ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

目撃者と火の鳥のまなざし

2000年以降の人生で、私がもっとも救われたのは、ウィルバーの「目撃者」(Witness)である。
この週末にも、エゴの情動を揺さぶる穏やかならぬ小さな出来事があった。
そこで枕元の『存在することのシンプルな感覚』第1章「目撃者」を再読した(何百回目かの再読だが)。

p24~
いったい、この「見る者」(Seer)とは誰か。このすべてをただ見守っている「自己」とは、誰なのか。ラマナ・マハリシは、この目撃者を「私―私」と呼んでいる。なぜなら、それは「個別のわたし」を意識できるが、それ自体は対象として見られることがないからである。...
この深い、内なる「自己」は、世界を、そこから見ている。また、あなたの内面のすべての思考も見ている。この見者は、エゴを見る。身体を見る。自然世界を見る。すべては、この「見者」の前を通り過ぎていく。...

あなたは、この、すべての対象を目撃するこの「見者」が、実は広大な「空性」であることに気が付く。...そこにおいて、すべての現象は、現れ、しばらくの間、とどまり、そして去って行くのである。

 

すばらしい❗️

 

エックハルト・トールが覚醒した瞬間が想起される。

手塚治虫火の鳥のまなざしである。

「在ることすべての全景画」を眺めるウィルバーのまなざしである。

この時間の流れに入らない「私―私」(I-I)は、Never Ending Storyを観る者である。

こうして小さな出来事から生じたネガティブな情動はLet it Go された。

 

2009年の書初めに記した通り。
Rest as the Witness.


何ものにも拘束されないこの自由な感覚に同一化し、そして、安らいだ。

虚無感すらも無い

前回のブログで「虚無感すら無い」と書いた。これは、

「何も無い」(すなわち虚無)でも「何もないのでも無い」

という絶対否定を表した言葉だ。

「何もない」と聴くと、あるはずのものが全て失くなるような、あるいは私という存在がなくなってしまうような暗いイメージが頭に浮かぶかもしれない。

そのようなネガティブな心象(すなわち虚無感)は「悲観的シニフィエ」にすぎないと看破して、それすらも無いと否定するのが「虚無感すら無い」である。

何も無いでも、何もないのでも無い

これで頭に浮かぶイメージは空白すなわち「無」となる。「空」の円相となる。

そして次へと向かうのである。

 

以下、数年間に書いて下書に保留していた稿をアップさせていただきます。

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死後の世界があるかないかなどという話が、佐々木閑氏と科学者の大栗氏の間で交わされているところを読んでいて、死後の世界というのは、AQAL4象限でいう右上の象限すなわち個人の外面としての側面では死は厳然たる事実としてあるのであるから議論の余地はない。であるから問題となるのは左上の象限すなわち個人の内面において、有りや無しやということであろう。
意識というものが脳神経ネットワークによって生起されるものであるとするなら、肉体の死とともに意識も消滅すると考えるのが合理的であろう。

その時何もなくなるのか?すなわち実存と本質という永井氏の文脈における実存も消滅するのであろうか?

意識のコンテンツに何も立ち昇らない、がしかしそれは存在する意識(実存)というものはウィルバーによると(ラマナによると)ある(らしい)。

それを信じたり期待することに意味があるのだろうか?

私たちがなぜそうしたことを考えるのかというと、この身心が消滅すると何もなくなってしまうのではないかという「虚無」に対する恐怖であろう。

すなわち「虚無」は何か恐ろしいもの、とらえどころのない、不安で、足元のない、どこまでも底のない穴を落ちていくような、ネガティブな感覚としてとらえられている。

それはいうなれば「虚無感」である。

本当に何もなくなることは、ネガティブな感覚なのであろうか?

「何もなくなる」のではなく、「何でもなくなる」と表現してみよう。

ちょっとニュアンスが変わる。

「何でもなくなった」感覚とは、どんなものだろうか?

