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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

次元が上がると「一つ」に見える

Inter Being インドラ網 空(くう) 縁起

経営マトリックス研究所のマークであるヘキサ・キューブ(hexa-cube)について、また新たなことに気がついたので、今回はそれを書きます。今年1月1日のブログ「次元を行き来するヘキサキュ―ブ、元日の夢」の続編です。

 

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(上の図表は次元を理解する参考にしてください。出所:ウィキペディア「次元」)

まず3本の線分を想定する。それらを2本つないでも閉じた図形にはならないが3本をつなぐ(1本目の始点に3本目の終点をつなぐと)と3つの角をもつ閉じた図形、すなわち三角形になる。

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線の上をなぞっている限りは1次元だが、閉じた図形の内側を「意識する」なら三角形の2次元平面となる。1次元では線分は3本だが、2次元では一つの面となる。

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3本の線分がただつながっているより、一つの三角形の面として観た方がリアルな気がする。

さて次に、6角形に(対極の)対角線を入れると、このような図形になる。

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この図形は2次元平面では、6角形が6つに分割されたものと見ることができる。また正三角形6つが隙間なく隣接した形としても見ることもできる。

しかし次の図のように対角線に「強弱をつけて観る」と、一つの3次元立方体(cube)が浮かび上がる。

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私がこの図形をヘキサ・キューブ(hexa-cube)と呼ぶ所以である。

2次元では6つのピースに分かれて見えたものが、3次元では一つの全体として観える。

6つの三角形の集まりとしてみるより、一つの立方体として観た方が、リアルだ。手ごたえのあるリアルな構造が感じられる。

2次元に上がることで、3本の線は一つの三角形という面になり、3次元に上がることにより、6つの三角形という面は、一つの立方体という空間になった。

同じものを見ていても意識の馳せ方によって、見え方は大きく異なる。

下の次元でバラバラに分割して(separated)見えていたものが、上の次元では「一つの」リアルな「全体」として顕現するのだ。

私たちの通常の眼では、「色(しき)」をバラバラなものとしてしか認識していないが、ウィルバーのいう「観想の眼」で観るならば、それぞれに自性のない相互依存的な一つの全体(=空)として構造を顕すのではないか。

そのようなことの比喩に、このヘキサ・キューブ(hexa-cube)は使えないだろうか・・・

(下の次元でみることを「見る」、上の次元でみることを「観る」と、あえて使い分けしました。)
今回は以上です。お付き合いいただき、ありがとうございました。<m(__)m>

いつも「意識を意識しておく」

Awareness Let it goまたはLet it be Presence(現前、現存) フロー マインドフルネス 脱同一化

コトバで表現すると何を言っているのか分からないようなことですが、この感じを何とか是非とも書き留めておきたいと思い、書いています。

日常のなかで、いつも、四六時中、どんな時でも、なんと言っても、大切なのは、「意識を意識しておく」ことだということです。

Be aware of the Consciousness!

あるいは

Be conscious of the Awareness!

でしょうか。

このことは、ジムでウォーキング・メディテーションにトライしているときに、気づきました。

先ごろ、名古屋国際女子マラソンで五輪銀メダリストのキルワと終盤までデッドヒートを演じ、惜しくも2位になりましたが、初マラソンで日本歴代4位のタイムをたたき出した安藤友香さんの走りとイメージが重なります。「忍者走り」と高橋尚子さんは解説されていましたが、この安藤さんは「意識を意識する」、そんな感覚で走っているのだ、と直感しました。

この状態では、頭に浮かぶコンテンツにあまり入り込みません。今のタイムは?とか、後ろの選手との距離は?とか、このままいけば世界選手権?とか、相手はどこで仕掛けてくるか?とか…当然ながらそうした思考は、沸き起こるでしょうが、おそらく、それに囚われることなく自然と受け流し、ひたすら心をむなしゅう(空しゅうor虚しゅう)して、リズムをとっていたのだと思われます。

そうした思考や派生する感情、感覚を淡々と観察しながら、それらと同一化せず、むしろそうしたコンテンツの背景としての静穏な「観察者としての自己」と同一化していたのだと思われます。

