ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

ソーシャルビジネス、NPOの経営戦略

 日本政策金融公庫のメルマガに「NPO経営戦略10のステップ」というものを株式会社PubliCo代表の山元圭太氏が紹介されていて興味深かったので適用してみたいと思います。

まず、10のステップとは以下のA~Jです。

Ⅰ.社会を変える計画
  A.組織使命(Vision/Mission)社会に何を生み出す存在か?
  B.問題構造(Theory of Problem)どんな問題構造になっているか?
  C.問題解決仮説(Theory of Change)どうそれば解決するのか?
  D.役割定義(Position)どんな役割を担うのか?
Ⅱ.事業計画
  E.成果目標(Key perfomance indicators)
  F.必要資源(Budget)
  G.資源調達(Fundraising)
Ⅲ.実行計画
  H.組織基盤(Organization)
  I.実践実行(Action)
  J.カイゼン(PDCA)

事業起点ではなく社会起点であり、「社会を変える計画」というものが、まずはじめになくてはならないといいます。まったく同感です。


ということで、私が関わっている小児がん経験者・家族支援のNPOを念頭に置いてAからDまでを簡単に整理してみました。

A.組織使命(Vision/Mission)社会に何を生み出す存在か?

小児がんインクルーシブの実現」(みんな違って、みんないい by 金子みすず
小児がん経験者・家族がエクスクルーシブ(排除)されない社会の実現〉


B.問題構造(Theory of Problem)どんな問題構造になっているか?

・入院、復学、進学、就職、結婚というライフステージを経るごとに次第に孤立しやすいという現状。
・晩期合併症や治療の影響によって心身の「障害」が「活動」の制限につながり「参加」を制約してしまう傾向(ICFモデル参照)。
・病気と治療に関する正しい知識と適切な配慮が学校や職場で欠如(ICF環境因子)。
・「障害」があっても「参加」を実現するための戦略の不在(ICF個人因子)。

ICFとはInternational Classification of Functioning, Disability and Healthの頭文字をとったものでWHOが2001年に定めた人々の健康状態や傷害などの分類方法のこと。国際生活機能分類と訳され「人が生きることの全体像」を表す、とされている。

ICFモデルはこのような図で全体像を示します。

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C.問題解決仮説(Theory of Change)どうそれば解決するのか?

・学校(教員、生徒)をはじめ社会の理解を深める啓発活動が増え、合理的配慮など適切な配慮が実現され、互いに共同体感覚を育くんでいける。
小児がん経験者個々のケースに応じて、「参加」を促進する個別支援計画(ICFモデル)が作成され、「参加」の様々な機会が確保されること。


D.役割定義(Position)どんな役割を担うのか?

小児がん脳腫瘍全国大会を通じた啓発
・当事者は晩期合併症などへの適切な対応(医学的、心理社会的)を学ぶ。
・学校や関係者に対しては小児がんの理解を深める啓発活動を行う。

②「いのちの躍動」を発見し参加へと育てる。
音楽、運動、園芸、アートなどのアクティビティを実施することで、彼らの「参加」機会を四季を通じて確保し、何に「いのちの躍動」を感じるのかを発見する。

③個別相談のプロセスを通じて「よりよく生きる」ための個人戦略を提示する。
対象者のICFモデル(これは「障害」があっても「参加」を実現できる個人戦略体系である)を作成していく。

 

 

インフレーションの「真空のエネルギー」と空の充溢

複雑系としてふるまう創造的進化の原動力」としてのエラン・ヴィタールと、私たちの「内なる躍動」が共振するのではないだろうか?と考えています。
そしてその共振する感覚こそ「生命の躍動」であり、その感覚は望ましい生き方のシグナルなのではないでしょうか。
ベルクソンのいうエラン・ヴィタール(elan vital)を念頭において複雑系のふるまいを加味しながら、今回はこれに宇宙のビッグバンの前に起こったとされるインフレーションと、その元となった「真空のエネルギー」について考えてみたいと思います。

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上図の出所は、佐藤勝彦氏が対談されている以下のウェブサイトです。

