ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

青空としてのわたし

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このブログでいつも伝えたいと考えていることを「直球、ストライク!」という表現でタイトルになっている鎌倉一法庵住職の山下良道さんの著書「青空としてのわたし」を読みました。

良道さんはもともと曹洞宗僧侶でアメリガでの布教経験を経て、ミャンマーにわたり、テーラワーダ比丘となるという異色のキャリアの持ち主です。大乗とテーラワーダを統合し、仏教3.0と呼ぶ「アップデート仏教仏教1.0および仏教2.0からアップデートされた仏教)」のコンセプトを発信しておられます。

これを読んでひとつ謎が解けました。

それはヴィパッサナーでは、「マインドがマインドを観察している」ということです。本当はそうではないのかもしれないのですが、そのようにしか説明されてこなかった、と彼は言います。こう書かれています。

テーラワーダの文脈では、ヴィパッサナーとは、ナーマ(精神的なもの)とルーパ(物質的なもの)が生じて滅しているのを観ていくことです。究極的には、その生ずること滅すること自体が止まる、そういう世界です。だから何もない空の世界に入っていきます。
 そこで問題は「空なる世界を経験する」ことと、「自分自身が空であると認識すること」は別だということです。…形のない世界を経験するということは、瞑想メソッドに従っていけばできないことはないけれども、それではまだ答えにはなりません。形のない世界を経験することの本当の意味が、まだそこでははっきりしていないからです。
 その本当の意味は「私とは形のない空そのものだ」ということです。身体の感覚を感じることによって、シンキングを手放しても、無意識になるわけでも眠るわけでもありません。もちろん、シンキングするわけでもない。非常にはっきりした意識で身体の感覚を感じ続けています。
 これはどういうことなのか。ここの説明が今までのヴィパッサナーの説明では足りませんでした。今までのヴィパッサナーの説明では、ここでアブソリュート・エクアニミティ(absolute equanimity)という言い方をします。それは、完全な平衡・平静ということです。何かを好んだり嫌ったり、執着したり、怒ったりしないで、完全に平静な気持ちで、すべてのものが生じて滅しているのを観ることだと説明されています。
しかし、それだけでは説明として足りません。もう一歩進んで言わなくてはならないのは、シンキング・マインド(飛び跳ねてやまないお猿さんのような心)が手放されて落ちたけれども、無意識になるわけではない。眠るわけでもない。シンキングしているわけでもない。しかし、非常にはっきりした意識がある。それはどういうことかということです。…瞑想のなかでは午前三時の時点で自分がどういう状態かが分かるのです。シンキングを手放して、身体の感覚に集中している時には、はっきりと認識しているシンキングではない別の意識があります。
ということは、シンキング・マインド以外の主体がいるということです。…
しかし、テーラワーダの主流派では、このことを認めません。悟りの体験は、後で振り返ることしかできないとされています。
私はこの問題を、野球のピッチャーにたとえて説明しています。
テーラワーダの野球チームには、ピッチャーが一人しかいないのです。…大乗仏教では、ピッチャーが二人います。先発ピッチャーであるシンキング・マインドが脱落した後は、瞑想が得意なリリーフ・ピッチャーに交代するのです。
シンキング・マインドが消えている瞑想中にもはっきりとした意識があることは、ピッチャーが実際に二人いるということを証明しています。
ところがリリーフ・ピッチャーの存在を前提としていないと、先発ピッチャーにずっと投げさせるということが起こります。先発ピッチャーはシンキングが専門で、瞑想はできなのです。それにもかかわらず、無理に投げさせれば、ぼろぼろになってしまいます。シンキング・マインドで瞑想するとはそういうことです。 
ピッチャーは二人いると考える方が、実際の瞑想で起こることを、はるかにうまく説明できます。このリリーフ・ピッチャーを私は青空と呼んでいるのです。
この主役の交代を「雲から青空にチェンジした」という言い方で表しています。雲は自分のなかに湧き起り続けるシンキング・マインドです。今までは、雲からものごとを観ていた。しかし今は、青空からものごとを観るようになった。青空から見るようになった状態をアブソリュート・エクアニミティと言うのです。この「完全なる平静さ」は、あらゆるスピリチュアリティの伝統のなかで言われてきたことです。ヴィパッサナーの説明でも当然言っています。しかし今までのヴィパッサナーの説明のなかでは一番肝心なところが欠けていたのです。「なぜアブソリュート・エクアニミティが成り立つのか」ということです。それは「青空から観ている」からなのです。…
こうして「誰が瞑想するのか」という主体が転換します。「私とは誰」というところが根本的に変わるのです。(引用ここまで)



この青空はウィルバー哲学でいう目撃者あるいは観照者(Witness)です。主体の転換はステージで言うとターコイズの色(統合的全体的世界観)で示されるアルケミストの段階(Susan Cook-GreuterがConstruct-Awareと呼ぶ段階)から起こりはじめます。

良道さんはこの青空への転換を促すために、ワンダルマ・メソッドという瞑想プログラムをつくられました。「テーラワーダでもないし、大乗仏教でもない、それらが完全に統合された形でのワンダルマ仏教、つまり3.0の仏教の瞑想メソッドです。」と書かれています。

詳しくは本を読んでいただきたいのですが、大まかには3つのステップで構成されています。

まずは、「微細な体の感覚を観る」です。先の文章に「身体の感覚に集中して」とか「はっきりとした意識で身体の感覚を感じ続けて」という表現ができ来ましたが、これはILP(インテグラル・ライフ・プラックティス)でいうところのサトルボディ(subtle body)を感じることと同じです。ウィルバーの「インテグラル・スピリチュアリティ」ではこの状態(state)は、粗大(gross)→微細(subtle)→元因(causal)→目撃者(witness)→非二元(non-dual)へと進むとされています。

具体的にはエックハルト・トールのインナーボディを感じる方法に大変近いイメージを持ちました。

そして、微細な感覚を観ることを続けることで、シンキング・マインドが落ちると良道さんは書かれています。

その後に「慈悲の瞑想」を行います。

最後に「呼吸を観る瞑想」を行います。

良道さんが安泰寺で学んだ内山老師は「思いの手放し」ということをいつも言われたようです。それは道元禅師のいう「身心脱落」のことだと書かれています。そしてある時、老師のいった「思い」とはシンキング・マインドのことで流れゆく雲のことだと分かったといいます。最後に以下を引用して終わります。

呼吸を観たり身体の感覚を観たりすることで、そういう雲をすべて手放し、青空の中に入っていくことができます。これは理論ではなく、実際のことです。青空に入ったとき、立つ場所が違っています。今までは雲の中に立っていたのが、その雲が手放されたときには、青空に立っている。青空に立ったときにのみ、すべての雲に対する非常に強い慈悲の力を感じるのです。



まさにLet it go!ですね。