ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

雪景色

早朝の深い瞑想。

腸に肺ができたような腹式呼吸

太い流れ、流動としての呼気と吸気。
肩が落ち、ああ力が入っていたのだと分かる。
手のひらもボワッとなり、指先まで血潮が満ちたよう。
額ではいつもの軽い圧迫感が心地いい…

終わって寝転ぶと自然に背伸びが起こって、シャキッとした。

カーテンを開けるとそこは雪景色。

白が太陽の塔の背中へと続いてる。

在り来たりな日常の中に微細をみつける


2009年以来、その丑年の元日に書初め(※1)して以来、今日までの最大の収穫は「微細」を習得しえたことだ、と気づいた。

近年は瞑想をしていない日中でも意図すれば微細に入ることができる。

 

今年は、微細を一日3回、体験するように努めてみよう!

昨日は卓球しているさなか偶然に遭遇した。

これからはもっと意識的に微細領域に出入りしよう。それを毎日3つ思い出して日記に書く。

 

ポジティブ心理学によると、

「よいこと日記」(three good things)の習慣(一日3つ、良かったことを思い出して書く)が幸福度を上げる、

という。

ならば「微細日記」(three subtle things)に挑戦してみよう!どんな効能が顕れるだろうか。

 

高校時代は、勉学と部活を両立させるための「おーとっと」(※2)や、親密な異性との、とりとめない会話から生じたりした。

しかしそれらは、なんとか手探りでつかんだ偶然の産物でしかなかった。

 

しかし今はそれを意識的に迎えることができる。坐ってなくとも、車を運転していても、微細を味わうことができる。日々積み重ねていかねば。

そして、これこそ新年の抱負にすべきと思う。

 

一昨日は若冲の紅梅を掛けた書斎を妻と片付けた。空間のエントロピーを下げる、これも微細に入りやすい環境づくりだ。

年始から晩酌をしない習慣ができ、夜の瞑想が可能になった。このことも大きい。

一日3回、微細に入り、日記に残そう!何でもない日常の中にそれがある。

なんでもない日常か…… もう少し気の利いた言葉はないか。

 

ありきたりの日常…

 

「ありきたり」を検索すると「在り来たり」と出た。

「在り来たり」の語源をみてみると…

あり(在り・有り)」は「存在すること」、「来たる」は「し続けて現在にまで及ぶ」を意味すると。つまり「もとから存在し続けてきたこと」「今まで通りであること」とあり、転じて「ありふれていること」「珍しくないこと」になったという。

 

「在り」が「来たる」のか… しかも日常すなわち「日々常に」…

この「在り」とは、トールのいうBeingではないか。

意外にも「在り来たり」と「微細」がこんなふうにつながった!!

 

微細は常にすでに在り来たりていたのだが、心がざわついて、今までそれに気づかなかったのだ。

 

在り来たりな日常の中に微細をみつける

それは、常にすでに、在り来たりていた微細を、日々の中にみつけること。

 

これを新年の抱負にしたいと思います。

 

※1

書き初め スタンドスティル - ウィルバー哲学に思う

 

※2

調子を良くする「おーとっと」 - ウィルバー哲学に思う

ロシア兵に告ぐ、アイヒマンになることなかれ! ~本当の正義を考え、命令に背く勇気を~

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ハンナ・アーレント(哲学者、思想家 1906-1975)


ロシア軍によるウクライナ侵攻に関しては様々な報道が続いており、西側諸国はどうしたらよいか、何ができるか、と日夜議論されています。

 

・ロシアに対する経済制裁で国民全体およびプーチン支援層に圧力をかける

SNSなどで、ウクライナでいま起こっている真実を知らせる

・フランス、ドイツが中国(あるいはトルコ、イスラエル)を伴って仲裁に

ウクライナがロシアの条件を部分的あるいは全面的に受け入れる、などなど。

 

しかしながら、なかなか突破口となる切り口が見出せない現状に、何とも言葉にならない複雑な思いが数日続いていましたが、ハンナ・アーレントの『全体主義の起原』のことがふと頭をよぎり、2018年4月のブログを読み返し、『100分de名著』の当該番組の第4回をもう一度見てみました。

 