https://www.athome-academy.jp/archive/space_earth/0000000243_all.html

2014年12/4放送のNHK BSプレミアム『コズミックフロント  ~ついに見た!?  宇宙の始まりインフレーション』を参照し、佐藤勝彦著『宇宙はこうして誕生した』から以下に引用します。
・6000度以上になると水素は陽子と電子に分かれてしまいます。
・10億度の高温になるとヘリウムはじめすべての原子核は、それを構成している陽子と中性子に分解された状態だったといえます。
・1兆度ぐらいになると陽子や中性子クオークに分解されてしまいます。
・つまり宇宙の初期はすべての物質が溶けて、ミクロの極限である素粒子のガスになってしまっている。(『宇宙はこうして誕生した』佐藤勝彦著p32)
ワインバーグ=サラム理論によって電磁力という弱い力が統一されましたが、さらに強い力、重力をふくめた四つを統一した理論(超大統一理論)が完成すれば、一つの力から相転移によって次々と力が生まれてきた、あたかも生物が進化するように力も進化して今日に至った、というシナリオが描けるのです。(同p37)
・宇宙が始まって10のマイナス44乗秒後に最初の相転移が起こり、一つの力からまず重力が枝分かれします。…この時の温度をプランク温度といいます。そして10のマイナス36乗秒後に第二の相転移により強い力(色の力)が枝分かれを起こします。さらに10のマイナス11乗秒後に、第三の相転移が起こり、電磁気力と弱い力が分かれ、四つの力が誕生するわけです。このとき、温度は1千兆度Kにまで下がっています。(p38p39)
アレキサンダー・ビレンケンは「無からの宇宙創成」という論文で、宇宙は無から生じたと論じて世界の物理学者を驚愕の渦に巻き込みました。…
常識的な古典的真空では、粒子がまったく存在しない空っぽの状態ですが、量子論では粒子がエネルギーゼロの地点の付近でゆらいでいる状態(物理的真空)ということになります。きわめて短い時間の間に、粒子が突然出現したり消滅したりと、「非存在」と「存在」との間を揺れ動いているのです。“無”の概念は、真空の考えをさらに深め、物質だけでなく空間すらない状態をさします。そこでは、空間すら「非存在」と「存在」の間をゆれ動いているのです。…
そんな鍋の中でふつふつと煮立った湯の気泡のような量子論的な宇宙が、あるとき「トンネル効果」によってポロッと生まれたというわけです。
トンネル効果とはビッグバン理論のガモフが1928年に「アルファ崩壊の理論」で論じた、原子核からアルファ粒子がポンと飛び出す現象のことで、…極微の世界では珍しくないことです。(p41-42)
生まれたときに10の34乗分の1センチという、素粒子よりはるかに小さかった宇宙が、…とてつもなく短い時間に起こった異常膨張によって、宇宙は1センチ大の大きさになります。
この急激な膨張は、生まれたばかりの宇宙が持つ固有の力―「真空のエネルギー」によるものです。先に、量子論では無もゆらいでいるといいました。これが物理的な真空です。そこでは粒子と反粒子(物質と反物質)が生まれては消滅しています。粒子と反粒子を生み出すにはエネルギーが必要です。したがって、生まれたばかりの宇宙は、無の状態から物質を生み出すエネルギーがつまった真空状態だったと考えられます。この真空エネルギーが宇宙を急激に押し広げるのです。
この真空エネルギーをアインシュタイン方程式に代入してやると、空間に対する「斥力」(万有引力の反対の力)が宇宙を急激に膨張させることが導き出されます。(p42-44)
宇宙が急激に膨張すれば、密度がそれだけ低くなるわけで、温度が急激に下がり、いわゆる「過冷却」と同じ状態になります。水が氷に変化する現象が「相転移」であるとお話ししましたが、摂氏0度で一気に氷になるのではなく、マイナス4度になって初めて氷になります。これを過冷却といいます。宇宙も急激な冷却で「相転移」を起こします。
真空のエネルギーは宇宙がどれほど膨張しても薄まることはありません。宇宙が持つ固有の力なので、体積当たりのエネルギー密度は一定です。したがって、宇宙が膨張すればするほど真空のエネルギーも増大して行きます。そして宇宙が「真空の相転移」を起したとき、水が氷になる時に熱を放出するように、膨大な量の潜熱を解放するのです。急激な膨張で「過冷却」状態になっていた宇宙は、この潜熱による熱エネルギーで超高温の火の玉となって、「ビッグバン」を開始するわけです。(p44-45)

 

佐藤勝彦氏は1980年にこれを「指数関数的膨張モデル」として論文にまとめました。その半年後に米国のアラン・グースが同様のシナリオを「インフレーション理論」として発表し、現在はインフレーション理論という呼び名で定着しています。
要約すると大体こういうことになるでしょう。

量子論的にいうと、真空とはまったくの空っぽなのではなく、粒子が生成消滅を繰り返し「ゆらいで」いる空間である。
宇宙は「無」から生まれたと考えられている。「無」とは物質だけでなく空間もゆらいでいる状態である。空間すら「非存在」と「存在」の間をゆれ動いている。この「ゆらぎ」の中で、ある時トンネル効果が働き、最初の宇宙が生まれた。(すなわち空間が生じた。しかし物質はまだなく真空であった、ということでしょうか?)
この宇宙は「真空のエネルギー」をもっており、このエネルギーが大きな斥力を発生させ(アインシュタイン方程式に代入してやると斥力が計算される)、空間は光速よりも速いスピードで指数関数的に急膨張した(素粒子よりも小さい直径10のマイナス34乗cmから一瞬で1㎝以上に膨張した)。
膨張すると密度は下がるが、エネルギーは空間の膨張に比例して増大する(空間が広がってもエネルギーは薄まらない)。それがさらなる斥力を生じさせて空間が膨張し、さらなるエネルギーを生じさせる。
空間が膨張することで密度が下がって過冷却が起こり、潜熱が蓄えられる。やがて真空の相転移が生じ、蓄えられた潜熱が莫大な熱エネルギーとなって放出される。これによって宇宙は高温の火の玉となる。こうしてビッグバンが始まったのである。

この「真空のエネルギー」は、まったく不思議な存在で、インフレーション理論のかなめとなっています。
このインフレーションのシナリオに沿うなら「創造的進化の原動力(エラン・ヴィタール)」の原初の姿は、この「真空のエネルギー」であるといっても過言ではありません。
そして私にとっては、宇宙の始まりの真空がエネルギーで満たされていたことと、空なる境地で内から満たされてくる充溢の感覚が、どうしても重なってきます。
「真空のエネルギー」が、「空の充溢」を連想させるのです。
真空とは空っぽなのではなく、空とは虚しいのではなく、むしろ何かによって満たされた状態であるといえます。
 
そして「真空の相転移」。これは私たちの内面における「本質」の無化、無「本質」化を連想させます。
6月2日のブログで引用した井筒俊彦氏の「意識と本質」のp119から再び引用します。
こうして禅は、すべての存在者から「本質」を消去し、そうすることによって全ての意識対象を無化し、全世界をカオス化してしまう。しかし、そこまでで禅はとどまりはしない。世界のカオス化は禅の存在体験の前半であるにすぎない。一たんカオス化しきった世界に、禅は再び秩序を取り戻す。
すなわち禅は、本質を無化することで対象あるいは世界をいったんカオス化し、のちの新しい秩序の形成を促すのです。カオスと自己組織化を組み込んだ複雑系のふるまいです。禅は相転移の反応を進展させる触媒のようなものかもしれません。
宇宙のはじまりの「真空の相転移」は、進化の最先端である私たち知的生命体における「空による相転移」と対称的です。
また神谷美恵子氏のいう「価値体系の変革」も、ある種の「相転移」でしょう。
PTG(ポスト・トラウマティック・グロース「心的外傷後成長」)も、ある種の「相転移」でしょう。
宇宙は相転移により自己組織化してきたといえますが、個人もまた相転移創発により成長・発達すると言えます。
 
では相転移は、どこでおこるのでしょうか?
それは「カオスの縁」で起こる、といいます。
このことを次の機会に考えてみたいと思います。

複雑系とは?散逸構造と自己組織化、創発と相転移

複雑系とは何か?ネット検索してみると出てくるのはこういう解説だ。

多くの要素からなり、部分が全体に、全体が部分に影響しあって複雑に振る舞う系。従来の要素還元による分析では捉とらえることが困難な生命・気象・経済などの現象に見られる。高精度の測定技術、カオス・フラクタルなどの新概念の導入、コンピューターの活用などによって新しい研究対象となりつつある。 (大辞林第三版)

