところを抜粋しました。

(以下、引用)
私たちは人の召使として技術を語るが、しかし今や召使は家事を支配し、燃やすには強すぎ、誰もがどうすることもできずそれを頼っている。

私たちは科学的技術的な進歩を当然と考える傾向がある。それは、説明する必要などないという意味だ。これらの神話の重要性を把握するのは困難だ。なぜならそれらは生々しすぎ、大きすぎる私たちの神話だから。

ひと世代の間に、ライト兄弟から月に着陸するまで「進歩する」ことは自然なのだろうか?今日この問いの重要性はそれがもはや避けることのできないものであることを意味している。経済的な危機が、私たちに技術と進歩の意義を認めるよう駆り立てるのだ。

Ariesは死の歴史的研究の終わりに、技術には限界がないという信念にコメントを残している。「技術は、死が打破されるという幻想をもつに至るまで、死の領地を侵食している。」

これは死を避けようとする私たちの企てのもう一つのシンボル化された無意識のバージョンであるかもしれない。

欠乏の視点からは、技術とは世界全体を私たちの所有するgroundへと変えることによってこれ以上ない安全を作ろうとする集合的な努力として見ることができる。

私たちは、リアルになろうと努める。自分のリアリティを支え証明するために、環境全体を再組織化することによって、そうするのだ。

私たちを守るための集合的なプロジェクトが、私たちを破壊しようと脅かしているのは、究極の皮肉だ。

私たちが投影したものが、私たちにリバウンドして来ている。

近代日本の哲学者(禅の師)である久松は、それをうまくいっている。「私にとって対象となったものは、私を捉えてはなささない何かである」と。

仏教徒にとって、技術的な対象化の問題は、すべての対象化の問題の極端なひとつの形である。

私たちは、世界と非二元であり、それと切り離されていないため、世界を対象化(to objectify the world)することは、それによってそれの中に対象化されること(to be objectified by it and in it)なのだ。

地球が私たちにとって管理しうる資源の寄せ集めへと矮小化されるとき、これをするために造られた物質的、社会的構造は私たちに同じことをする。

そして、次第にそれらに従属させられた自分自身を、私たちは発見するのだ。

自然、命令(支配)されるべきもの、それは守られねばならない、とBaconは言った。

しかしもし、私たちが命令(支配)するために、従わねばならないとしたら、その時、私たちの命令(commanding)は、本当は服従すること(obeying)になる。

ヘーゲルのPhenomenology of Mindの弁証法のように、主人は召使になるのだ。
(引用ここまで)

いかがでしたか?

対象化することが対象化されることにつながる・・・。

支配することが服従することにつながる・・・。

なんだか今の原発問題の背景にある構造と結びついているような気がします。

私たちの世界に対するオブジェクティブに偏重した見方が、Natureを支配しようとする方法論としての「技術」を生み出し、経済的な強迫観念と相まって私たちを際限なく駆り立てるのです。

A sense of lackが集合的に投影された結果として技術の進歩を捉えるというのは、まさにいま必要とされている視点のひとつではないでしょうか。

私はロマン主義者ではありませんし、ガイアを最上位におくディープエコロジストでもありません。AQALのクオドラントの右下象限に偏重したシステム理論中心主義でもありません。

しかし原発という巨大技術を考えるときに、技術そのものに対しても、そこに埋め込まれているかもしれない人間の集団心理を見抜く視点をもっていたいものだと思いました。

前回まで連続して取り上げてきたナロー/オブジェクティブからディフーズ/イマーストへというアテンションの移行が、こうした技術の見方に応用できて不思議な気がします。

To objectify the world is to be objectified by it and in it.

この逆説、また続きをどこかで取り上げたいと思います。