2018年4月5日に書いた

エルサレムアイヒマン」現象 (※1)

が再び起ころうとしている、(しかも軍事大国ロシアによる戦争という形で)という思いが沸き起こったからです。

 

ここでいうアイヒマンとは、収容所へのユダヤ人移送計画の責任者であるナチス将校アドルフ・アイヒマンのことです。エルサレムでのアイヒマンの裁判を目にしたアーレントは、彼が「悪の権化」かと思いきや、与えられた命令を淡々とこなす陳腐な小役人だったことを知り、驚愕したといいます。自分の行いの是非について全く考慮しない「無思想性」は、多くの人に見られる傾向であり、それは「誰もがアイヒマンになりうる」という恐ろしさを提示していると。

 

結論を先に申し上げますと、私は声を大にして言いたい。

 

ロシア兵よ、アイヒマンになることなかれ!

 

何が本当に正しいか、自分の頭で考え、命令が納得いかないなら、命令に従わない勇気を前線のロシア兵に、そしてロシア軍ヒエラルキーの構成員に持ってほしいと思います。

 

プーチンは今やヒトラーのような最悪の独裁者への道を突き進んでいます。その態度を緩和させることはとても困難であろうと報じられています。

 

プーチンの側近やロシア軍のヒエラルキーは、集団的にアイヒマン化しつつあるのではないでしょうか。

 

すなわち、最高司令官でもあるプーチンの命令に服従し、(おそらくロシアの法に触れることもなく)首都キエフを攻撃し、一般市民の集団殺戮を実行しようとしています。

 

これは本質的に「エルサレムアイヒマン」現象の考察と同じです。

 

アイヒマンヒトラーの命令に従って黙々と効率よくユダヤ人を収容所の毒ガス室に送り込みましたが、職務に忠実などこにでもいる人だったと記されています(10年以上隠れていましたがエルサレムでの裁判により死刑になりました)。

 

ですから「悪は凡庸である」、「悪は陳腐である」と番組では表現されていました。

 

「悪いのはプーチンでロシア兵ではない。ロシア兵の中には、捕虜になった兵から聞かれたようにウクライナ人を殺すつもりはなく、むしろ助けるためだと説明を受けて出動したが事実は違った」というようなニュアンスの声も聞かれています。

しかしその矛盾した説明(大義)を信じて、小児病院を爆撃するのは誰の目にも明らかな巨悪でしょう。都合の悪い事実を隠蔽し、上辺だけの薄っぺらいストーリーを信じ込ませる「二重思考」(※2)の兆候が見られます。

 

アイヒマンナチスドイツの法に則って、その病的ヒエラルキー(※3)の上からの命令に従ってユダヤ人を毒ガス室に移送して行きました。

 

独裁的ヒエラルキーの下にいて命令に従って一般市民集団殺戮の砲弾やミサイルを発射すること(あるいいはそれに加担すること)は、アイヒマンが行ったことと同類の、とてもとても悲しい悪です。

 

アイヒマンのように「本当に自分で考えるということをしない」とき、ルール(法と命令)に従っているからとして「考えることを放棄した」とき、大きな悪が行われると、前のブログで書きました。

 

命令に従わねば、抗命罪(軍人、軍属が上官の命令に反抗し、または服従しない罪)として処刑されるかもしれません。ロシア兵の自分が逃げても妻や子ども、家族がロシア警察に捕まり、処罰されるかもしれません。

 

服従しない時はこんな目にあうぞといった暴力を背景とした脅迫の構造を伴った爆撃命令です。

 

その命令はロシアの同胞であるウクライナ人を攻撃し殺せという命令です。

 

行くも地獄、帰るも地獄のジレンマです。

 

そうした人間の弱みに付け込んで、独裁的支配が組織的に行われています。西側諸国からするとありえないような屁理屈がロシアのラブロフ外相から聞かれます。全体主義の世界を象徴する二重思考がすでにプーチン政権ヒエラルキーで蔓延しつつあるのです。

ジョージ・オーウェルが小説として描いた『1984年』に出てくる「二重思考(double think)」です。リンクの2018年4月12日の拙稿をご参照ください。)

 

こうしたこと(病的なヒエラルキーがもたらす構造的な問題)はハンナ・アーレントの『全体主義の起源』をはじめ大戦終結後の歴史の分析によって、明らかにされてきたはずなのに…とても残念で悲しいです。

 

1945年から77年経った今も、人類は全く何も学んでこなかったかのような暴挙が現に行われようとしています。

 

ロシア兵よ、君たちはどう生きるのか?