数多くの要素で構成され、それぞれの要素が相互かつ複雑に絡み合った系またはシステム。脳、生命現象、生態系、気象現象のほか、人間社会そのものが挙げられる。個々の要素の振る舞いや局所的な擾乱が系全体に大きな影響を及ぼす非線形、複雑で予測不可能な振る舞いの中にも一定の秩序が形成される自己組織化といった特性をもつ。 (デジタル大辞泉

 

複雑系の哲学』を著した小林道憲氏は、「複雑系の科学はカオス理論と自己組織化理論を源泉として発展してきた」と書かれている。

 

まず、「粒子と波動の相補性の原理」を見てみよう。これは次の機会に取り上げるビッグバンをもたらしたインフレーション理論を理解するうえでも大切である。

 

粒子と波動の相補性の原理

N・ボーアの量子力学解釈における中心的概念

電子をはじめ、あらゆる素粒子は、粒子の性質ももち、同時に波の性質ももつ。粒子は場の振動であり、波動である。場の振動が一定のパターンをとったとき、それが粒子として現われてくる粒子と波は、同一の実在の相補的な両面なのである。(『複雑系の哲学』p50)

 

この「同一の実在の相補的な両面」は、このブログで何度も取り上げてきたヘキサ・キュ―ブで喩えることができそうだ。

 

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「粒子として観る」とは、本図形を2次元の平面六角形として観る見方であり、世界を区別して観る見方である(A、B、…Fは対角線で分断されたそれぞれ別の実体である)。

一方「波として観る」とは、本図形を3次元立方体として観る見方であり、それは世界を区別のない全体として観る見方を表している(A~Fは別々に分離した実体ではなく、立方体という一つの全体のある側面が映し出されているにすぎない)。

 

次に自己組織化の理論である。端的にいうなら宇宙の歴史は、自己組織化138億年の歴史なのである。

 

自己組織化理論とは(同p147)

自己組織化理論で最も重要な概念は〈相互作用〉である。無数の要素が相互作用することによって、自発的に新しい秩序が形成される。ただし、この場合、自己組織化する系は、環境に開かれた開放系であって、しかも、平衡から遠く離れた状態(動的非平衡)になければならない。
このとき、自己組織系は、環境に適応して柔軟に自分自身を作り変え、変革していく能力をもつ。と同時に、そのことによって、それは積極的に環境を形成し、創造してもいく。しかも、その創造された環境に応じて、また、その系そのものが変化してもいく。
内の中に外を入れるとともに、外の中に内を作り出すのである。このような環境と 系との相互作用の中から、新しい秩序が形成されてくる。

  

この自己組織化理論を切り拓くきっかけとなったのがイリヤ・ブリコジンの「散逸構造」だという。なんとも懐かしい。30年前に私がコンサルタント会社に転職するきっかけとなった本が何冊かあり、実はその一冊がまさにこの散逸構造などの概念を紹介した『パラダイムブック』という本であった。

  

散逸構造とは

ブリコジンはこのような平衡から遠く離れた開放系を〈散逸構造〉と呼んだ。絶えずエネルギーが流入するとともに、外部へエネルギーが消失する。要素間にフィードバックを伴った相互作用が起こり、ある段階に達すると、新しい組織が自発的に形成される。
相互作用する非平衡状態にあっては、全体の規則性から逸脱するような不安定な〈ゆらぎ〉が増幅し、ある臨界点を超えると、高次の秩序への飛躍が起き、新しい意味が創出される。この自発的秩序形成や自律的形態形成は、創発〉(emergenceという概念で、諸要素の相互作用からそれらの総和以上の新しい構造や形態が出現することである。そこでは、下位レベルの要素間相互作用から、より上位の秩序が生成する。(同p148)

  

図にするとこんなイメージだろうか?(笑。グーグル画像で検索するともっとまともな図が出てきます。)

 

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「ある段階に達すると新しい組織が自発的に形成される」ことを「相転移(そうてんい)」という。

 

相転移とは

相転移とは、水が氷になったり、水蒸気になったりするように、気体、液体、固体など温度や圧力の変化によって別の相に急激に変化することをいう。プラズマの発生、対流のパターン形成(ベナール細胞)、結晶の生成、粘菌の移動、都市の形成、技術革新など、相転移現象は、創発現象である。
自己組織化では無秩序から秩序が自動的に形成されるから、熱力学第二法則に反してエントロピーは常に減少することになる。閉鎖系の不可逆変化では熱力学第二法則に従いエントロピーは常に増大するが、開放系の非平衡状態では、エントロピーは減り、秩序が生成する。
ここでは〈ある〉ことは〈なる〉ことであり、存在は生成に還元される。(同p148-149)

  

「在る」こととは、じつは「成る」ことであり、「存在」とは、すなわち「生成」なのだという言明は、福岡伸一氏のいう「生命とは動的平衡にある流れである」に通じるものを感じさせる。

ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)でも「プロセスとしての自己」とよぶ自己観を学ぶが、自己とは固定された実体なのではなく絶えず進行し変化しているプロセスなのだという認識だ。そしてそれはあらゆる存在にも言えることなのである。

相転移もまたインフレーション理論のかなめとなるキーワードである。

 

生命の躍動(エラン・ヴィタール)とは「複雑系としてふるまう創造的進化の原動力」であると前回のブログで書いた。それとの関連でいうならば、オーガニックな生命体が発生する以前の物質段階においても、平衡から遠く離れた開放系では、相転移という創発現象を通じて自発的に秩序が生じる。相転移は、まさに「飛躍」なのである。

一定の条件を満たし、そうした自己組織化が進行している系、そこにはすでに「生命の躍動」「生の飛躍」があるといえるだろう。

 

エラン・ヴィタール(elan vital)「生命の躍動」

このところ「生命の躍動」というキーワード、この言葉で体系的に整理できれば面白いのではないかとあれこれ考えていました。そして今日やっと以下の図のように自分の中で関連すると思われる言葉を洗い出してみました。