そんな雰囲気が「忍者走り」の走り方から漂っておりました。

それは取りも直さず、「意識を意識している」ことです。

この「意識」(Consciousness or Awareness)とは、前々回のブログで書いた「疑いようのない意識」のことです。

コンテンツではなく「実存」としての意識です。

自由な感覚と満たされた感覚が共存しています。Freedom and Fullnessです。

明晰性(Clarity)があります。同時に臨機応変に対応できる鋭敏さ(Alertness)があります。

「フローの状態」、あるいは「ゾーンに入ったのだ」という人もいるかもしれません。

しかしおそらくそれは結果論であり、大切なのは「意識を意識する」。それを絶えず心掛けることです。

この感覚はしばしば訪れますが、いつの間にか忘れてしまいます。そしてどうしたらそうした状態を取り戻せるのか、分からなくなってしまいます。

あの時は、何とはなしにそうなったのに、もうその感覚は戻ってこない、のです。

「意識を意識する」は、その感覚をよみがえらせるためのメモです。

あの状態を取り戻すためのリマインダーです。

そうそう、「意識を意識する」のだった。

こんな時こそ、「意識を意識する」のだ。

今後こんな風に、この言葉を使っていけたらと思います。

自分用のメモでしたが、お読みいただき、ありがとうございました。<m(__)m>

「自己ぎりの自己」とワン・テイスト

Seer(見者) Witness(目撃者) わたし 主客合一(非二元) 存在することのシンプルな感覚 永井均

前回の続きです。

『〈仏教3.0〉を哲学する』p110に出てくる内山興正氏の描いた第5図について永井均氏はこう話されていました。

「わが生命」は中に入っていないで、外に出ているんです。その一員として何かヤリトリはしていないで、その様子を外から見ているんですね。

ですから、第5図は、前回のブログで取り上げたようにケン・ウィルバーのいう目撃者(Witness)あるいは見者(Seer)に対応しているといえます。

それに対し、P111の第6図については以下のように永井さんは話されています。

体験する自己と体験される世界の区別がもはやないような、独我的=無我的な自己、つまり〈自己=世界〉であるような自己で、これが最後の第六図に表されている「自己ぎりの自己」であるわけです。

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〈自己=世界〉であるような自己、「自己ぎりの自己」とはどのようなものなのでしょうか?

前回取り上げたケン・ウィルバーの「やがて最後の自由と充満性への突破が起こるからである。」の続きは以下のように書かれています。

あなたがこの意識の無限の安らぎにとどまり、すべて自然に起こることに気が付いている時、やがて最後の自由と充満性への突破が起こるからである。
「目撃者」それ自体が消えてしまう。空(そら)を目撃するかわり、あなたは空(そら)である。大地に触れるかわり、あなたは大地である。雷を聞くかわり、あなたは雷である。あなたとコスモスは一つである。太平洋を一息で飲み込むことができる。エヴェレストを手の上に載せることができる。超新星があなたのハートで渦巻き、太陽系があなたの頭のかわりとなる。
 あなたは、「一者の味わい(One Taste)」である。起こること一つひとつ、そのすべてである、空なる鏡であり、まったく透明であり、無限で、永遠で、解放すら超えている、それが……あなたである。
そこで、デカルト的な二元論―こことあそこ、主体と客体、空なる目撃者と目撃されているすべてのもの、という二元論―は最終的に解体され、非二元の一味となる。目撃者と完全に接触すると、その時、ただその時のみ、それは根源的な非二元性へと超越される。そして半分ではなく、ついに故郷に到着したのである。今、ここである、常に現前する「あるということ、そのもの」へ。
 どのように、最終的に、そして完全にデカルト的な二元論を克服した、といえるのだろうか。簡単である。完全にデカルト的な二元論を克服した時、あなたは、あなたの顔のこちら側で世界を見ているのではない。世界は一つであり、あなたはそれである。あなたは一瞬一瞬、起こっていること、すべてと一つである。あなたは顔のこちら側で世界をのぞいているのではない。こちら側と向こう側は、震撼させるような明瞭性と確実性をともなって、一つとなる。それはあまりにも深い発見なので、まるで5トンの岩が頭に落とされたようである。それは、逃しようのない感覚である。
 その時(実はそれが、あなたに常に現前している状態なのであるが)、特定の肉体への同一化はなくなる。頭のなかの意識への同一化はなくなる。あなたとは、頭のなかから世界をのぞいているものなのだという拘束がなくなる。個人的な心身への縛り付けられるような関心はなくなる。そのかわり、意識は常に起きているあらゆることと一つである。意識は、コスモス全体を抱擁する、広大で、開けており、透明で、光を放ち、無限に自由で、無限に充満しているこの開けであり、したがって、すべての客体とすべての主体は、この「一者の偉大な抱擁」のなかで、官能的に結ばれる。眼のこちら側の存在としてのあなたは消え去る。あなたは、一瞬一瞬に起こること、それそのもののすべてである、と直接、実際に感じる(ちょうど、以前、あなたは自分とは、あなたが肉体と呼ぶ、有限で、分離した、部分的な、死すべき塊であると感じていたように)。
 内側と外側は一つになる。それは、こうして起こりえるのである。

いかがでしたでしょうか?

