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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

ことば、そして「関係づける能力」の功罪

ACT 苦痛から苦悩へ エックハルト・トール Inter Being ティクナット・ハン フロイト シャドウ

7月14日の「マインドフルネスで包んだ後にくる洞察」に対して、ACTと似ていますね、とコメントをくださった方があった。
ACTとはアクセプタンス・コミットメント・セラピーの略で「第三世代の認知行動療法」と呼ばれているとのこと、早速、”Get Out of Your Mind & Into Your Life” (Steven C. Hayes, Ph.D.)と、その邦訳本「ACTをはじめるセルフヘルプのワークブック」(武藤崇ほか訳)を購入した。

たいへん興味深く読ませていただいている。

まずはその中から、ことばの弊害、物事を「関係づける能力の弊害」について紹介したい。

以前7月4日のブログでこう書いた。
「区別する能力(capacity to make distinctions)はサバイバルの道具として進化してきた」のです。 有用か有害か?食べることができるか、逆に食べられてしまう危険があるのか?を識別できることは人類が食物連鎖の頂点に立つ上で間違いなく貴重な能力です。しかしその能力が「私たちはバラそのものを見ているのではなく、むしろその観念(concept)を見ているのだ」というように作用するのです。

これは、ことばが本来的に有している物事を区別する働きの功罪を表わしている。すなわちヒトという種は他の動物にはない「ことば」というものを使えるようになったことで、思考が発達し、道具を発明し、生存競争を勝ち抜き、文明を築いてきたが、一方で「今この瞬間」から離れて過去を後悔し、未来を心配する苦悩を背負い込んだということである。

このような「ことばの功罪」「ことばのもつ両義性」ともいうべき性質に関して、この著書でも、第1章「苦悩のひみつ、苦悩は苦通以上のもの」で描かれている。それは苦痛(pain)を上回る苦悩(suffering)が生まれるメカニズムについての説明だ。

原書Chapter1のタイトルはHuman sufferingであり、これはまさにブッダのいった四諦の第一の真実、「苦がある」ということの心理学的な解説である。

そこにはこう書かれている。(以下引用)

16ヶ月あるいはもっと前から、ヒトの赤ちゃんは、物には名前があり、名前がその物体を刺すことを認識しています。つまり、ことばを使用する人間は、一方向の関係性を学ぶだけで、同時にもう一方の関係性を学ぶことができます。たとえば、「@とはアットマークのことである」という関係を学ぶと、同時に「アットマークとは@のことである」ことを認識できるのです。・・・
このような認識ができるかどうかが、人間とその他の動物の生活を大きく分けるポイントとなっているのです。・・・
つまり、人間は1つの方向の関係性を(A→B)を学ぶと、もう一方の関係性(B→A)も同時に知ることになるために、「A」というモノを「B」というモノのシンボルとして扱うことができます。(引用ここまで)


しかしこの「ことば」の長所は、「苦痛を苦悩へと」拡大させる作用をあわせもつことになるという。

2010年9月30日のブログを思い出した。Milton’s Secretで猫のSnugglesが犬からケガをさせられた「苦痛」だけを感じたのに対し、Miltonは上級生のCaterにまた殴られるのではないかという不安のために夜も寝られなくなった。それは人であるからこそ増幅された「苦悩」だ。

Milton's Secretと「二本の矢」 - ウィルバー哲学に思う


悪循環すると関連することをどんどん想起してしまう。そのことによって苦痛が苦悩へと変わる。これがブッダのいった「二本の矢」なのだ。

そして第2章「言語のひみつ ことばがあるから苦悩が生まれる」では「関係フレーム理論」に基づき、ことばの功罪、関係づける能力の功罪がもっと詳しく書かれている。ポイントはこうだ。

人間のマインドは「あるものとあるものを関係づける能力」をもっている。それには

「~と同じ」「~と似ている」という等位のフレーム
「~より良い」「~より大きい」「~より美しい」という比較、評価のフレーム
「前と後」「もし~ならば…」「~による」「~の元」などの時間、因果のフレーム
「私/あなた」「ここ/あそこ」という視点に関連した対象指示のフレーム
「近い/遠い」などの空間のフレーム



のような「関係フレーム」がある。そしてこうした関係フレームを使う思考によって、外的な問題を解決することができるのだが、この方略を「内面に適用」しようとしたときに問題は起こるのだという。

なるほど。

ここで私は外的な問題解決への適用の一例として、貨幣経済以前の「物々交換」にこれをあてはめて考えてみた。

まず、同じ種類のブドウを集める(等位)。粒が大きなブドウはより価値が高いものとして取引される(比較、評価)。粒が大きなブドウ1kgと粒が小さなブドウ500gを中程度の大きさのサバ3匹の価値が等しいと見なして(比較、評価)、私とあなたがモノを交換する。それによって山で暮ら人には食べられないサバを私は食べることができ、海辺に暮らす人にとって珍しい果物をあなたは食べることができる。(う~ん、いまひとつの例だったか??)