誕生する前のように、何でもないものに戻るのである。

ひょっとしたら、限りなく満たされている感覚がするのかもしれない。

果てしなく自由な感覚があるのかもしれない。

しかし話を元に戻すと、心身の消滅とともにそうした感覚を感受する機能も喪失するわけだから何の感覚もないはずであるといえるだろう。

何の感覚もないとは、もとの虚無である。

では、そうした自由や充満というポジティブな感覚がないと同時に、虚無感というネガティブな感覚もまたあり得ないことは論理的に明白である。

虚無感もまた感覚だからだ。

とすればいえることは、虚無感すらも無いということ。

そして死の内面は未来にしかなく、しかしその未来に到達したときそれを感受すべき身心の感覚系統は消滅しているのであるから、それは今現在の概念としてしか存在しない。そのため死の内面(左上象限)とは証明しようのない幻想であることは間違いない。

それをあれこれと想像しているのだ。

ポジティブな感覚を感じるかもということも幻想でしかないのと同様に、虚無に陥って虚無感に支配されてしまうのだろうというのもまた幻想にすぎない。

はっきり言えることは「虚無感すらも無い」ということである。

死後には虚無感すらも無い。

それは自由ではないだろうか?

自由という感覚からも解放されている「自由」といえるかもしれない。

 

nagaalert.hatenablog.com

Never Ending Story

田坂さんは死の虚無感が無意識に与えるダメージを述べ、科学と融合した新しい宗教的叡知の必要性を訴えている(『死は存在しない』田坂広志著 p335-337)。

ミヒャエル·エンデのネバー·エンディング·ストーリーを思い出した。虚無(The Nothing)によって蝕まれていくファンタージエンを救おうと物語の中に入ってしまった少年の冒険譚だ。

「虚無感すら無い」というのが「絶対否定」的な私の持論であるが、量子真空は真空エネルギーをもっていることから、死後は真空エネルギーそのものになるのではないか、そして充溢の感覚に満たされるのではないか、以前からそんな風に想像していた。それは「空」の感覚だ。

しかし、量子真空に宇宙開闢以来138億年の全ての情報が記録されているならば、しかもホログラム原理によって全体が部分に折り畳まれているならば、煌めくような知性が意識に流入するのではないか。

そして「私」は全体となる。

しばし留まり、どのくらい時間がたったのかわからないある時、Elan Vitalが惹き起こすゆらぎによって、素粒子が生まれるごとく、再び個としての生命を得る。そして誕生する。新たな人生が始まる。

こうして終わりのない物語が続いていく。

Never Ending Story

今年の初夢、はてしない物語。 

 

nagaalert.hatenablog.com

インテグラル卓球Life

2019年の10月15日に「卓球の実践によるインテグラルへの波及」という稿を書き、卓球という活動がもたらす(と期待される)効果や影響を四象限(Quadrant)で示した。

また同年10月8日に「フローの条件として接戦で〈今〉にあること」を書き、当時の少ない経験から何とか具体例を述べさせていただいた。
(フローは四象限では左上象限の主要なテーマの1つであるとともに、状態(State)の重要な目標の1つである。)

あれから3年半が経ち活動を拡充させる中で、改めて思うのはシニア世代スポーツにどっぷり取組めることの大きな恩恵である。
それは、私の場合、当初の想定をかなり大きく超えている。簡単に言うと「こんないいものだったとは!」という感じだ。

生命の躍動をリアルに感じ、エネルギーがボンッ!と身体に入ってくる感覚がある。

卓球も他の多くのスポーツ種目と同様に、その習熟度によって(ざっくりだが)、初心者、初級、中級、上級者に分けられる。

上級者は大学時代、体育会に所属し、レギュラーとして活躍していたレベル(技術的に指導も可能)。
中級は中学高校と部活でレギュラー。地区大会入賞経験があったりする。
初級は中高時代に経験はあるが、大会出場経験がないか、あっても乏しい。あるいはシニア世代に始め、初心者から上達して試合に参加できるようになってきたレベル。
初心者は基本的に指導を受けて練習しているレベル。