内山老師の書かれた「自己ぎりの自己」すなわち、「ナマの生命体験」と「ナマに体験される世界」とそれぐるみの自己とは、まさにケンウィルバーのいうワン・テイスト(One Taste)にほかなりません。

松永さんは「一者の味わい」と訳されました。

2002年にケン・ウィルバーの日記が上下巻の書籍になって邦訳出版されていますが、そのタイトルが「ワン・テイスト」です。アマゾンでまだ購入できるようです。よろしければご一読ください。

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〈私〉と、疑いようのない意識

Witness(目撃者) Self(大文字の自己) 存在することのシンプルな感覚 空(くう) わたし 永井均

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ケンウィルバーの『存在することのシンプルな感覚』(The Simple Feeling of Being)は、訳者松永さんも言われたように最終章がたいへん素晴らしいのですが、私は「目撃者」とタイトルがふられた第1章にも大いにインスパイアーされました。その中に『〈仏教3.0〉を哲学する』p110の第五図(出典:内山興正著『進みと安らい―自己の世界』)の示しているものを、違う形ではあるが大変うまく表現していると思われる一文がありましたので、紹介したいと思います。

『〈仏教3.0〉を哲学する』の第五図については先月

nagaalert.hatenablog.com

で取り上げました。

第五図は坐禅をしている絵ですから、坐禅しているこの自己は、「アタマの展開する世界」の中に「わが生命」を「その一員として投げ込んで」はいないんですね。「わが生命」は第五図の場合には中に入っていないで、外に出ているんです。中に入って、その一員として何かヤリトリはしていないで、その様子を外から観ているんですね。

と、永井均さんが語られた、あの〈私〉です。その第五図の〈私〉を実感するために以下のウィルバーの文章を是非ご一読ください。

(以下、『存在することのシンプルな感覚』の第1章「目撃者」より引用)
わたしはたくさんのことを疑うことができる。しかし、今、この瞬間におけるわたし自身の意識を疑うことはできない。わたしの意識は「ある」。それを疑おうとしても、疑っているのはわたし自身の意識である。わたしは、今、自分の感覚、知覚に提示されているのが、完全にヴァーチャルな、あるいはデジタルなリアリティであって、精密な映像であると想像することはできる。しかし、そうしたリアルな映像を見ているのが、わたし自身の意識であることは疑うことはできない……。
今、この瞬間における意識の、こうした疑うことのできない性格が、直ちに、この瞬間における存在の確かさを伝えてくれる。現在、ただ今、「存在している」(ある)ということの確かさを。なぜなら、それこそ、すべての知ること、見ること、存在することの基盤(ground)だからだ。
わたしとは誰か。この疑問を何度も何度も繰り返す。深く、繰り返す。わたしとは誰か。わたしの中にあって、今、この瞬間、すべてを意識しているものは何か。
・・・意識の対象は疑うことができる。しかし、そう疑っているものは、疑うことはできない。すべての現象を目撃しているものの存在は、疑うことはできないのである。それゆえに、目撃者に安らぐことである。・・・この確実性は、自分で感じる純粋な意識のなかにあって、対象はそのなかに現れてくる。確実性は、対象自体のなかに存在しているのではない。あなたは決して神を見ることはできない。なぜなら神は見ている者であり、有限で、時間や空間に拘束されている、見られる対象ではないからである。
この純粋な「わたしは・ある(I AM)」という状態は、達成するのが困難なのではない。避け得ようのないものなのである。それは常に現前しており、疑いようのないものなのである。・・・それは、今、この瞬間、このページを見ているものである。その「一者」を感じないだろうか。・・・
わたしとは誰か、わたしとは誰か、わたしとは誰か、深く問い続けよ。
 わたしは、自分の感覚に気づいている。ならば、わたしはわたしの感覚ではない。ではわたしとは誰か。雲が空に漂っている。思考が心のなかに漂っている。感情が体のなかを漂っている。わたしは、そのいずれでもない。なぜなら、わたしはそれらすべてを目撃するものだからだ。
 わたしは、雲が存在するのか、感情が存在するのか、感情が存在するのかなどと疑うことはできる。しかし、今、この瞬間、それらを目撃している意識は疑うことはできない。なぜなら、疑いという行為を目撃しているのが目撃者の意識だからである。
 わたしは、自然のなかの対象ではない。身体のなかの感覚ではない。心のなかの思考ではない。なぜなら、わたしはそれらすべてを目撃することができるからだ。無限に広がり、空であり、明晰であり、純粋であり、透明なこの「開け(Openness)」は、公平に、あますところなく、起こることすべてに気づいている。自在にすべてを映し出す鏡として。
 すでに、この「偉大な解放(Great Liberation)」を少し、感じられたのではないだろうか。今、この瞬間の気づきに安らぐ。すでに単なる客体、単なる感情、単なる思考の窒息するような拘束から自由になった感じを味わっているのではないだろうか。すべての対象は、来たりては、去る。しかしあなたは、この広々とした、自由で、開け放たれた「目撃者」であり、対象の苦しみ、拷問からは、離れているのだ。
 この純粋な「開け」、神聖な「自己(Self)」、無形の「目撃者(Witness)」、原因としての「無(nothingness)」、広大な「空(Emptiness)」のなかに「すべて」が起こり、しばらくのあいだとどまり、やがて去っていくということ、そしてあなたはこの「開け」そのものである、ということ、これこそ、深遠な発見である。あなたは身体ではない、思考ではない。これでもない、あれでもない。あなたは「空」であり、「自由(Freedom)」であり、「開け」であり、「解放」である。
この発見……あなたはすでに半分の道を往っている。あなたは、すべての有限な対象から自分を切り離した(自己同一化を脱した)。あなたは無限の意識として安らいでいる。あなたは自由であり、オープンであり、透明であり、光を放つものであり、空間に先立ち、時間に先立ち、涙と恐怖に先立ち、苦しみ、苦痛、死に先立つ存在としての至福の空に浸されている。あなたは、偉大な「不生(Unborn)」、「深淵(Abyss)」、属性をもたない基盤(Ground)を見つけたのである。それはかつてあり、今もあり、これからもあり続けるグラウンドである。
しかし、なぜそれが半分の道なのか。なぜなら、あなたがこの意識の無限の安らぎにとどまり、すべて自然に起こることに気が付いている時、やがて最後の自由(Freedom)と充満性(Fullness) への「突破」(great catastrophe)が起こるからである。
〔注:( )内の英単語は原書を参照し追記しました〕