最近このブログで取り上げた内容もあれば、過去に何回か触れてきたキーワードも並んでいます。そして今月の「知縁カフェ」でテーマにした小林道憲氏の『複雑系の哲学』の内容も大いに関係しています。

じつは「生命(いのち)の躍動」という言葉は、一昨年度にNPOの方で作成した『ICF国際生活機能分類)活用の手引き』の冊子の終わりに「生命の躍動を発見し、〈参加〉へと育てる」というまとめを書いたことがきっかけです。その時は冊子を読んでもらいたい小児がんの当事者・家族、関係者に向けてのメッセージだったのですが、もう少し押し広げて振り返ってみますと、自分自身の生き方の指針としても、このブログで書き発信してきた観点としても、まさに「生命の躍動」だ、「生命の躍動」で統合できる、そんな気がしてきました。

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ということで今後何回かに分けて上記の各項目について「生命の躍動」と関連させ順次取り上げていきたいと思います。

今回は「エラン・ヴィタール」です。

もともとベルクソンもエラン・ヴィタールという用語も知りませんでした。誰かが自分の直感と近いことをいっていないだろうかと「生命の躍動」という言葉で検索しているうちに、フランスの哲学者アンリ・ベルクソン[1859~1941]がelan vitalという用語で「生命進化の根源となるもの」のコンセプトを提唱していることが分かりました。「生命の躍動」、「生の飛躍」、「生命の弾み」などと訳されています。

 

以下、「エラン・ヴィタール」の説明をいくつか列挙します。

 

生物が内的衝動によって進化する生命の躍進力。生物を飛躍的に進化せしめる単純不可分な内的衝動。(コトバンク

 

創造的進化の原動力を表し、「生命の進化を押し進める根源的な力として想定された。(ウィキペディア)」

 

起源にある弾み(elan)。徐々に複雑になっていく形態を経て、生命をより高い使命へと至らせるような内的な推進力。(アンリ・ベルクソン『創造的進化』P137)

 

生命はその起源から、唯一の同じ弾み(elan)が連続しているもので、この弾み(elan)は分岐する進化の複数の線に分かたれた。(『創造的進化』P80)

 

万物の根源を宇宙的な生の飛躍(elan vital)としてとらえ、世界を不断の創造的進化の過程としてとらえた。(小林道憲『複雑系の哲学』P69)

 

生成する世界は絶え間なく新たなものを生み出し変化し続ける。そこには生命の躍動(elan vital)があり、予見不可能な創造性と不確定性があり、そこに自由がある。

世界は創造的進化の過程であり、生命の躍動(elan vital)の軌跡である。(『複雑系の哲学』p205)

  

といったところです。私としては

複雑系としてふるまう創造的進化の原動力」と表現するのが一番しっくりくる気がします。

複雑系の科学」という領域はベルクソンの没後に発展してきましたが、『創造的進化』P137に「徐々に複雑になっていく形態を経て」という表現があるように、エラン・ヴィタールとは、より複雑な様相へ向かうもの、であることがすでに示されています。

万物の根源という点では老荘思想の「道」やインド哲学の「ブラフマン」に類するとも言えます。

そして私はこの創造的進化の原動力であるエラン・ヴィタールと私たちの内なる躍動は共振するのではないかと考えています。

今後この点について掘り下げていきたいと思います。

 

 

 

 

 

マトリックスと共同体感覚

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 ケン・ウィルバーの『意識のスペクトル1・2』『アートマン・プロジェクト』『無境界』などを翻訳された吉福伸逸氏の遺稿でもある本書。『世界の中にありながら世界に属さない』というタイトリルに惹かれ、1年ほど前に購入しました。

 

そしてこの数日、再び目を通したりしていたのですが、ふと以前には気に留めなかった「マトリックス」についての言及に釘付けになりました。(それは年初に会社の商号を「経営マトリクス研究所」変更したからであることは言うまでもありません。)

 

(以下引用)

マトリックスの役割と移行 p62

この話はこれまでもワークショップなどで「マトリックスの移行」ということで話してきました。われわれは生まれてから、何か自分の背景となってくれるような、自分自身を全面的に明け渡してしまってもかまわないような、信頼できる何ものかとのつながりをベースにして生きているとぼくは考えています。

 たとえば、われわれが胎児のときには、母親の子宮が世界そのものですよね。母の身体内にいて、胎児に必要なことはすべて子宮が提供してくれるわけです。では、子宮が胎児に何をしているかというと、一つには、胎盤、へその緒を通して必要なエネルギー源を提供するということがあります。もう一つは、子宮の中にいる胎児に徹底的な安心感を与える。「この中に住んでいるかぎりは私は大丈夫」という安心感を与える。さらには、子宮内にいるときも胎児は排泄物を出しますので、その排泄物をきちっと処理してくれる。この3つが子宮という形のマトリックス、つまり母体がやってくれることなんです。

 胎児は子宮の収縮が始まり、子宮口を通り、産道を通って外に出てきますよね。そうやって出てきた新生児も、3つの機能を持つマトリックス(母体)を必要としています。

 胎児のときにはへその緒を通して栄養を与えてもらいますが、新生児は哺乳類ですから、生まれてくると哺乳によってそれが行われるわけです。哺乳は母親の乳房からミルクをもらうという形で、絆がへその緒や胎盤から乳房に変化する。出産後も母親はマトリックスとして機能していますが、母親の子宮から今度は母親全体がマトリックスの働きをするわけです。・・・必要な安心感とエネルギー源を与えて、同時におむつの世話をしたりといった排泄物の処理を母親が行っていくわけです。つまり、それまでのマトリックスであった子宮と同じような働きをするんです。

 

 欠如のトラウマと過剰のトラウマ p65

欠如のトラウマというのは子どもの成長・発達の過程で必要なものが、その時期に与えられないために発生するものです。過剰のトラウマは逆に、もう必要がないのに過剰に与えられ続ける場合に発生するものですね。その二つの問題さえなければ、子どもはひどい状況にはならないはずなんですよ。ただし、それには母親がある程度の心と身体の健全性をもっていることが前提になってきます。・・・

 