この分類で私は中級に属するが、それは本当に有り難いことなのだと最近つくづく思うのである。

中級であれば市または府県の卓球連盟や団体が開催する大会に堂々と出場できる(いろいろな大会があり月1回ぐらい参加可能)。

これら地域の大会は1部、2部、3部…という能力別や、一般、50代、60代、70代…という年齢別の参加形態があり、シングル、ダブルス、団体戦がある。

大会にもよるが中級者なら2部または3部で4〜6割前後の勝率が可能であろう。
くじ運が良ければ、リーグ戦で1位になったり、トーナメント戦でベスト4に入ったりして、賞品や賞状をもらえることもある。

 

中学時代には団体戦個人戦ともに優勝できた経験があり、とても嬉しかったことを思い出す。しかしシニアになった今でも、入賞すれば、やはりとても誇らしい。中学時代は勉強で1番になった時より、地区大会で優勝した時の方が自慢げだったが、この年になった今もそういう心理だ。たぶん手放しで仲間が称賛してくれるからだろう。

内容が良ければなおさらである。何度もビデオを見て、良いプレイは繰り返し見てしまう(自分の名場面/迷場面集を編集することも)。

 

WHOの『QOL26』に回答してみると、卓球Lifeのビフォーとアフターで、大きくQOLが向上したことが分かった。
この『QOL26』は、身体的、心理的、社会的、環境という4つの領域で質問項目が示されており、インテグラル理論の4象限に対応して興味深い。(WHO QOL26で検索すると概要はすぐ分かります)

 

以下に私の考える「インテグラルスポーツ〔卓球〕」の項目を列挙して本稿を終わります。

[Quadrant]
[右上]身体の健康維持増進、脳機能(高次、海馬神経新生、小脳)維持活性化、subtle body
[左上]論理的思考、他者への関心(social interest)、情動コントロール、ストレス対処、フロー、Mindfullness(ワンダリング防止)
[右下]コミュニティ所属、地区大会参加、団体戦、コーチ、入賞、ランキング等
[左下]チームメンバー、練習コミュニティ、小児がん卓球コミュニティ(NPO)の人間関係

[Stage]
【アンバー】所属欲求、健康目的運動
【オレンジ】達成欲求、科学的合理的練習
【グリーン】貢献欲求、ボランティア、インクルーシブ、パラ、卓球療法
ティール】自己実現欲求、Strategicデータ動画管理、異分野能力統合(医療、情報、心理、social)、ビジョンと戦略
ターコイズ】シニア卓球AQAL、自己超越、カオスの縁、原初の回避自覚
悲観的シニフィエ自覚、理事無礙法界

 

〔State〕マインドフルネス、Witness、フロー、α波

〔Line 〕身体感覚、認知、EQ、人間関係、内省、意志、Spirituality

 

Singleループ 打ち方の誤りを見つけ正す
Doubleループ シニアに応じた打ち方に
Tripleループ 目的、目標を見直す

from 原初の回避 to 全景画(Total Painting)

「原初の回避」については、『インテグラル理論を体感する Integral Meditation』(ケン・ウィルバー著)にこうある。

 

けれどもよく観察してみると、私たちはあまりにも多くの場合、何らかのものを「見たくない」と感じています。…

ちょっとした不快な身体感覚、不愉快な考え方、見るに堪えない光景、何であれそのまま受けとめるにはあまりに不愉快であったり、苦痛であったり、憂鬱であったり、不安を感じさせるものであったり、自分に近すぎたりするものを、私たちは避けようとします。…そこから目をそらし、顔を背け、離れようとします。

しかし、この動き、この最初の小さな動きこそが、人類のあらゆる苦しみの根底にあるものなのです。私たちは天国から地獄へと、たった一歩で転落するのです。(p210-211)

We move from heaven to hell in one step.