私たちは例えば、部屋の中でイスにすわっているとき、「部屋のなかに私はいる」と自覚しています。これが通常の感覚ですが、一方で、「私の意識のなかに部屋がある」ということもできる、とウィルバーは言います。
ここでいう「私の意識」こそ、今回テーマとした「疑いようのない意識」です。

2次元で見たヘキサゴンは6角形ですが、その6角形に対角線が入った図形は3次元の立方体(キューブ)として見えます。
これが、私のいう「ヘキサキューブ(hexa-cube)」です。

nagaalert.hatenablog.com

頂点を結んだ対角線は2次元平面では内側に引いた線ですが、立方体としては外の辺をなぞっていることになります。見方によって視点によって内と外が入れ替わるのです。

第五図で「その様子を外から見ている」とは、ヘキサキュ―ブのように見方によって内と外が入れ替わり、部屋は自分の外にあると思っていたが、自分の意識の内に部屋はあったのだ、ということです。

しかしこれは半分の道であると、ケンウィルバーは言います。では残りの半分はというと、それが第六図になります。このことについては次回、書きます。

弁証法的行動療法(DBT)

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   (出所『弁証法行動療法実践トレーニングブック』)

禅の原理、そしてマインドフルネスとアクセプタンスを全面的に取り入れた新世代の認知行動療法の一つである弁証法行動療法(dialectical behavior therapy:DBT)の概略に触れてみたいと思います。

DBTはワシントン大学のM.リネハン教授によって開発された認知行動療法の一派です。
弁証法(dialektik)という言葉は、ソクラテスが実践したことで名高い問答術、対話術を意味するギリシャ語。ある命題(テーゼ)とそれに反する命題(アンチテーゼ)を、止揚アウフヘーベン)し、統合命題(ジンテーゼ)を生み出すこと、です。

苦痛を経験している状態から脱却するために必要な「変化」をテーゼとし、変化しなければならないと考えること自体が苦痛を増幅してしまうメカニズムが働き、結果として増幅させるような行動をとってしまうため、「受容」をアンチテーゼとしてとらえ、テーゼとアンチテーゼの緊張を通してジンテーゼとしての治療的変化が起こる、というように解説されています。

ACTに共通するものがありますね。「何もしないをする」というLetting goのコンセプトを思い出しました。

それでは以下、『弁証法行動療法実践トレーニングブック』Matthew McKay, Ph.D. Jeffrey C. Wood, Psy.D. Jeffrey Brantley, M.D.〔著〕、遊佐安一郎、荒井まゆみ〔訳〕を参照して、まずは遊佐さんの書かれた前書きよりポイントを抜粋します。

DBTはとても総合的な治療法で、4つの治療的な方法を組み合わせて行われる。
①毎週1時間の個人心理療法(カウンセリング)
②毎週2時間半の、感情と上手につき合うためのDBTスキル訓練プログラム
③電話コンサルテーション
④治療チームのスーパービジョン、コンサルテーション

なかでも特に②のDBTスキル訓練プログラムは、24週1セットのプログラムで、つらさに耐える(苦悩耐性)スキル、感情調節スキル、対人関係スキルの3つのモジュールから形成されている。