 

命令に思慮なく従う前に、人としての「良心」に従おう!

理不尽な命令には、一生分の「勇気」をもってNo!と言おう。

 

ロシア兵よ、アイヒマンになることなかれ!!

 

 

※1「エルサレムアイヒマン」現象

財務省官僚にみる「エルサレムのアイヒマン」現象 - ウィルバー哲学に思う

※2「二重思考

理財局における二重思考と『君たちはどう生きるか』 - ウィルバー哲学に思う

※3「病的ヒエラルキー

病理的・支配的ヒエラルキーとしての森友問題 - ウィルバー哲学に思う

 

#ウクライナ #アイヒマン #アーレント #ヒエラルキー

オレンジの種、芽生え、開花、結実

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昨年から若い方の進路について相談を受ける機会などが続いたことが背景にあり、「そうか、彼らは専門性が確立できていないのが問題なのだ!」と思い至った。そして先日からこの着想を説明すべくあれこれ考えていた。

 

ここでいう「専門性を確立する」とはどういうことか?

相談内容の文脈から定義するなら

それで食べていけるような専門的知識やスキルを身につけられれば、それは「専門性を確立した」と言える。要は、彼らはまだ社会で戦う武器を持っていないのだ。

 

単に大学や専門学校を出て新卒として就職しただけではなく、例えば新部門に抜擢されたり、栄転・昇進する場合に、その専門性により評価され登用されることに繋がるような専門能力である。あるいは不運にもその組織で評価されず転職を決意したとしても、雇用市場ではしっかり評価され、職種や待遇面で有利なポストに就くことができる、そんな専門能力を身につけているか? 答えはおそらくNoだろう。

 

このような専門性はインテグラル理論でいうオレンジの段階と強く関連していると以前から思っていた。

オレンジ段階は「合理的/達成的」段階であり、マズロー欲求段階の第4レベル「自我/自尊心の欲求」に対応する。ピアジェの認知段階では形式操作的レベルの前期に該当し平均的には13~14歳頃に出現するとされている。(cf.『インテグラル心理学』)

 

しかしオレンジの論理的/後慣習的な価値観が内面に出現することと、それを自他ともに認める形で外に体現することは本質的に大きく異なる。出現したとしても体現できていない人は非常に多い。そこには同レベルの「意志の力」(Will Power)が必要となるからである。

 

合理的な思考ができる地点と、そうした価値観のもとにあるべき姿を、しっかり意志をもって達成できる地点とは、オレンジという道のりのステップが異なる。

 

冒頭の進路に迷う若者についても、論理的思考は身についているものの、「達成」への覚悟ができているか?あるいは達成に向けたプランをもち具体化のプログラムを実践しているか?となると疑問符が付いてしまう。

 

具体的に考えるため、自分を振り返ってみた。すると種まき→芽生え→開花→結実というまさに果物(オレンジ)の成長になぞらえた4つのステップで整理できることに気づき、面白いと感じた。(→これがブログに載せようと思った理由)

 

まず私は小学3年生の担任のI先生を第一の恩師と仰ぎ今になって大いに感謝しているが、そのI先生の型破りな授業に大きくインスパイアーされた。振り返ってみるとそれがオレンジの「種を蒔かれた」ということだと思う。

 

そしてそのオレンジの種は中学2年~3年生にかけて芽生える。特に加藤諦三氏の本(タイトルは残念ながら思い出せないが多分2冊読んだ)に感化され「こういう風に自分も生きたい」と思い入り、はじめて自覚をもって目標意識と達成意欲のもとに受験勉強に励んだ。

そして大きな達成感を得た。これがはっきりとしたオレンジの「芽生え」の時期だった。(Will Powerが大きく関与した)

 

では開花したのはいつの時期なのだろうか?