女性性と母性 p67

母親が精神的な健全さを保つには、その夫、子どもの父親との関係が影響します。母親と父親の関係がうまくいかないことは、子どもと母親の関係に大きな影響を与えます。・・・その男性との関係が安定したものであれば母性はゆったりと機能できると思いますが、それが不安定でときに激しく問題が起きたりする場合には、母性がうまく機能しないことも十分に起こるでしょう。・・・

パーソナリティは十全な母性の発達の慈愛を受けていないとどうしても歪みがちになってくるんですね。非常に典型的なのは、対人関係で不信感が強く出やすくなることです。他者を信頼できず、他人に自分を預けることができませんから、常に不信感を持って他人と接触するようなパーソナリティに育ちやすくなってしまうわけです。

 

 母体=マトリックスとの絆がしっかりと結ばれていない場合には、自分の根源的な必要性が満たされないという不安を持つようになります。・・・けれども、母親との絆が結べなかった人が、必ずしも他者に対する不信感を持つわけではありません。さまざまな代用がそれを補償してくれる状況があり、その代用で関係性ができあがる可能性がいくつもあります。

 

 母親から家庭、そして社会へ p70

母親のあとのマトリックスになるのは、だいたい家庭です。家庭がマトリックスの役割をして、子どもに必要なエネルギー源となり、安心感を与える。家にいると子どもはみんな安心するでしょう。安心感を与え、さらには排泄物を処理するという行動が、家庭内で行われていくわけです。

 子どもが10歳ぐらいになると、マトリックスとしての母をちょっと後退させて距離をとる時期がやってきます。西洋社会では一般的に父親がロゴスと呼ばれる剣で母と子の絆を断ち切るといわれています。・・・

一方、東洋の場合は違ってきます。父がロゴスという刃をもたないケースが非常に多く、母と子の絆を断ち切ることがあまり行われていないんです。・・・

このことはあまり一般的には言われていませんが、西洋では少々早過ぎる時期にマトリックスとの断ち切りをやり、逆に東洋ではいつまでも断ち切らないということなんです。そのどちらの場合も、子どもの成長発達にとっては大きな問題になっています。理想的には子どもから明確なサインが出てきたときに、父親が論理的・理念的なロゴスという刃を使って母親との絆をしっかりと断ち切ることなんです。・・・

家庭の次は、今度は外に出て行って、自然界や社会をマトリックスとしていきます。・・・

 

不安定なマトリックス p73

自然界や社会がマトリックス機能を果たす時期に入って10数歳ぐらいになると、子どもたちは次第に親と一緒に行動しなくなってきます。・・・それは親や家庭といったマトリックスに対して、「もうぼく(私)のマトリックスじゃないよ」というサインなわけです。・・・母親がそのサインを読み取れる感性を持っているかどうかは非常に大切なことです。

 

英語ではpeer group(仲間集団)といいますが、この時期の子どもたちは、だいたい同年代グループが最も強い影響力を持っています。そのため、この時期には同年代とのつながりをマトリックスとする場合が結構あります。・・・けれども、このマトリックスは非常に不安定なマトリックスなんですね。3つの条件(エネルギー、安心、排泄処理)をきちんと果たすマトリックスでは全然ないんですよ。そのために、子どもたちがその時期に差しかかる12~13歳頃からの思春期前半は、最も危険な状態になるんです。マトリックスが必要なもの全部を与えられないからです。さらに、この時期は生理的な衝動に強くかられる年齢ですから、しっかりとしたマトリックスの中にいれば起こらないようなことも起こってきます。

 

マトリックスの機能不全 p75

どんどん年をとっていくと、マトリックスはもっとシフトしていきます。それぞれのマトリックスには役割がありますが、それがしっかりと働いているかどうかは、自分で簡単に知ることができるんですよ。たとえば、不安をおぼえたり、何かがおかしい、落ち着かない、ゆったりと安心できないといったような不信感にさいなまれてしまう場合には、おそらくそのマトリックスはしっかりと働いていないんですね。あるいはマトリックスの役割を果たせないものをマトリックスにしようとしている場合なんですね。・・・

ある時期の成長を遂げたあとに、所属意識と呼ばれるある種、感覚的なマトリックスが提供されることがあるんですね。たとえば、特定の団体や会社、あるいは宗教やコミュニティなどに属することによって、そこにマトリックスの働きを要求することが起きるといったようなことです。

  

p135

小さな共同体の修正機能

あまり大きな社会ではなくてある特定の規模の小さな村落や共同体のようなところで生まれ育ってそこで一生を送る人たちは、たとえば、心理療法や精神科にかからなくても、その共同体での生活を通して過剰だったり欠如していたものが、本人には何も自覚がないままでも自然に修正され、何らかの補償が起こって、ある特定の人格に仕上がっていく傾向が十分にあったという気がします。・・・たくさん魚がとれたから魚をあげるとか、野菜ができたからあげるというような、・・・その中には非常にあったかい情緒や情念が存在しているという感覚がありました。そのようなマトリックスがあれば自然だったと思いますが・・・。

 

子宮、母親そして家庭の次にくるマトリックスとは、いったい何なのでしょうか?それによって不安定になりやすく、機能不全に陥りやすいマトリックスを修正し補償するように働くマトリックスとは何か?

 

それは、アドラーのいう「共同体感覚」を実感できるコミュニティ(所属グループ)のことだと直感しました。

 

共同体感覚とは、簡単に言うと、他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることです。では、共同体感覚がもてるようになるには何が必要なのでしょうか?