どのモジュールでも最初の2回(2週間)では、マインドフルネス・スキルを学ぶ。他の3つのスキルと合わせて練習すると効果が上がるからであると説明されている。

2回のマインドフルネスのあとは、6回(6週)で各スキルを詳しく学んでいく。

そのローテーションを図示すると上図のようになる。この24週のスケジュールを2回りすると48週、約1年となる。

◆感情調整スキル
問題の中心は自分の感情がうまく働かないため。したがって、自分の感情と上手につき合うスキルを身につけることが問題の改善につながる。そのためには、自分の感情を理解して調節するスキルを学ぶことが大切。

◆対人関係スキル
感情的につらい経験をするきっかけは、対人関係がうまくいかないことと関係が大きい。感情調節がうまくいかない→感情的につらくなる→対人関係のトラブルが起きやすい→さらに感情的なつらさが悪化、という悪循環に陥る。そのため対人関係を効果的に持てるようになるためのスキルが大切。

◆苦悩耐性スキル
自分の感情に圧倒されてしまうと、しばしば行動に結びつく。例えば怒りを強く体験すると、攻撃的になったり怒鳴ったりする。不安や恐怖を強く体験するとその場から逃げ出したくなる。それらは人間に備わった自然な反応ではあるが、感情に圧倒され、調節がうまくできないと、行動も極端になり、社会生活に支障をきたす。
人はつらい状態に置かれると、それを和らげようといろいろなことをする。自殺企図や自性などの行動もとてもつらい状態に対する対処行動と考えられる。そうした行動もつらさから気がそれてつらさを軽減する効果があったりするため、そうした対処行動が繰り返されることになる。それが問題をこじらせ、一層つらい状態になる。
苦悩耐性スキルは、感情的につらくてどうしようもない状態のときに、問題をこれ以上こじらせないようその状態に耐え、他の(健全な)スキルをうまく使って状況を改善するためのスキルである。

●マインドフルネス・スキル
マインドフルネスとは、「自分自身のことや、自分の経験について価値判断したり、比較したり、批判したりせず、今、このときにおける自分の志向、感情、身体的感覚、および行動をありのままに捕えるための能力」と説明される。
マインドフルネス・スキルには、うつや不安、痛み、むちゃ食いなどに効果があり、苦悩耐性の増強やストレスマネジメント効果もある。
特にマインドフルネスの特徴である自分への価値判断(ex.「私はいつもこうだ」「ダメな人間だ」などと思うこと)をせずに気づく能力は、感情調節、対人関係、苦悩耐性の3スキルを身につけるためにも、とても役立つ。どのスキルでも、「気づく」ということはそのスキルの大切な側面である。
例えば、他人から誤解を受けてつらい気持ちになる→そのことが頭から離れず、その人や自分を価値判断してしまう→その価値判断によってさらに強い感情が出てくる→その強い感情と関係のある過去や未来のことで頭が一杯になる→感情も雪だるま式に膨れ上がり圧倒されてしまう。そのような状態のときにこそ、マインドフルネス、すなわちそのような状態を価値判断せずにありのままにとらえる能力、が大切になる。

 

上のローテーションの図と合わせみることでDBTの全体像がおよそ分かるのではないでしょうか。

次に、以下に、本書の見出しを引用します。(注、一部省略しています)

第1章 苦悩耐性スキル:基礎編
徹底的受容(radical acceptance)

注意をそらす
  自分を傷つけるような行動から注意をそらす
  楽しい活動で注意をそらす
  他の人に注目することで注意をそらす
  思考から注意をそらす
  その場を離れることで注意をそらす
  作業や雑用で注意をそらす
  数を数えて注意をそらす
  あなた自身の注意をそらす計画を立てる

自分自身をリラックスさせ、落ちつかせる
  嗅覚を用いて自分を落ちつかせる
  視覚を用いて自分を落ちつかせる
  聴覚を用いて自分を落ちつかせる
  味覚を用いて自分を落ちつかせる
  触覚を用いて自分を落ちつかせる
  リラクゼーション計画を立てる

第2章 苦悩耐性スキル:上級編
(今回は省略します)

第3章 マインドフルネス・スキル:基礎編
マインドフルネス・スキルとは何か
マインドフルネス・スキルを練習する前に
「マインドフルでない」状態の経験
なぜマインドフルネス・スキルが重要なのか
マインドフルネスの基礎を学ぶ―4つの「what」スキル
  1分間に焦点を当てる
  1つの物体に焦点を当てる
  光の帯
  内的―外的経験
  3分間の思考を記録する
  思考を和らげる
  感情の描写
  焦点のシフト
  マインドフルな呼吸
  感情に対するマインドフルな認識

第4章 マインドフルネス・スキル:上級編
(今回は省略します)

第5章 マインドフルネスのさらなる探求
(今回は省略します)

