ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

気づくことによって、超えて含む

 

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インテグラル心理学』(ケンウィルバー著、門林奨訳)

昨日届いた『インテグラル心理学』をパラパラめくり 

 

そうそう、前回の稿で言いたかったのはこれだ!と膝をたたいた 

 

すべての治療法に共通している事柄はあるのだろうか? 

 

…答えはイエスである。それはすなわち 

 

気づくこと(Awareness)には、それ自体として、治療効果がある ということである 

 

 と書かれている。 

 

見たくないものを見ようとせず、逃げてはいけない、避けてはいけない 

 

そうしたくなっている心に気づくこと 

 

数年前、フランクルをテーマにした京都のシンポジウムで 

 

「気づくということだけでも苦悩を乗り越える助けに、少しはなるのではないでしょうか?」 

 

と問うたことがあった。 

 

その時はそれ以上、議論が深まらなかったのを残念に感じた。しかし 

 

物質から身体、心、魂、そしてスピリットへと至る大いなる移行のプロセスのなかで 

 

どの段階においても、意識の何らかの側面が切り離されたり、歪められたり、無視されたり する可能性がある。 

 

 そうした領域に気づき(Awareness)を向けることができれば 

 

そうした側面を自分自身から差異化させる(超える)こと、そして自分自身の中に 統合する(含む)ことが可能になる。 

 

 見たくない自分の側面に気づきをもって出会うこと 

 

気づくことによって、「超えて含む」のだ! 

 

 

※引用は『インテグラル心理学』p260~p263より。

 

ホルミシス(hormesis)

 

『老いなき世界』のキーワード

 

そのひとつは、ホルミシス

 

長寿遺伝子を働かせるホルミシス

 

短期的なストレスはむしろ

 

適度なストレスはむしろ

 

こころと身体を強くする



そう、それはチャレンジストレスだ!

 

テロメアを長く保つホルミシス

 

DNAの傷を癒し

 

エピゲノムの雑音を防ぐ

 

サーチュインは、いのちの要



スポーツしよう!

 

運動でもホルミシスは鍛えられるが

 

左象限上下への波及にはスポーツだ



逃げてはいけない

 

避けてはいけない

 

「原初の回避」に陥らないこと

 

見たいものだけ見るのでなく

 

見たくないものも見る、と心に決める



その時、ヘキサゴンはキューブとなる

 

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※『LIFESPAN(ライフスパン): 老いなき世界』

デビッド・A・シンクレア (著), マシュー・D・ラプラント (著), 梶山 あゆみ (翻訳)

 

※「原初の回避」(Primodial Avoidance)

「分離した自己」の原因となる。『インテグラル理論を体感する』p212~を参照。
































正しく怖れよ!有益な思考と無益な妄想

思考がお化けをつくり出していないか?

それは、あらぬ妄想だ。

 

言葉と記憶によりサピエンスは食物連鎖の頂点にたったが、

今ここに危機はないにも関わらす、心は闘争してしまう。

サピエンスの背負った苦悩である。

 

コロナから「二本の矢」を受けてはならない。

 

これは思考と妄想の「脱フュージョン」である。

 

また受けては流すLetting Goの実践であり、

 

あらぬ未来へ漂いがちなこころに気づき、

「おーとっと」と今この瞬間に戻すマインドフルネスである。

 

自分の意識に現在ただいま何が生起しているか気づく習慣を身につけよう!

それが「観察者としての自己」である。

 

そして価値を見出しているタスクに思考と行動を振り向けよう。

それは「良知」である。

 

今こそ、正しく怖れよ!

有益な思考と無益な妄想を切り分けるのだ。

 

nagaalert.hatenablog.com

 

葛藤を持ち寄る

葛藤がある。参加したい気持ちと参加するリスク

 

葛藤がある。責任をはたしたい気持ちと危険にさらしたくない気持ち

 

葛藤がある。ここはがまんと言い聞かせる

 

葛藤がある。希望と心配

 

こんなとき、どうすればよかったか?

 

答えを知っていたはず...

 

思い出した!