それは大学卒業後に就職した地方銀行でその仕事のあり方に疑問を感じ、本来自分のやりたかったはずのことに最も近い国家資格である中小企業診断士を目指して通信教育を受け、一次試験に合格した。25歳の時だ。上司からは「資格の勉強をすることは(仕事からの)逃げだ」とか言われ、批判されることもあったが、営業でトップの成績を出しながら通勤時間と休日の時間を学習にあてた。

人事部長の退職慰留を受けたが結果的にはコンサル会社に転職を決心した。銀行の法人営業でも役立つ専門知識のベースが身についたので残っていたとしても大きく道は開けたと思う。(私の転職後、その銀行では診断士の合格者に10万円の報奨金を出すようになった〈笑〉)

この時期がオレンジの「開花」であったと思われる。(後慣習的倫理観への移行期)

 

では結実期はいつなのか?

「結実」というからには、その専門性による収入の確保と社会的地位・役割が両立されることが要件といえよう。

コンサル会社に入ってから経理部/経営管理部に所属し上場準備業務に携わった。その間に二次試験に合格し、28歳の春に経済産業省登録され中小企業診断士と名刺に入れた。そこから財務分析に定評のある経営コンサルタントとしてクライアントの中長期経営計画策定などを中心にチームを率いコンサルの最前線で仕事をした。これが第一のオレンジ結実期といえるだろう。(もはやオレンジを超えて欲求段階ではマズローの第5「自己実現」欲求が原動力に)

 

第二の結実期は、20年前に独立して会社を設立して以来、現在も続いている。独立後10年間はコンサルタント的な事業がメインで、中小企業診断士の資格とコンサルタントとしてのキャリアが大いに役立った。そして後半の10年間はコンサルタント事業よりも、不動産投資、再生可能エネルギー発電売電事業といった投資事業がメインとなった。これは長年にわたって培った投資採算を見る能力に負うところが大きい。そしてこのブログでも何回か書いてきた小児がん支援NPOの経営にも20年間かかわっている(こちらはグリーン段階の結実でもあり、このことは別の稿で詳述する)。

専門知識とスキルそして経験を活用して「リスクを取る」(Risk Taking)ことでリターンを得る。その原資があってこそNPOも安定して運営できる。そうした形で専門性を「結実」させたのである。

 

話は戻って...したがって冒頭の彼らが「専門性を確立する」ためには、オレンジの道のりの、どのステップでとどまっているかを判別し、次のステップへといざなうことだと思う。

 

彼らのオレンジはいまだ開花していないように見えるので、一歩下がってオレンジがどのように芽生えているか?場合によっては、どんなオレンジの種が播かれているか?を探ることになるだろう。

 

そして、とどまっている地点から次の地点が、はっきりと、しかも魅力的に見えるように、Visionを描き出す(伴走者と一緒になって)ことができれば、一歩を踏みだす情熱、決意、そして勇気が湧いてくるに違いないと思う。

 

 

悲観的シニフィエを看破し続け闊歩する

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5億光年の宇宙地図〈ラニアケア超銀河団〉(NHKより)


新年あけましておめでとうございます。

 

まず、このタイトルを元日の記事に持ってきたのは、忘れてはならない貴重なコンセプトであると、昨年10月ごろから幾度となく思い返したからです。

 

私たちは得てして、過去に経験したネガティブ(と感じた)な出来事〈event〉に対して、悲観的な心象イメージを貼り付けてしまい、再びそのeventが近い未来に生じる時、過去と同様に暗いイメージを抱いてしまうことがあります。そして、月並みで無意識な対応、すなわち考えないでおこうとか、そのeventの予定自体をキャンセルしてしまおうとか、というような対応を取ったりしてしまいます。

 

しかしこのように嫌なことを、先送りしたり、周縁化したり、抑圧したりしていると、どんどん類似の事柄が増えてきて、嫌なことばかりで身動きが取れなくなってしまいます。

 

これはホモサピエンス食物連鎖の頂点に君臨するうえで私たちが手にした「記憶」と「ことば」の副作用でもあります。(cf.NHKスペシャル病の起源「うつ病」、「関係フレーム理論」※)

 

しかしミンゲール(cf.カテゴリーのヨンゲイ・ミンゲール)が言うように、これはピンでとめた昆虫採集の蝶のごとく、そのイベントに貼り付けた悲観的な心象イメージ(≒シニフィエ)にすぎません。