第6章 感情調節スキル:基礎編
感情とは何か
  あなたの感情とは:一次感情と二次感情
  感情はどのように動くのか
  感情調節スキルとは
自分の感情に気づき、ありのままに受け容れる
  ワークシート
  感情の記録
より健康的な感情に向けて進むために
感情と行動
  自傷行動
  他の人々に与える強い影響
健康に関する事柄と圧倒されるような感情との関係
  食べ物
  過食と拒食
  薬物とアルコール
  身体的運動
  睡眠
  病気と身体の痛み
  睡眠衛生ガイド
  肉体的緊張とストレス
    練習 自分を傷つけるような行動の認識
価値判断せずに自分自身を観察する
認知的に、より健康的に対処する
    練習 思考と感情を和らげる
  コーピング思考を用いる
  思考と感情のバランス
肯定的な感情を高める

第7章 感情調節スキル:上級編
(今回は省略します)
第8章 対人関係スキル:基礎編
マインドフルな注意
受容的行動と攻撃的行動
「私の欲求と彼らの欲求」の割合
「私の欲求と私の義務」の割合
対人関係スキルの構築
  主要な対人関係スキル
      練習 自分の対人的価値観を見極める
  対人関係スキルの使用を妨げるもの
    かつての習慣―攻撃的な性質のもの
    かつての習慣―受動的な性質のもの
    圧倒されるような感情
      練習 警告的な感情と行動
    自分の要求を見極めることができない
    恐れ
      練習 リスクの評価/リスクの計画
    好ましくない関係
    障害となりうる信念
    
第9章 対人関係スキル:上級編
(今回は省略します)

終章 スキルの実践にあたって
感情的な健康のための日常の練習

 

目次は以上です。今回はまだ勉強を始めたばかりなので私見は書きません。後日、気づいた点や参考になった点について書いてみたいと思います。

12因縁を断ち切るマインドフルネス

David Loy とらわれ アドラー フランシスコ・ヴァレラ マインドフルネス 縁起 Awareness

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最近、身の回りで起こっていることが「過去にこういうことが起こったので、今になってこうなってしまった」というようなストーリーで解釈されることがままあり、その度に、心の奥で、そうではあるが、いやいや違う、そうではない、と感じていました。

それが、2013年4月29日のブログ『自由が不自由を感じさせる逆説』に書いたことに大いに関連していたことを思い出し、「我が意を得たり」と膝を打ち、得心しました(過去の自分で書いたブログに「我が意を得たり」もないですが、そこで引用した文章に再びそう感じました)。

nagaalert.hatenablog.com

この記事はフランシスコ・ヴァレラ著『身体化する心』の一節を取り上げたものでしたが(前回のブログで「オートポイエシス理論」提唱者としてヴァレラの名を出しましたが、それに触発されたのかもしれません)、今回はその内容のうち、特に「12因縁連鎖を断ち切るのがマインドフルネスである」という点に重点を置いて述べたいと思います。

ここでは、12因縁を逐一説明することはしませんが、上図のように円環をなしています。

(以下『身体化する心』より引用)
この輪廻(samsaraサンサーラ)と呼ばれる条件づけられた人間経験の円環は、容赦なき因果律によって永久に回転する不満足の歯車として視覚化される。・・・

悟りを開いたブッダは12因縁の連鎖を探求し尽くして、この連鎖を断ち切る方法を希求した。過去については手の施しようがない。過去に遡って無明と行(為)を消せはしないのだから。・・・感覚が生じる感情の状態(受)も、それから生じる渇望(愛)も避けられない。しかし渇望から執着(取)は不可避なのだろうか、と。・・・
あらゆる瞬間に、正しく鍛えられた三昧を実行することによって、人は自動的な条件づけの連鎖を断つことができる。渇望から執着へ、さらに後続するものへ必ずしも自動的には移行「しない」と。(引用ここまで)

 

「三昧」とはマインドフルネスのことです。
「渇望(愛)」は8番目の因縁、「執着(取)」は9番目の因縁です。マインドフルネスを実践することで8から9への因縁連鎖を断ち切ることができるといいます。

(以下、引用)
三昧/覚の修行者は、条件づけられた自動的行動パターンを三昧により断つことができるようになる(特に、渇望の生起による自動的な執着から解放される)。これがさらに三昧になる能力を高め、注意の領域を覚(アウェアネス)にまで拡大させ、無明の根源に迫ってゆく。このアウェアネスが経験の本質に対するより深い洞察をもたらし、それにより無明と自我中心的な意思作用に基づいた、無思慮な常習パターンの全サイクルを放棄するさらなる欲求と能力とが培われる。(引用ここまで)