『嫌われる勇気』(岸見一郎著)では、共同体感覚を持てるようになるには、自己受容、他者信頼、他者貢献の3つが必要になる(p226)と書かれています。

 

自己受容とは、60点の自分を、そのまま60点として受け入れた上で「100点に近づくにはどうしたらいいか」を考えること。(p228)

 他者信頼とは、他者を信じるにあたって一切の条件を付けないこと。(p231)

 他者貢献とは、仲間である他者に対してなんらかの働きかけをしていくこと。貢献しようとすること。(p237)

です。

 

また四日市市教育委員会の行った小学校クラスにおける共同体感覚のアンケート調査の項目(共同体感覚尺度)は次のようになっています。

1)自己受容

あなたは苦手な部分も含めて自分のことが好きですか

あなたは自分のことを大切にしていますか

2)所属感

あなたのクラスは居心地がいいですか

あなたはメンバーの一人であるという気持ちはありますか

あなたはクラスのみんながいてくれてうれしいなと思いますか

3)信頼感

あなたはクラスで大切にされていると思いますか

あなたはクラスのメンバーを信頼していますか

あなたのクラスは自分達で自分達の問題を解決しようとすることができますか

4)貢献感

あなたは人のためにはたらくことが好きですか

あなたはクラスのみんなのために役に立つことができると思いますか

あなたはクラスのみんなを大切にしていると思いますか

 

当然、「はい」「どちらかというとはい」が多いほど共同体感覚が高いということになります。

 

同年代のグループであれば共同体感覚を実感できるグループ。

学校のクラスであれば共同体感覚を実感できるクラス。

部活であれば、共同体感覚を実感できる部活

近隣であれば、共同体感覚を実感できる近所関係

職場であれば共同体感覚を実感できる職場

シニアグループであれば共同体感覚を実感できるシニアグループ

 

そうした場所は、機能不全のマトリックスを修正しうるマトリックスとして機能するのではないでしょうか?一昔前に各地で地域通貨を導入する動きがありました。私もコンサルタントとして2つの自治体で実験的導入にかかわりました。実は地域通貨の目指していたものも、それによって紡ぎ直される地域マトリックスの絆だったのだと今にして思われます。

 

現在、月1回開催している「生きかた知縁カフェ」。こうした自己受容でき、居場所と感じられ、他者を信頼でき、貢献感を感じ取れる、そんな共同体感覚を実感できる場としてのカフェにしてゆきたい、そしてまずは足元からマトリックスを築いてゆこう、と改めて思いました。

本質の無化から、無「本質」的分節へ

前回に引き続き井筒俊彦氏の『意識と本質』を見ていく。

 

本論に入る前に、井筒氏の使用する「分節」あるいは「無分節」ということばであるが、『意識の形而上学大乗起信論の哲学』のなかでこう解説されている。

 

仏教古来の術語に「分別」という語があって、ほぼ「分節」と同義である。しかし「分別」は現代日本語の口語的用法では、道徳論的含意の響を強くもちすぎるので、「分節」と使ってきた。・・・「分節」とは、字義どおり、切り分け、分割、区劃づけ、を意味する。

  

また本書の本質論について誤解のないように言っておくと、井筒氏は本書で本質の否定論だけを展開しているのではない。大乗仏教にみられる「本質」否定論を取り上げながらも、一方で本質の型を3つに分類してそれぞれの構造をむしろ肯定的に論じてもいる。

 

それらは①宋儒の「格別窮理」に代表される本質、②シャマニズムを特徴づける元型・アーキタイプとしての本質、③孔子の正名論のいう本質である。

 

しかしここでは、『〈仏教3.0〉を哲学する』の中で、永井氏が語った「実存」と「本質」から発展して話を進めているところでもあり、禅で否定される本質を念頭に置きつつ論を進めたい。

以下、今回とくに重要と思われた部分の引用する。 

118

禅は現実を、「本質」によって固定された事物のロゴス的構造体とは見ない。…何々であるとして認知される事物、すなわち「本質」を核とする結晶体は、ことごとく我々の目の曇りのゆえに虚空にあらわれる幻影のごときものにすぎない。

 

 

P119

こうして禅は、すべての存在者から「本質」を消去し、そうすることによって全ての意識対象を無化し、全世界をカオス化してしまう。しかし、そこまでで禅はとどまりはしない。世界のカオス化は禅の存在体験の前半であるにすぎない。一たんカオス化しきった世界に、禅は再び秩序を取り戻す、但し、今度は前と違った、まったく新しい形で。さまざまな事物がもう一度返ってくる。無化された花がまた花として蘇る。だが、また花としてといっても、花の「本質」を取り戻してという意味ではない。あくまでも無「本質」的に、である。だから、新しく秩序付けられたこの世界において、すべての事物は互いに区別されつつも、しかも「本質」的に固定されず、互いに透明である。「花」は「花」でありながら「鳥」に融入し、「鳥」は「鳥」でありながら「花」に融入する。

 

まさに華厳哲学にいわゆる事事無碍法界の風光、道元禅師の言う「水清くして地に徹す、魚行きて魚に似たり。空ひろくして天に透る。鳥飛んで鳥のごとし」(坐禅蔵)の世界。

 

 

 

 

P136

存在の絶対無分節と経験的分節との同時現成こそ、禅の存在論の中核をなすものだ。「無」とか「無心」とかいうと、絶対無分節だけに重心がかかるけれど、・・・絶対無分節でありながら、しかも同時に、それが時々刻々に自己分節して、経験的世界を構成していく。・・・

無分節がそのまま、その全存在エネルギーを挙げて自己分節する。無分節と分節との間に一毫の間隙も置かれてはならない。電光石火。無分節態すなわち分節態。両者の間に一毫の間隙もないということは、しかし、「本質」の介入を許さないということだ。「本質」が介入してこない、無「本質」のままでの存在分節、・・・。

 

 

 

P144

 

 

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この図の解説として、井筒氏はこう書かれている。

 

「分節(Ⅰ)→無分節→分節(Ⅱ)」全体構造を的確かつ明快に提示したものといえば、青原惟信の「見山(水)是山」→「見山(水)不是山」→「見山(水)祇是山」にまさるものを私は知らない。・・・第一段階は、普通の人の普通の目で、自己の外なる世界を眺めている。世界は有「本質」的にきっぱりと分節されている。同一律矛盾律によって厳しく支配された世界。・・・(第二段階は)あれほど強力だった同一律矛盾律が効力を失って、山は山ではなく、川は川でなくなってしまうのだ。あらゆる事物が、「本質」という留金を失う。・・・「本質」結晶体が流れ出す。・・・そんな山や川を客体として自分の外に見る主体、我、もそこにはいない。すべてが無「本質」、したがって無分節、・・・。サルトルマロニエの木の根を思い出す。だが、これに続いて次の第三段階があるゆえに、禅の存在体験は、サルトル的実存体験とはまるで違ったものになってしまうのである。