「裸足で歩いている僧にとって歩いているときに砂利道が現れ、その上を歩かねばならないとしたら、一般的にはネガティブな出来事ととらえられる。しかしこんな所で足つぼ健康法を実践できるとは誠にありがたいと、考えることもできる」わけです。

 

すなわち、そうした困難なeventに遭遇した時に、そのeventや状況を中立にとらえて感情を交えずdescriptionすることと、そのeventを評価することを切り分けるのです。これはACT(cf.カテゴリーのACT)でいう「脱フュージョン」です。そして脱フュージョンしたのちポジティブな解釈を貼り付け直します。

 

上の例では「砂利道を裸足でいかねばならない困難」(悲観的シニフィエ)→このことは本当に困難なことか?先入観にすぎないのでは?(本質の無化※、シニフィエ看破)→足つぼ健康法を実践する機会に恵まれた!(新たなポジティブ解釈)への転換です。

 

そしてこの悲観的シニフィエを看破することによる本質の無化→意味の再構築は、二つのことを連想させます。

一つ目は、ソシュールの言うように「意味は文脈に依存する」ということです。

barkという単語が(犬の)吠え声を意味するのか、木の皮を意味するのかは、前後の文脈によって判断するしかありません。

 

意味は文脈に依存しているのです。

 

Eventの意味も同じでしょう。同じeventでもそのことをどのような心構えで行うのか、そして過ぎ去った後、そのことをどう解釈するのかによってeventの意味は大きく変わります。

 

大谷翔平も肘の靱帯を痛めて手術したこと、その翌年にはさらに膝を痛め離脱せざるを得なかったこと。これらの不遇の意味は、単なるリハビリを超えて投球ホームや打撃スイングまでも改造することで、大きく書き換えられました。まさに文脈を再構成することによって、不運と思われるeventの意味を、世界が称賛する物語へと再構築したのです。

 

「不運に見せかけた幸運」(ジョンレノンの妻オノヨーコ)の代表例と言えるでしょう。

見せかけの不運と、無「本質」化 - ウィルバー哲学に思う

 

二つ目には、事事無碍法界とはこのようにして達成されるものかもしれないということです。

まずは悲観的シニフィエを看破する。すなわち本質を無化する。すべての事物は依他起性であり自性の無い「空」であると看破する段階を経て、すべての事象と、観念を固定することなく融通無碍にかかわれるようになること。

 

すなわちシニフィエを無化するまでもなくネガティブな心象どころか、固定したシニフィエすらも初めから貼り付けもせず、事象のありのまま(suchness)に接することができる。こうしたあり方で経験の凹凸を次々とこなしていける。それはある種の「フロー」なのではないでしょうか。フローLife ver.といえるかもしれません。

 

そこまではいきなり行き着けないかもしれませんが、「看破し続ける」ことで、還暦越えの残りの人生を「闊歩する」ことができるようになるのでは...

 

そうした志(こころざし)の意を込めて

「悲観的シニフィエを看破し続け闊歩する」

を年初のタイトルと致します。

本年もよろしくお願いいたします。m(__)m

 

※例えば「木」というコトバを目にし、耳にした時に心に浮かぶイメージや概念をシニフィエといいます。ここでは過去に経験のあるような出来事(event)に接するときの心象イメージまで拡大してシニフィエと表現しました。

(以下、※参照記事です)

ことば、そして「関係づける能力」の功罪 - ウィルバー哲学に思う

nagaalert.hatenablog.com

SDGsに紐づけて経営理念を再考する

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還暦を迎えた今年の内に経営理念を再考したいと思っていた。2001年に独立してコンサル会社を設立しちょうど20年になる。 
 
はじめの4年間は長野県や中国四国の自治体から委託を受けて新(省)エネルギービジョンを策定した。「再生可能エネルギーの地域におけるポテンシャルを調査し活用案を提案」するコンサルである。 
 
並行してNPO支援関連で経済産業省から委託事業を連続して受注した。 
その後小児がん支援NPOの名刺も持つようになり、医療学習というテーマで再び経済産業省委託事業を実施。 

