ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

観察者としての自己の成長

ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)を構成する6つの要素(注)のなかでは、「観察者としての自己」が最も重要なのではないかと思う。

「観察者としての自己」の視点が定着し成長するとどうなるのであろうか?

ケン・ウィルバーの「存在することのシンプルな感覚」の中から「ワン・テイスト」次のような文章を拾ってみた。

(P285より引用)
定常的な意識の目覚めとともに、あなたは神聖な統合失調症とでもいうべきものになる。つまり普通の言葉で言う分裂した心になるのである。あなたは目撃者とエゴの両方にアクセスできるようになる。実際は一つの心なのであるが、分裂したように聞こえる。あなたは定常的な「目撃者」あるいは「スピリット」を意識できるとともに、人生の映画、エゴの上がり下がりも完全に意識できるからである。したがってあなたは、変わらず苦痛や痛み、苦しみなどを感じるが、もはやそれが重要ではなくなる。あなたは人生の犠牲者ではない。もはや「目撃者」なのである。
 実際、もはや自分の感情を恐れないがゆえに、より強くそれと関わることができるようになる。人生の映画はより鮮明になり、躍動するようになり、もはやそれに執着したり、回避しようとはしないため、薄めたり、鈍くしたりする必要はなくなる。こうしてあなたはより激しく泣き、高く跳躍するようになる。無選択の意識とは、何も感じなくなることではない。より深く、十全に感じるようになることである。無限それ自体を感じ、笑い、なき、痛くなるまで愛する。人生はスクリーンから飛び出してくる。そしてあなたはそれと一緒になる。なぜなら、あなたはもうひるむことはないからである。(引用ここまで)


ウィルバーのいうWitnessは、ACTでいうところの「観察者としての自己」だ。松永さんはWitnessを「目撃者」と訳したが、他の訳者によっては「観照者」と訳されることもある。

大切なポイントは、自分の内面を観察する意識が定着してくることは、人生の色合いが薄まったり、他人や出来事に対する感受性が鈍くなったりするのではない、ということだ。

むしろ、回避や執着がなくなることで、人生に対し「より深く、十全に感じる」ようになるのだという。

「無限それ自体を感じ、笑い、なき、痛くなるまで愛する」、「あなたはもうひるむことはない」と書かれている。・・・すばらしい。


そして、この観察者としての自己の前では、自分の内面から実際に外側にあるものまでが客体として内外の区別なくずらりと並ぶことになるが、これが境界の消失、すなわち無境界へとどのようにつながっていくか、「意識のスペクトル」から選ばれた次の文章をみてみよう。

(p264より引用)
この主体と客体の間にある空間(スペース)は、時間という要素をもっている。なぜなら時間と空間は、分離したものではないからである。時間と空間は、ニュートンの物理学におけるように絶対的に分離したものではなく、連続体である。最初の二元論のなかに含まれている時間という要素こそ、主体/客体という最初の二元論に対する二次的な(2番目の)二元論に他ならない。それは死と生という二元論である。最初の二元論と2番目の二元論は別々のように見えるが、それは議論を分かりやすくするためである。「意識のスペクトル」の発生の物語を少しやさしく語るための手立てである。実際には(最初の二元論)のなかに生き始めるや、時間(2番目の二元論)の中に生き始めるのである。
 あなたと、このページの間にあるギャップは、あなたと「今」という瞬間を隔てるギャップでもある。もしあなたが完全に「今」に生きているなら、あなたとこのページを隔てるギャップもなくなる。あなたとこのページは「一つ」になる。同じように、あなたとこのページが一つであれば、あなたは完全に「今」にいるのである。最初の二元論も2番目の二元論も、ただ時間―空間の連続体における間隙を説明する二つの方法にすぎない。(引用ここまで)




この文章を理解するには、観察者としての自己の視点に立てばよい。

ひとつめの二元論は、主体と客体である、あるいは空間の二元論であると書かれている。

これはどういうことか?

観察者の自己として思考、感情、衝動、記憶といった自分の内面を客体として眺めることが定着するならば、主体としての自分はいったいどこにあるのか?という問いに遭遇することになる。

身体の外側にあるものは対象(客体)として見ることができる。

そして身体もまた客体である。

さらに思考や感情などの内面の構成物もまた客体として見るとき、内外を問わず、すべてのものは客体として見ることができる。

では、主体はどこにあるのだろうか?

その答えは「どこにもない」ということだ。

青空から雲を見るとき、その青空はどこにあるのか?

雲よりも高いところにあるようなイメージをもつかもしれないが、ここが青空だといえる地点など実際にはどこにもない。それと同じである。

言換えるなら、観察者としての自己に位置はない。「非―位置」なのだ。
まさにhere there and everywhere ♪(ビートルズ)だ。

そのような観察者としての自己から見た「あなたとページとの間を隔てるギャップ」はない。

主客の二元論、空間の二元論は消滅している。

じつはすべては客体であるといった時、客体は主体あってこその客体である、主体なくして客体は存在しないし、客体なくして主体もまた存在しないのだから、すでに主客の区別はなくなっていたのだ。

そしてこの位置のない観察者は、第2の二元論である時間の二元論をも超えていく。

自転する地球、公転する地球を宇宙から見るとき、時間はない。

太陽系も天の川銀河を周回しているが、天の川銀河を銀河の外から見るとき、観察者に時間はない。

位置という空間座標をもたない観察者は遍満していると当時に、不動なのだ。

宇宙に中心点といえる場所がないのと同じである。

・・・・・・

どのようにして物事を成すのか、について考えてみた。

我慢と努力によって物事を成そうとするのは、月並みだ。

ワクワクする心を味方につけるのは、一歩進んではいるが、そのワクワクが欲望やその背後にある怖れや欠乏感に動機づけされたものかどうかの識別がない。


為すことなくすべてを成す。いや為さずとも、自ずと解放されている。

これが一流ではないか。そう頭に浮かんだ。

これは、まったく何もアクションをとらないということではない。小さな自己は自らが価値をおく方向へと目標を定め望ましいアクションを取る。しかし一方で、観察者としての自己は不動不変にこれを見守るのである。

自らがその中にある世界の全体性を、観察者としての自己は見る。

その場にふさわしい行いを「場所中心的自己」の視点から選択するのである。

場所中心的自己 - ウィルバー哲学に思う


そうか!小さな自己は、観察者としての自己の視点によって、全体性と整合するのだ。

観察者としての自己の成長・・・。

内面領域において私自身が価値をおくことの一つは、まさにこれである。



注)他の要素としては「アクセプタンス」「脱フュージョン」「今この瞬間」「価値づけ」「コミットされた行為」がある。