ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラーなど、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

「見せかけの不運」から「高次の秩序」へ

3月6日のブログで『見せかけの不運』について書いた。

 

ある出来事を、その出来事単独で、その時の自分にとって好ましい事、好ましからざる事で分けて、あれは良い出来事、これは悪い出来事、前回は幸運な出来事、今回は不運な出来事というように判断する。人生において起こる事柄に対し、無意識でいると、ついついこのよう見方をしてしまう。

 

しかしそうではない見方がある。異なる見方にシフトするためのキーワードが「見せかけの不運」、あるいは「不運に見せかけた幸運」であった。一見、不運のように見えるが、長い目で見直すと一概にそうとは言えない。あるいはそのことがきっかけになって様々なことへ波及していった自分の人生を振り返るなら、むしろあの不運があったればこそ次のステージへ人生が展開していったのだという場合、それは「不運に見せかけた幸運」であったといえる。

 

しかしそれを後になってそう思うのでなく、いま一見そうした不運に見える出来事に見舞われているこの最中に、そうした見方にシフトすることができたなら、困難を乗り越える一助になるだろう。

 

そして久しぶりにエックハルト・トールのA New Earthに目を通していて、次のような一文に目が留まった。

 

(p194引用拙訳)

人は、中身(content)だけを自分と考え、「自分にとって何が良くて何が悪いのか、そんなことは分かっている」と考える。

いろいろな出来事を「自分にとって良いこと」と「悪いこと」に区別する。

しかしそれでは「人生の全体性」(wholeness of life)を断片的に認識することになる。

じつはその背景ではすべてが絡み合い、あらゆる出来事が「総体」(totality)の中で、あるべき場所と機能を有しているのに。

「総体」は、ものごとの表面だけを見ていては分からない。

「総体」は、部分の総和以上のもの、あなたの人生や世界の中身以上のものだから。

人生でも世界でも同じ。

一見ランダム(偶然)な、それどころかカオス(混沌)とさえいえる出来事の連なりの奥に、「高次の秩序」(higher order)や目的が隠されている。

禅ではこれを「好雪片々として別所に落ちず」と美しく表現する。

私たちは、思考を通しては、この「高次の秩序」を理解することはできない。

私たちが考えるのは中身についてなのに、「高次の秩序」は意識の無形の領域、普遍的な知性から生じているから。

でもそれを、垣間見ることはできる。

否、それ以上に、高次の目的へと至る道程の意識的参画者(conscious participant)として、その「高次の秩序」に合わせる(align with)こともできる。

・・・

隠された「調和」と「聖性」を感じ取れれば、あなたのある側面がそれと一体であることに気づく。

そこに気づけば、あなたはその「調和」の意識的な参画者になれるのだ。(引用ここまで)

 

 

このことを当ブログのシンボルマークである「円相ヘキサキュ―ブ」で表してみたい。

 

「出来事の一つ一つを良い悪いと断片的に認識すること」とは、

この図形を平面六角形(ヘキサゴン)として、その中身の各々の三角形を良い悪い(白or黒)と分けてバラバラに見ること。これはウィルバーの言葉では「知の眼」でみることである。

f:id:nagaalert:20180425184223j:plain

「ランダムな、カオスとさえいえる出来事の連なりの奥に、高次の秩序(higher order)や目的が隠されている」とは、

 

この図形の対角線に一定の秩序を見出し、ひとつの全体(wholeness)である3次元立方体(キューブ)として見ることである。三角形の集まりに見えた図形は、視点を変える(次元を繰り上がる)ことで、ムダのない秩序ある全体に変貌する。

これはウィルバーの言葉では「観想の眼」でみることである。

f:id:nagaalert:20180425184327j:plain

「人は、中身(content)だけを自分と考え」とあるが、前頁にこう書かれている。

 

では中身以外に何があるのか?その中身の存在を可能にしているもの、それは「意識の内なるスペース」(The inner space of consciousness)である。

 

「意識の内なるスペース」は、円相ヘキサキュ―ブの「円相」に対応する。ウィルバーの言葉では目撃者(Witness)だ。Awarenessといってもよい。

その中ですべてが生起する空開処(Openness)である。

f:id:nagaalert:20180425185422j:plain

すなわち「中身の自己」とだけ同一化し、Witnessの視点をもたないなら、人生の出来事はバラバラの断片である。それは良い事と悪い事がランダムにやってくるカオスである。

 

しかし、意識の内なるスペースであるWitnessに安らぐことができるなら、華厳のインドラの網のような、「高次の秩序」の存在を感じ取れるはずだ。

 

出来事を良い悪いと判断せず、ありのままを見れば、井筒のいう分節I→本質の無化→分節Ⅱが起こる。

ヘキサゴン→円相→キューブ、すなわち「円相ヘキサキュ―ブ」。

f:id:nagaalert:20180425185525j:plain

私は、いま起こっている事の背景に、「高次の秩序」を感じ取れるだろうか。

Rest as the Witness!目撃者に安らぐ。

さすれば「見せかけの不運」から、さらなる高み「高次の秩序」への道が開けるだろうか。