第三段階は再び「有」の世界。第二段階で一たん無化された事物がまた有化されて現れてくる。第一段階の世界と一見少しも違わぬ事物の世界が目の前に拡がる。だが、・・・一つの決定的違いがある。・・・第二段階から第三段階への移りにおいて、それらの分節は戻ってくる。しかし、分節は戻るが、「本質」は戻ってこない。・・・言い換えれば、それらの山や川は「本質」的凝固性をもたない山であり川であるのだ。

  

 

P152

「本質」がもともと実在しない幻影のごときものであり、「本質」に基いて個々別々の事物を個々別々の事物として現象させる存在分節が、従って、本当は妄想分別にすぎないと悟る時、つまり経験界の事物がすべて本当は無「本質」なのだと悟る時、人は「向上」の道への第一歩を踏み出す。・・・事物の無「本質」性を『般若経』『中論』以来の大乗仏教の術語では「空」と呼ぶ。仏教で「本質」に該当する語は「自性」であるので、無「本質」性の意味での「空」を「無自性」ともいう。

 

 

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168

無「本質」の花には花の凝固性がなく、鳥には鳥の凝固性がない。だから互いに浸透し合う。・・・無「本質」的に分節されたあらゆる事物相互の、そして意識と存在との、壮麗な宇宙的相互浸透の場として現成するのである。無分節者が、その本源的無分節性を失わずに、そのまま分節される時、その分節は、重々無尽に浸透し合う透明な存在者の拡がりという形で現れざるをえないのである。

 

 

そして上図の解説がこう展開される。

 

全体として覚知された「無」、すなわち無分節を、一つの空円をもって表すとすると、その空円に充満する全エネルギーが分節の平面上においてa(花)となり、またb(鳥)となって現成する、という形で分節(Ⅱ)の構造を表象することができよう。・・・abとはたしかに分節だが、この分節は、分節()の場合のように存在の局所的限定ではない。すなわち現実の小さく区切られた一部分が断片的に切りとられて、それが花であったり、鳥であったりするのではない。現実の全体が花であり鳥であるのだ。・・・こうして、無分節の直接無媒介的自己分節として成立した花と鳥とは、根源的無分節性の次元において一である。つまりabとは、abとであるかぎりにおいては明らかに区別されているが、空円においては一である。・・・電光のごとく迅速な、無分節と分節との間のこの次元転換、それが不断に繰り返されていく。繰り返しではあるが、そのたびごとに新しい。これが存在というものだ。・・・

 

むむ…この構造は「次元を行き来するヘキサ・キューブ」そのものではないか。

 

nagaalert.hatenablog.com

 

分節されたもの(例えば花)が、その場で無分節に帰入し、また次の瞬間に無分節のエネルギーが全体を挙げて花を分節し出す。この存在の次元転換は瞬間的出来事であるゆえに、現実には無分節と分節とが二重写しに重なって見える。・・・

分節(Ⅱ)の存在次元では、あらゆる分節の一つ一つが、そのどれを取ってみても、必ずそれぞれに無分節者の全体顕現なのであって、・・・分節であるにもかかわらず、そのまま直ちに無分節なのである。・・・

また、すべてのものがそれぞれ無分節者の全体そのままの顕路であるゆえに、分節された一々のものが、他の一切のものを内に含む。花は花であるだけではなくて、己の内的存在構造そのもののなかに鳥(や、その他の一切の分節)を含んでいる。鳥は鳥であるだけではなくて、内に花をも含んでいる。すべてのものがすべてのものを含んでいる。

 

 

むむ…この構造はまさに「ヘキサ・キューブ・フラクタル」ではないか。

 

年初から提唱(?)してきたヘキサ・キューブ構造に、この分節(Ⅰ)→無分節→分節(Ⅱ)のフローをあてはめるなら・・・。

 

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分節(Ⅰ)は、対角線で分割された平面六角形(ヘキサゴン)である。

本質の無化、もしくは「無分節」とは、ヘキサキュ―ブの背景にある円空である。

分節(Ⅱ)は、立方体(キューブ)であり、相似形を入れ子状に内包するフラクタル構造で、生の躍動する無「本質」的分節である。

 

以下、思いついたことを箇条書きし、後日のテーマとしたい。

 

・自己を分節(Ⅰ)としてのみ見るのが、ACTでいう「概念としての自己」である。

・経験的事物を分節(Ⅰ)としてしか見られないことが「認知的フュージョン」である。

・自己の「本質」を無化することで、実存である「観察者としての自己」の位置に立つことができる。

・経験的事物の「本質」を無化することで、「脱フュージョン」が可能となり、囚われから脱することができる。

・分節(Ⅱ)として観る(ある)ことは、高度なナラティブ・アプローチであるといえるのではないか。

・自己の内的存在構造の中には、いっさいの分節を含んでいる。すなわち自己はすべてを包含する。

・互いに透明であるとは、存在の相互貫入のことである。

・自己はすべてを包含するとともに、自己はすべてに波及する。

 

 

表層意識における概念的「本質」

井筒俊彦著『意識と本質』では、否定的な本質論と肯定的な本質論、表層意識レベルの本質論と深層意識における本質論などなどについて語られている。そのはじめとして今回取り上げる「本質」は表層意識レベルの本質であり、概念的な本質、禅で徹底的に否定されるべき本質(参照2016/11/8「無我とは本質なき実存、主体としての空」)である。

無我とは本質なき実存、主体としての空 - ウィルバー哲学に思う

本書を読み進めていく中でこのブログで触れてきた内容との共通性がいくつか想起されたが、まずはソシュール言語学でいうところのシニフィエ、コージブスキーの示した構造微分図、ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)などとの関係に触れることで理解を深めたいと思う。

 

井筒氏は『意識と本質I』でサルトルの『嘔吐』にある言語脱落(本質脱落)を見事に形象化した例として主人公がマロニエの根をベンチで見た時の描写を取り上げている。それがマロニエの根であることに気付かない短い時間に感じた「全く生のままのその黒々と節くれ立った、恐ろしい塊」に対する嘔吐的体験である。

 

サルトルが『嘔吐』で描いた本質については、Eテレ『100de名著』で「実存は本質に先立つ」というフレーズで解説されていたことを思す。ペーパーナイフでいうなら「切る」という働きが本質である。したがって職人は「切れる」という機能を有するナイフを最初から作ろうとするが、人間はそうではない。人間は生まれながらに医者や教師という働き(本質)が決まっているわけではなく、成長してからその人に適した働き(本質)が定まるのである。すなわち「実存が本質に先立ってある」のである。確かそういう話だった。