 

この「天国から地獄」という印象的な表現を敢えて使用したのは、それほど極めて重要なポイントであることを訴えたかったのではないだろうか。

 

私たちは世界(そして一連の出来事)を分断し、良いことと悪いことに分け、悪いことを避けたり取り除こうとする。

 

ホモ・サピエンスが言葉を使い、生存本能が拡張された結果、私たちの種にとって普遍的な特質であり、多くの人々に一般的に見られる傾向ではないだろうか。

 

しかしACTで指摘されているように、物理的な次元で一般的に採用される方略(避ける、取り除こうとする)を、心理的次元に同じように適用してはいけない、かえって事態を悪くする(典型的なのは抑圧しシャドウを作ってしまう等)。

 

ウィルバーはこれを全景画を彩る光と陰という表現を用いて、陰を取り除いてしまっては全景画の美は成り立たないのだといっている。

 

(同上p209)

言うなれば、世界とは、広大な絵画のようなもの。この絵画には、存在するもの全てが描かれています。それは〈在るものすべて〉の全景画(the Total Painting of All That Is)なのです。あなたの周りに存在している世界の全て、そしてあなたの内面に存在している世界の全ては、全てを包括するこの〈在るもの全ての全景画〉の一部なのです。

そしてどんな絵画もそうであるように、そこには光と闇があり、山と谷があり、高いところと低いところがあり、鮮やかな部分と曇った部分があります。言い換えれば、一般的に「よい」とされる領域と、「悪い」とされる領域が存在しているのです。…

しかし大事なことは、そもそもその両方がなければ、この〈全景画〉は存在しえないということです。もし全ての暗部、全ての日陰、全ての影を取り除いてしまったら、絵そのものが消滅してしまうでしょう。

 

なるほど!ビジュアルな心象が刻印された。

 

それとともに(私が勝手に命名した)「ヘキサキューブ」にシナプスが繋がる。

 

二次元では分断のヘキサゴン、三次元ではひとつの立体キューブとなるあの図形である。

 

ヘキサゴンに対角線を引いて分断された6つの三角形のいくつかに陰をつけてみる。(頭の中で想像してみて下さい)

ヘキサゴンは「原初の回避」によって「原初の境界」が生じ分断された世界の象徴だ。

世界には、あるいは人生には光と陰があることをシンプルに表現している。

 

この同じ図形をキューブとして見てみよう。

 

光が当たっているキューブの外側の表面が白っぽい。それに対し黒っぽいのはどうもキューブの内側の面のようだ。

 

そうか、いくつかの内側の面には光が届かず、陰となって黒っぽく映っていたのだ!

 

光のもとに出してみると同じ白なのだが光が届かないため黒っぽく見えるのである。

なにか暗示的な気がする…

 

このことに気づいた瞬間、黒はただの陰となる。Awarenessの光に照らされたなら、陰は、例えばペインボディのようなネガティブなものは、もはや黒ではない。卑金属は金に変えられる。これぞトールのいう「パウロ錬金術」ではないか。

光明遍照と錬金術 - ウィルバー哲学に思う

 

無視せず、取り除こうとせず、拒絶しないでWillingness あるいはLetting go !

生命の躍動を感じる「価値」の山に向かって好ましからざる乗客も乗せてただただ走るのである。

エスビューロー事務局長のブログ: アクセプタンスとコミットメント

 

その登山路では美しい陰影のある全景画が観られるにちがいない。

球技はなぜ楽しいのか(自己と世界を媒介する球)

蹴聖(しゅうせい)といわれた藤原成通の日記によると…

1000日休まず蹴鞠する千日行の夜に毬の精が出てきた。人が蹴鞠をしているときに鞠に憑き、しなくなると柳の林に戻ると言った、

とある。

 

鞠や球に不思議な力があるのだろうか。

 

私の好きな卓球でも、一体なぜ、こんなに多くの老若男女が楽しんでいるのだろうか。

 

本当の自己とは本当の世界であり、そこに分離はない。神秘家は、時に、自己もなければ世界もない、という言い方をする。しかし彼らが言いたかったのは、自己と分離した世界もなければ、世界と分離した自己もない、という意味であった。エックハルトはそれを混乱なき混合(統合)と呼んでいる。

The real self is the real world, no separation, so sometimes the mystics will also say there is no self, no world. But that's all they mean, no separate self, no separate world.  Eckhalt called it fusion without confusion.

(『グレース&グリット』CW5:122)

 

球が自己と世界を結ぶからではないか?