このことは、「弁証法行動療法(DBT)」の真髄なのではないか。最近勉強を始めたばかりなのですが、そう思います。

「無思慮な常習パターン」とは、わかりやすい例でいうとニコチン中毒や、過度のアルコール依存、ギャンブル依存症などです。「渇望(愛)」がムクムクと起こり、それを取らずにいられなくなることが「執着(取)」です。

マインドフルネス(三昧)は、その「渇望(愛)」の生起した瞬間に「今だ!」というように気づきを入れます。

そして判断を交えず、その衝動、感覚のありのままを観察します。

マインドは理由をつけて摂取することを、正当化しようとするでしょう。「今回だけ」などと囁きます。

そうした思考が生起していることも、「また頭がしゃべりだした!」と観察します。

呼吸を上手に使って、身体の感覚(口、手、頭、胸・・・)を見守ります。

しばらくすると、どこかの感覚がじわりと変化し始めます。

衝動がさっきよりも弱くなったことを感じ取ります。

以上、私自身が禁煙(もう16年も前なので絶煙?)した時のプロセスは、こんな感じでした。

アドラー心理学の言葉でいうところの原因論にもとづいて、見かけの因果律でストーリーを作っている限り、その連鎖であるサンサーラから逃れられないというのが、最も大切なところでしょう。

世界的な仏教学者David. Loyは著書The World is made of StoriesのなかでI AM Made of Storiesと書いています。
(以下引用拙訳)
ストーリーは私の人生に、意味を付与した構想を与えます。・・・私の性格は私の演じる役割によって構築されます。異なる物語では、異なる役割を私は演じますが、社会において少しずつ習慣的な態度が身につき、自己のアイデンティティを形成しつづけます。これらのストーリーにおいて自分の役割を変更することは難しくなります。ダートトラックをぐるぐる回るカーレースのように、轍は深くなります。
 サンサーラ―この苦しみの世界は、仏教によると―文字通りぐるぐる回ることを意味します。・・・
私たちの喜びも悲しみも、笑い声も涙も、楽しみも苦痛も、愛も恐れも、ひらめきも失望も―すべてストーリー化されたものです(all are storied)。
(引用ここまで)

そしてそのすぐあとの節でこんどは全く逆にI AM Not Made of Storiesと書いています。

(以下引用)
ストーリーなしには、自己はありません。サマディ瞑想の間に全てのストーリーを手放すとき、私は無(no-thing)になります。この無は何と言われているのでしょうか?それは、ネティ、ネティ―「あれではない、これでもない」です。・・・
仏教徒のカルマの理解は、自己変容への鍵として意図性を強調します。・・・なぜなら私はその物語であり、かつまたその物語ではないからです。私はその物語です。なぜならそんなストーリーが私の自己感覚を構成しているから。しかしもし自己がその物語でしかなかったなら、その物語を捨てて、新しい物語を獲得する可能性はないでしょう。変化するアイデンティティのためには、その物語の別の何か、それによって縛られない何かがあるべきなのです。
その「他の何か」を描こうとする企ては、私のストーリーの内側でそれに役割を与えます。しかしながらそれはこのように固定化できない(it cannot be fixated)のです。それは特定の物語の部分ではありません。それが物語に無常であることを許す(allows narratives to be mutable)ものだからです。(引用ここまで)

三昧(マインドフルネス)/覚(アウェアネス)の実践によって、ストーリーあるいはぐるぐる回り続けるサンサーラを断ち切ることができます。
それが、I AM Not Made of Storiesでしょう。

三昧/覚の実践により、12因縁連鎖、特に8番の「渇望(愛)」と9番の「執着(取)」の間の連鎖を断ち切ることができます。

ストーリーに囚われている間は、因縁連鎖を断ち切れません。原因論、見かけの因果律に縛られているうちは、自由になれないのです。

習慣的で自分が取りがちなストーリーに気づきましょう。

渇望が執着へと繋がっていく様子を観察しましょう。

言い訳をしたがる思考そのものを見つめましょう。

マインドフルネスの実践によって12因縁連鎖を断ち切り、新しいストーリーを身につけること。それは可能なのです。

 

 

ポイエーシス的な働き方

フロー ミヒャエル・エンデ 中沢新一 藤城清治 経済・経営

NHK「100分de名著」昨年12月の名著はレヴィ=ストロースの『野生の思考』であった。

 この概念を伝えるのは難しいのではないかと思われたが、中沢新一氏の巧みな解説と伊集院氏のコメントがよく効いて興味深く見ることができた。今朝その第4回目を見直していて、特に「ポイエーシス」について書きたい気持ちになった。

 「オートポイエーシス」という言葉なら知っていた。かなり昔に自己組織化の理論について書かれた本で目にしたと記憶している。このブログでも取り上げたことのあるフランシスコ・ヴァレラが理論の提唱者だ。しかし「ポイエーシス」(英語:poiesis)そのものについてはよく知らなかった。この言葉、もとはギリシャ語だという。