 

そこでは、モノの本質を、そのモノの機能や働きとしてとらえていたが、前のマロニエの根の例では、本質とは、それが「何であるか」という「概念」そのものを指している。

 

そうした概念はどこから来るかというと、コトバの本来的意味作用から来る、と井筒氏はいう。

(以下引用)

コトバの意味作用とは、本来的には全然分節のない「黒々として薄気味悪い塊り」でしかない「存在」にいろいろな符牒をつけて事物を作り出し、それらを個々別々のものとして指示するということ

 

老子的な言い方をすれば、無(すなわち「無名」)がいろいろな名前を得て有(すなわち「有名」)に転成するということである。

 

およそ名があるところには、必ずなんらかの形での「本質」認知がなければならない。だから、あらゆる事物の名が消えてしまうということ、つまり言語脱落とは、「本質」脱落を意味する。そしてコトバが脱落し、「本質」が脱落してしまえば、当然、どこにも裂け目のない「存在」そのものだけが残る。・・・それが「嘔吐」を惹き起こすのだ。(引用ここまで)

 

 

(なぜ、嘔吐なのか?それはこの『嘔吐』の主人公が深層意識の次元に身を据えていない、…実相を視る…それだけの準備ができていないからであるというくだりは大変面白いのだがここでは省略する。)

 

本質脱落=言語脱落であるという。コトバの本来的な意味作用に重要なポイントがあるのだ。このことを別の角度から考えてみよう。

 

ここで思い出すのは、このブログでも何度か取り上げたことのあるソシュール言語学でいうところのシニフィアンシニフィエの関係だ。

 

 

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シニフィアンとは語のもつ感覚的側面のこと。たとえば、海というコトバなら「海」という文字や「うみ」という音声のことである。一方、シニフィエとは、このシニフィアンに表象された海のイメージや海という概念ないし意味内容のこと。シニフィアンシニフィエとの対のことを「シーニュ」(signe)すなわち「記号」と呼ぶ、などと一般的には説明される。

 

 また指示対象そのもののことをレフェランという。

 

ウィルバーは『科学と宗教の統合』でこう書いている。

(以下引用)

ソシュールによれば、言語的な記号(シーニュ)は物質的シニフィアン(書かれた言葉、話された言葉、このページ上の諸々の符号)と概念的なシニフェ(シニフィアンに触れた時に心に浮かぶもの)で構成されている。両者とも実際のレフェラン(指示対象)とは異なる。たとえば木を見ているとすると、その実際の木がレフェランである。書かれた言葉「木」(tree)がシニフィアンであり、その「木」(tree)という言葉を読んだときに心に浮かぶもの(イメージ、想念、心的映像や概念)がシニフェである。シニフィアンとシニフェが合わさってシーニュ全体を構成している。(引用ここまで)

 

 

したがって、井筒氏のいう表層意識における概念的な本質とは、ソシュールのいうシニフィエであるといっていいだろう。本質≒シニフィエだ。

 

このシニフィエを「わたし」に当てはめたのがACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)でいう「概念としての自己」である。これについては次の機会に取り上げる。

 

絶対無分節の「存在」と、それの表面に、コトバの意味を手がかりにして、か細い分節線を縦横に引いて事物、つまり存在者、を作り出していく

 

それが人間意識の働きであると井筒氏は書いている。

 

中川吉晴氏のいうコージブスキーの構造微分図を思い出した。

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中川吉晴著『気づきのホリスティック・アプローチ』を参照しながらリアリティが抽象化してしまう過程を振り返ってみたい。まず一番上はEvent(出来事)の次元である。いま起こっていることの全体であり、ありとあらゆる現象を含んでいる。Eventレベル≒絶対無分節「存在」の次元、と位置付けてよいだろう。

その下にある円状の部分はObject、すなわちモノ(対象)の次元である。知覚が人間の神経器官によって限定されるので、人間がそれとして知ることのできるのはこの次元からであり、すでに「第一次の抽象化」が働いている。しかしこのレベルは言い表せないモノのレベルであり、コトバにならないある種の感じ(feeling)として把握される。こうした言語以前の原感覚も意味を含んでおり、人間の生存がそれに基づいているため最も重要である、と中川氏は書いている。

 

これ以下はすべて「ラベル(名づけ)」の次元であり、ここから以降は言語化をともなって抽象化が進む。言語化レベルのはじめの段階は記述(Descriptive)のレベルだ。

 

ACTでは、この「記述」レベルとそれ以降の主観をともなったレベルとの識別を重んじることから、この境目は構造的に異なる次元にあることを、ぜひ覚えておきたいところである。

 

その下は、推論(Inference)のレベル。そして総合的な判断(Generalization)のレベルへと下降し、それ以降の思考過程に終わりはない。

 

コージブスキーはモノの次のレベルを「ラベル(名づけ)」としたが、中川氏いわく「モノ」の次のレベルとして「シンボル化」があり、その次に「概念化」がある。「概念からシンボルへ、さらにシンボルから(微細な)体験過程へと遡っていくことが必要なのである」という。フォーカッシングにつながる流れだがここでは詳しく触れない。

 

話を元に戻すなら、井筒氏のいう表層意識における本質とは、大乗仏教がナーマルーパ(名と形)とよぶ妄念の描き出す画像であり、禅が徹底して否定する「本質」のことである。それはコトバの働きと密接な関係がある。ここでいう本質は「木」というコトバを目にし、耳にした時に心に浮かぶイメージや概念としてのシニフィエであり、実際の指示対象であるレフェランとしての木の豊饒なリアリティから多くのものが削げ落ちた矮小化されたリアリティなのである。

あるいは、推論、判断などによって歪められることを余儀なくされたリアリティなのだ。

 

井筒氏はいう。

概念的「本質」の世界は死の世界。みずみずしく生きて躍動する生命はそこにはない。だが現実に、われわれの前にある事物は、一つ一つが生々と自分の実在性を主張しているのだ。

 

 であるから、「本質を無化する」ことが極めて重要なことになってくる。次回ACTでいう「脱フュージョン」との関連においてこのことを取り上げてみたい。