 

こんなときにこそ、葛藤を持ち寄るのだ

 

葛藤があることを表明する

 

他者の葛藤にも耳を傾ける

 

すると...状況は同じでも、何かが変わる

 

そこに流れる空気が変わる

 

nagaalert.hatenablog.com

私たちは勘違いしていた


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               (2021年1月1日、モーニングショーより撮影)

 

私たちは勘違いしていた。

「今」とは、過去と未来に挟まれた刹那であると。

 

であるから

今ここを軽んじ、

こころは先へ先へ、あるいは前へ

彷徨う。

 

しかし、そうではなかった。

〈今〉とは、過去を含み未来を孕んでいる「永遠」であった。

 

過去も未来も〈今〉にあることを自覚せよ。




私たちは勘違いしていた。

「私」とは、考えたり感じたりしている自分であると。

 

うまく考えがまとまらなかったり、感情に圧倒され、自己嫌悪に陥るのも、そのせいである。

 

しかし、そうではなかった。

〈私〉とは、思考を観るものであり、感情に気づいている「見者」であった。

 

苦しいとき、思い出そう。

〈私〉は思考でも、感情でも、欲求でもない。それらを目撃する者であると。




私たちは勘違いしていた。

「世界」とは、厳然とそこにあり、私はその中にいると。

 

であるから、世界はよそよそしく、疎外する。

 

そうではなかった。

この〈世界〉は、私という存在とセットなのであり、また私の意識の中で生起するものである。

 

まさに世界は恋人、世界は私なのだ。




そしていま、

複雑系として振る舞う創造的進化の原動力として〈生命〉を思う。

 

本年もどうぞよろしくお願いいたします。m(__)m

 

(2月17日追記)

私たちは勘違いしていた。

そう、いのちは一つ ♪ と思っていた。

加川良の名曲 ♪『教訓Ⅰ』のように)

 

しかし、それだけではなかった。

「生命体としての宇宙」として

Elan Vital として

Spirit in Action として

生命は、本当にひとつ、なのであった。

 

 

 







「巣籠り」で「良知」と出会う

北京で蝶がはばたいたら、ニューヨークでハリケーンが発生する。複雑系カオス理論の初期値鋭敏性の説明に使われる比喩で、バタフライ効果とも呼ばれている。

 

今回の事象は、武漢でコウモリがはばたいたら、世界中の大都市から人が消えたのである。凄まじいバタフライ効果だ。

 

などと思いを巡らせるうちに、陽明学で言う「良知」が、「何にでもなれる」という「絶対肯定」に結びつく概念であり、空即是色とも関連するのではないかという考えが浮かんだ。

 

〇〇ではなく、〇〇でもないというのが2011年11月2日のブログ『マインドとの脱同一化と絶対否定』で書いた絶対否定であり、色即是空である。

 

一方、であるからこそ何にでもなれるというのがDavid Loyのいう絶対否定転じて絶対肯定であり(2012年1月30日『絶対肯定としてのトンパ・ニ』)、本質なき実存の向かう方向性のひとつといえる。

 

困難な状況は固定した実体のように見える。いつまでも変わらないように映る。しかし、実相は依他起性であり、無常である。事象はたえず他の要因と相互作用し、状況は止まっているのではなく常に動き、変化している。

 

家にいなければならない状況。仲間と会えない状況。仕事や趣味が制限される状況。経済的な制約が生じている状況。

 

まず困難に見える状況を、毛様体を柔らかくして無本質化(実体なき幻想として看破)して観る。根拠が希薄なことに気づくかもしれないし、必ずしも悪いことばかりではないことに気づくかもしれない。それが絶対否定だ。

 

転じて次に絶対肯定に向かう。

 

見方(perspective)を変える。

 

そして、巣籠り。

 

「籠る(こもる)」という単語をひくと

・気体などが一杯に満ちる。 「タバコの煙が部屋にこもる」

・気持ちなどはっきり形に表れないものが内に含まれている。 「力のこもった作品」 「愛情のこもった手紙」 「感情のこもった表現」

・一定期間社寺に泊まりこんで勤行や祈願をする。参籠する。おこもりする。 「山寺に籠る」

・内深く入って外からは察知しにくい状態になる。 「陰(いん)にこもる」

 

 

籠るという漢字はなぜ、竹かんむりに龍と書くのだろう? 