 単語をネット検索すると

 ギリシャ語で「制作」や「生産」などを意味する語。アリストテレスはポイエーシスを、自然を対象とした制作と捉え、ポイエーシスと対をなす概念として人間社会を対象としたプラクシス(実践)という概念を唱えた。

 などと書かれている。

 

以下番組のコメントとそのテキストから抜粋引用する。

フランス語で「労働」を意味するトラヴァイユ(travail)という言葉には労苦という意味があり、厭わしい時間を耐えねばならないというニュアンスがあるが、メラネシアのいわゆる未開社会の言語にはtravailにあたる語や概念自体がない。

そして古代ギリシャにもtravailに相当する言葉はなかったらしい。

 古代ギリシャでは働くことを、「プラクシス」と「ポイエーシス」という2つの言葉で表現していた。

プラクシスは、英語のプラックティス、すなわち実践のことで行為する「人間が自分自身の目的のために事物を使用する」という意味だが、ポイエーシスは、「事物それ自体の目的のために作り出す」ことだ。

 例えば、陶器職人や木工職人が、何か有用なものを作る場合、プラクシスというよりポイエーシスである。

 あるものを自分の目的のために変形して使うのではなくて、その中にすでに存在する形を外に取り出すと考える。それは「土や木が望んでいることを実現する」という考え方に近く、自然物の中に隠されている目的を外に取り出して、役に立つ用具にしたてるという作業が職人の仕事であり、ポイーシスなのだ。

 そしてレヴィ=ストロースは、日本の職人たちが作った様々な陶器や塗り物、着物や家具を注意深く観察し、ポイーシス的労働の考え方が生きていると思った。

 それはまさに、柳宗悦(むねよし)が、「民藝」と呼んだものに通じる。職人が

 

受動的に本質を取り出す

 

すなわち、自然物の中に隠れている本来の機能を受動的に取り出して民藝品を作ること。それはまさにポイエーシスだ。(引用ここまで)

  

例えば木であれば、樹種はもちろん、曲がり方や年輪、幹など材の性質などをよく見たうえで素材に適したものを作る、その特性を生かせるように材を用いるという発想である。

 柳宗悦は、これを民藝の「用の美」といったのだそうだ。

 そしてこの職人の働き方の話を聞いた時、島根県温泉津町の下駄職人だった妙好人「才市」のことが頭に浮かんだ。「100分de名著」のテキストをみると、やはり浄土真宗絶対他力と民藝思想の結びつきについて書かれてある。日本の里山も「ポイエーシス」の働きを借りて作られているという。

 ポイエーシス、日本語でいえば、はからいなき「はたらき」、それは鈴木大拙のいう「日本的霊性」の核心部だと書かれている。名言だ。

 

ポイエーシス的な働き方・・・。ミヒャエル・エンデは禅に造詣が深かったというが『モモ』にでてくるベッポ爺さんの掃除の仕方や、藤城清治さんが作品の影絵を切るときの境地にも通じるものがあるだろう。

ある種のゾーンに入った状態ともいえるかもしれない。

 自分が行っているというより、自分を通じて起こっているという感覚。

 私は、学生時代に岩登りが好きで、今ではかなり知られるようになったボルダリングに熱中していた。

 数メートルの高さの花崗岩。クラックやオーバーハングを下から見ながら体のモーションをイメージする。足の位置やグリップの角度をあれこれ想像して取り付く。何度も失敗し、飛び降りる。指の皮に血がにじむ。翌日も翌日も。しかしそのうちに、ふっと体が軽くなり核心部をクリアーできる。勝手に体が動くのである。

 ものづくりではないが、これもポイエーシスだろう。先の例でいうなら木が岩で、ボルダリング自体が作品である。岩の形状とその形に合わせて瞬間瞬間に創造されるモーション。その協同作業がボルダリングという作品を創造する。

 

 そうした働き方ができるならそこには「生命の躍動」が感じられるはずだ。歓喜がほとばしる。他者から認められることがなくても内なる充実感に満たされ楽しい。そんな時ほど創造的な仕事ができているものだ。

 記憶に残る良い仕事とは共通してこうした印象を残している。あの時の報告書、あの時の企画書、あのプレゼンテーション、あの冊子の原稿・・・。

 「やりがい」とは「創造」、「貢献」、「向上」のトライアングルで生まれるというのが若かりし頃の持論であったが、それに加えて「自ずと成る」イメージが大切なのではと以前このブログ(2013/3/17:観察者としての自己の成長)でも書いた。

 そのニュアンスに「ポイエーシス」は、ピッタリである。

 

ポイエーシス的な働き方

 

日本のものづくりに生きている理想的な働き方として大切にしていきたいと思う。