また厚生労働省の外郭団体からの事業助成をはじめ、ファイザーパナソニック武田薬品などの民間企業から企画コンペで採択され「テレビ会議を利用した患児への学習支援」など数々の助成事業を実施してきた。 
 
9年前にいくつかの遊休農地を相続したことを契機として太陽光発電の固定価格買取制度による再生可能エネルギー事業を開始した。徳島県を含め現在5ヶ所に発電サイトを運営している。 
 
そしてこれら20年間のコンサルや事業は、すべてSDGsであると気づいた💡 
 
小児がん支援NPOSDGs17目標の3番目「すべての人に健康と福祉を」の中のターゲット3.4「2030年までに、非感染性疾患による若年死亡率を、予防や治療を通じて3分の1減少させ、精神保健及び福祉を促進する」に該当する。 
 
新(省)エネルギーコンサルおよび太陽光発電事業は7番目の「エネルギーをみんなに、そしてクリーンに」の中のターゲット7.2「2030年までに、世界のエネルギーミックスにおける再生可能エネルギーの割合を大幅に拡大させる」に該当する。 
 
そうか…独立してからずっとこのSDGsにそった事業をやってきていたのだ!(SDGs自体2015年よりスタートしたのではあるが)。 
 
渋沢栄一の玄孫にあたる渋沢健氏によるとSDGsを意識して事業を行うことは『論語と算盤』に通じるものがあるという。 
 
守屋淳さんも「100分de名著」で確かそんなこと言ってたな。 

事業には算盤だけではダメでその行き過ぎには論語をもってブレーキをかける。また論語だけだと理想論に終り長続きしない。持続可能のためには算盤が欠かせないと。 

 

またSDGsは2030年まで「誰一人取り残さない」ことを目標としているという。これは私たちのNPOが、はからずも2015年に掲げたインクルーシブ(inclusive)のビジョンと同じだ。 

  
36年前、24歳の時に診断士の勉強の最初に経営基本管理という科目を学んだが、それにはこうあった。「経営理念とはその事業を通じてどのように社会に貢献するのかという経営目的を表現したものである」と。
 
世界が抱えるどのような領域(117)の、どのターゲット(169項目)に照準を合わせて、その解決に資する事業を行うのか? 

 
この視点がすべての企業の経営理念に含まれているなら、なんと素晴らしいことだろう。 
SDGs地球温暖化や飢餓、貧困の克服など「人類の壮大な目標」であると言われている。すべての企業が、すべてのNPOが、すべてのフリーランスが、システマティックにほんの少しでもその一翼を担うなら、この壮大な目標の実現は決して夢ではないかもしれない。 

 
アートマン・プロジェクト」ならぬ人類の存続をかけた「サピエンス・プロジェクト」ともいうべき壮大な試みではないか。 

 

 
あなたの事業、あなたの仕事、あなたの関心を、SDGに紐づけてみてはいかがでしょうか。何か感じるところが、あるいは新たな発見が、あるかもしれません。 

 

 

円窓で実相に触れる

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昨日、高速道路のサービスエリアで偶然に遭遇した円窓。

なぜこれほど綺麗のか。

思わず足を止めて、見入った。

新緑の緑が一面に燃えるようだが、奥行きが感じられ立体感がある。

みずみずしく静かな生命の躍動がある。

しかし同じ景色も円窓を通して観ると、また違う気がする。

 

黒い円相の輪郭はAwareness「気づきの意識」である。

実はAwarenessは、背景にずっとある。

前景にあるのが景色である。

景色はAwarenessの前面で輝く。

 

輪郭がコンテンツの美を引き出すのか

そうであるなら円ではなく四角でもよいはず

しかし円ならではのものを感じる。

円という相が何かを走らせるのだ!

 

円相には映ったものの「本質」を無化する働きがあるのか

無本質化することで、シニフィエのベールがはがれ

ありのままの実相があらわになる。

 

宇宙飛行士が漆黒の宇宙に浮かぶ地球を見た時の感動は

知っているはずの地球の概念が霧散し

ありのままの星の姿が飛び込んでくるからか

 

円窓のふしぎ、円相の不思議。

 

 円相(円窓:えんそう)を常に意識する - ウィルバー哲学に思う