 

竹の筒に入った何かわからないが生命力に満ちたものの象徴か。

 

「巣籠り」している間にその生命力が醗酵し、あなたは何かに変身する。能力の、あるいは知性の「相転移」が起こる。

 

「巣籠り」はそのための絶好の機会である。

 

何になるのか?

 

それを自分の「良知」に聞いてみる。

 

深く…深く…耳を澄まして。

 

ふと、何をしたらよいかが分かる。どう過ごしたらよいのかが分かる。まさに好機到来であるかもしれないことが分かる。

 

・・・

 

「巣籠り」で、そんな「良知」と出会えるかもしれない。

 

(「良知」とは何かについては触れていませんが。ネットで検索するとすばらしい解説がいくつもあります。私は小林道憲氏の『複雑系社会の倫理学~生成変化の中で行為はどうあるべきか~』の中にある「良知」のコンセプトから発想しています。)

木枯らしや生命の躍動みちしるべ

「生命の躍動」とは一昨年来、折に触れてこのブログでも取り上げてきた「生命(いのち)の躍動」です。

生命と書いて「いのち」とよんでいます。

ベルクソンがいったelan vital(エラン・ヴィタール)には「複雑系としてふるまう創造的進化の原動力」という定義を2017年7月18日のブログで記しました。

宇宙あるいは自然が自己組織化しようとする働きです。

自然の、あるいは大宇宙の「生命の躍動」です。

 

それに対しここで詠んだのは、私個人の「生命(いのち)の躍動」です。

「内なる躍動」と言い換えることもあります。

星の子である私たち個人を小宇宙と見なすなら、大宇宙のelan vitalと小宇宙の「生命の躍動」が共振するのはある意味当然といえるでしょう。

 

絵画のように情景がありありと目に浮かぶ五七五にはなっていませんが、いわば「人間探求派」のそれ(「我はいかに生きるか」という意識を深めるべきものとする俳句)です。

 

健康寿命を意識する年齢になりました。この世に生を受けて六〇回目の世界が開闢(かいびゃく)したことになります。

 

目の前を過ぎてゆく世界は、時代とともに移り変わっていきます。楽しい時もあれば、苦しい年代もあり、吹きすさぶ木枯らしに心寒かった時節も思い出されます。

 

そのような時に、どちらへ進めばよいか分からないような、道なき道を進むときに「道しるべ」となってきたのは、内なる「生命の躍動」であったことに思い至りました。

 

生命の躍動という内なる羅針盤が示す方へ、だんだん躍動が高まる方へと、歩いて来たのだと思います。

 

それは必ずしも、習俗的な価値観に受け入れられるものばかりではありませんでした。

 

むしろ非慣習的な方向を示すことも多かったようです。

 

しかしながら、幼少期からの少々危険を伴った「遊び」(昆虫取り、木登り、磯遊び、魚釣り、鉄棒、バク転・・・etc.)に、育まれた性質?涵養された性格?のせいでしょうか。

 

精神科医のスチュワート・ブラウン博士は、子ども時代の「自由な遊び」が、創造性、共感力を育み楽観的な性格を培う、そして大人になっても困難を乗り越える力を与えてくれるといいます。)

 

「(知的な、質的な)生産性はこうした躍動のあるこっちの道の方が絶対に高い」

「であればやがてうまくいく・・・はず」という、何というか身体感覚のようなものです。

 

その感覚を辿って来ました。いのちの躍動を道標に歩んできたら今の世界が開けている・・・。

 

木枯らしや生命の躍動みちしるべ

 

おー、いま気づきましたが、昨年の朝ドラ「なつぞら」の主題歌の一節にちょっと似ているかも(笑)。

 

めげずに歩いたその先に 知らなかった世界 ♪

 

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新年あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いいたしますm(__)m。