例の良し悪しはともかく、このような物事を「関係づける能力」を発達させることによって経済活動が行われたり、生活を脅かす問題が解決されたりしてきた。これは確かにことばの恩恵だ。

しかしこの「関係フレーム」が内面の問題を解決するために適応されると、むしろ苦痛を苦悩へと拡大することになる、これがACTの主張することのひとつであり、それに類することはこのブログでも何度となく触れてきたことでもある。

① 対象に名前をつける、出来事にラベルを張り、その特性をインプットする。
② 「もし~ならば」と考える(随伴性)
③ 比較や評価する
という本書P41に書かれている3段階のプロセスが内面に適応される場合を考えてみた。

例えば木から落ちてけがをした経験がある人の場合

「木の上→恐い」がインプットされる、また「木の上→高い」というのはその場所の特性である。すると「高い」ところにいることは、もしかすると落ちるかもしれない(随伴性)と想像されるので「高いところ→恐い」という回路ができあがる。木の上でなくても高いという特性をもった場所なら同じように(等位)どこでも、もしかすると落ちるかしれない(因果)ので「恐い」。あるいは木の上よりもっと高いところならもっと危険だという(比較、評価)という回路も形成されることになる。時には「値段が高い」という意味であっても「高い」という活字を見るだけで位置の高さが連想され(等位)、不安な気分が引き起こされるかもしれない。

「言語的な問題解決の方略を自分自身の内面にある苦悩に適応してしまうと多くの場合、逆効果になってしまうのです」(P42)ということの意味はこれなのだ。

さらには

考えないようにしようとすると、しばらくはその考えが頭に浮かぶ頻度が減ります。しかし、すぐに以前よりも頻繁にそれが想起されてしまうようになる、ということなのです。そして、その考えや思いが、自分自身の中で膨らんでいき、さらに反応(考えや思い)を生起させやすくなっていくのです。つまり、考えを抑え込もう(抑制しよう)とすることは事態をさらに悪くするだけなのです(P43)。



とある。

もともとの苦痛を回避しようとすればするほど、苦痛が大きくなる(More avoidance, More pain)。

苦痛が苦悩へと変わる、とはこのことなのだ。

それはことばの弊害であって、ことばによる思考がもつに至った「関係づける能力の弊害」だ。

ここで今回のブログを終わろうと思っていたが、一日おいてそのことを吟味した。

そしてこう思った。

しかし関係づける能力を内面に適応する場合にも恩恵はあるのではないか?

そのひとつは、ティクナットハンがいうように自分というものは、すべて他に依って存在している。父親と母親から生まれた、彼らはその先祖から生まれた。今日食べたヨーグルトは牛乳からできており、牛は飼料を食べるが、それはオーストラリアのトウモロコシからできていて、その穀物は太陽の光と雨と肥沃な土壌によって作られる。肥沃な土には有機物を分解する微生物がいて…。私のもっているこの考えはあの本を読んだからで、その本を読めたのは英語を学んでいたからで、それは中学の時よく友人とビートルズの歌を歌っていたから好きになったのであって(時間、空間、因果)…、というようにこのように「関係づける能力」は自己の相互依存性を理解することに役立つ。それはティクナットハンのいうInter-being(相互共存)としての私であり、無我であり、確たる実体はなく刻一刻と変化し流動している無常としての私だ。であるから関係づける能力は一方で「大いなる関係性としての私」という存在に知的にアプローチする上で大きな役割を担っていることは間違いない。


また言語化することで、つらい感情との脱同一化が図れることがある。言語化すること(カウンセラーや仲間に話したり、本やブログに書いたりすること)は「喪の仕事」(対象喪失の悲嘆を癒す一連のプロセス)を促進するようだという話が先日(団体内部の打ち合わせで)でたのだが、その通りだろう。その理由は二つ考えられる。

ひとつは言語化することでその経験を対象化でき、自らの内面に起こったことを客観視し、つらい感情との間に隙間を持つことができる(言語による外在化)。すなわち再体験を選択する余地が生まれることだ。風船モデル(注)の風船から頭を抜くことといえよう。

風船モデル - ウィルバー哲学に思う

そしてもうひとつは、ことばがその経験や辛い感情のリアリティを矮小化できる(たいした事ではないと見なせるようになる)ことからくるのではないだろうか?と最近考え始めた。これはことばのリアリティを矮小化する性質に起因するものだ。ことばは生のリアリティ、あるいは無濾過のリアリティを矮小化する特性を持つ(参照:コージブスキーの構造微分図)。名付けるということは、概念化という濾過によってそのリアリティの豊饒さを削り取りとることだからだ。(このことは後日あらためて取り上げる)

ほかにも言語化することによって、その経験を受け入れやすくなることやストーリーの再構築が進むことなどが考えられる。

そして、これもまた言語化の恩恵に他ならない。

むむ、まとまらなくなってきた。(^_^;)

論点が拡散しているようなので話をもとに戻す。

通常私たちは外的な困難に対して、その障害を取り除く、問題を回避する、という行動をとる。道路に折れた木の枝が落ちていればその木を避けて運転する、道具にゴミがたまって故障したのならゴミを取り除いて治すというように。しかしこうした方略を内面に適応し、苦痛を回避しようとしたり、それがあることを認めない(否認)、あるいは抑圧するようなことをしたりすると逆に苦悩へと拡大するということだ。言い換えるならシャドウをつくってしまい、そのシャドウから倍返しの逆襲に遭うということだ。それには「関係フレーム」で見たような、ことばの関係づける能力が関わっており、これが逆効果を生むのだ。

ということで、いずれにせよ大切なのは、このようなことばの功罪、ことばの区別する働きの功罪、ことばによって物事を関係づける能力の功罪を知ってそれと付き合うことであり、そうしてはじめてことばを発明した進化のその先へと進むことができるということなのだと思う。