 

球には「1点を中心に集まる」の意味があるという。

球は自分と対戦相手、味方チームと敵チーム、審判、観客の視線を一点に集め、心を揺さぶり、場全体の空気を支配する。

局面は刻一刻と移り変わるが、1球の影響は次の1球に及び、次の1球もさらに次の1球に、そしてそのまた次へと波紋を拡げてゆく。
球は空間的にも時間的にもそこに繰り広げられる世界の中心となって、自己と世界を結び続ける。
自己が繰り出す球が場を構成し、フルセットジュースになってから繰り出されるサーブの1球、マッチポイントの1球に会場の視線は集中し、数秒後の世界がその1球で決定する。

その最後の1球には、試合の始まりからのすべての球が集積されている。

否、彼がこれまでの人生で打ち込んできたすべての球が蓄積されている。

その1球は、彼の人生の化身だ!

その最後の球が、数秒後のその会場の世界を創り出す。

その1球のエネルギーが会場に広がり、帰宅した家へと伝播し、妻、そして子どもへと伝わって行く…

 

自己と世界は複雑系である。球はそれを媒介する複雑系の担い手として、自己を世界につなぎ、世界を自己につなぐ。


弾かれた球は、自己と世界の間で共鳴し、自己は世界を変え、世界は自己を変える。

 

球技は、なぜ楽しいのか?

それは、自己と世界の実相を垣間みせてくれるから、ではないだろうか。

創造プロセス、粗大Ⅰ→微細→粗大Ⅱ

通常の意識状態(粗大)から微細に入り、再び粗大へと戻ってくる時に洞察を伴うことがしばしばある。

若きコンサル時代にも、高圧状態まで考えつくして、いったん忘れて眠る、そして翌朝目覚めると、素晴らしい仮説、経営課題の葛藤を止揚しうる戦略などを思いつく、そんな経験が幾度となくあった。

 

中川吉晴氏の本にこう書かれている。

生の深みにある微細な経験過程のなかでは、その都度なにかが生じている。その経験過程から起こってくるものを受けとめて表現することが、生の創造的な実現になる。瞬間を充分に生きるというのは、微細な経験過程に気づき、そこで生じていることを表現にまでもたらすことをふくんでいる。表現とは現実世界における形式であり、形をもたない微細な経験が表現にまでもたらされてはじめて、経験過程は私たちの世界のなかで現実化される。(『気づきのホリスティック・アプローチ』中川吉晴著p253)

仏教の般若思想においては、これは「色即是空・空即是色」の後半にあたる「空」から「色」(もの)へと出てくる世界である。空は往道(色即是空)においては、あらゆるものがそこにおいて解体される無の場所であるが、還道(空即是色)においては、あらゆるものがそこから立あらわれるマトリックス(母体)となる。色から空へといたり、そして空から色へ蘇ってくるとき、すべては「如」(タタター)となる。(同、p267)

そうか!微細から粗大への道は空即是色の還道だったのだ。

 

いいかえるなら、井筒敏彦のいう「分節Ⅰ→無本質化→分節Ⅱ」のプロセスである。

 

このプロセスでは無(空)の前の分節とそれを経た後の分節が似て非なるものであることから分節Ⅰと分節Ⅱと表記されている。

 

同様に微細に入る前の粗大(ここでは仮に粗大Ⅰと表す)と、微細の経験過程を経たあとの粗大(同様に粗大Ⅱと表す)も質的に大きくことなるものである。

 

名作『素晴らしき哉、人生!』で天使が垣間みせたトリック(微細)の前後でのジョージの変貌ぶり(粗大Ⅰ→粗大Ⅱ)がまさに典型例といえるだろう。

 

中川さんはそれ(粗大Ⅱ)を、「絵や写真などの視覚アート、詩や散文のライティング、動きによるダンスやムーブメント、声、音楽、サウンド、ドラマなど」の表現で創造の自由さを味わうべし、という。

 

創造プロセス、それは空即是色の還道である。分断された粗大のベールを剥がして、無濾過のリアリティを感得し、それを独自の方法で表現する。

 

その創造物は元の粗大とは似て非なるもの、全体性をまとった局所性である。

 

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