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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

貼りつけたレッテルをはがし「ありのまま」をみる

前回に引き続きACTのコアである6つのプロセスについて、過去のブログとの関連を見て(ウィルバー、ACT、ティクナットハン、エックハルト・トール、ミンゲールetc)に共通する横糸を通してみたいと思います。今回はその2つ目、脱フュージョンです。

フュージョンとはどういうことでしょうか?

一言でいうと

物事や人に貼りつけたレッテルをはがし「ありのまま」をみる

ことであると思いました。この人には自分も含まれます。

レッテルの意味を調べてみると、「ある人や物事に対する特定の評価」とあります。

日本語俗語辞書によると

レッテルとはオランダ語の“letter”で、もともとは商品に貼る商品名や内容、容量などを書いた小札のことである。この小札は商品の案内という目的と同時に商品のイメージを一方的に作るという考え方も出来る。ここからある人や物事に対する特定の評価や固定的なイメージをレッテルという。例えば、「医者だから金持ち」「過去にを不良品を出したから危険」といったものがレッテルにあたる。レッテルは小札からきているため、こうしたイメージ付け・特定の評価をすることを「レッテルを付ける」「レッテルをくだす」とは言わず、「レッテルを貼る」と言う。また人や物をおおまかに分類し、イメージ付けすることをレッテル貼りという。中高年層の「最近の若者は○○だ」といった発言や血液型によるイメージ付けがこれに当たる。

と書かれています。

前回紹介させていただいたハンドブックで脱フュージョンのまとめをこのように書きました。

ACTその2 脱フュージョン
ありのままに体験を見ること。判断せず、評価せず、先入観をもたず、固定観念を取り除いて、物事に接すること。出来事と、自分がそれに貼りつけてきた評価を切り離しましょう。あなたが避けようとしている出来事は、ほんとうは無色で中立です。勇気をもって曇りなき眼(まなこ)で見定めましょう。


どのように私たちが物事を歪めて見てしまう傾向があるのかについて、過去に書いたブログを見てみます。これは認知療法のプロセスです。あとで第3世代の認知療法といわれているACTと比べてみたいと思います。

2009年5月27日のブログ 

認知療法の自動思考 - ウィルバー哲学に思う


「自動思考」とは頭の中の勝手なおしゃべりのことです。壊れた蓄音器のように繰り返し、繰り返し流れることもあります。
「認知の歪み」とは、証拠が少ないのにあることを信じ込むこと(恣意的推論)、や気持ちが滅入ってくるとうまくいかなかったことばかり目に付くようになること(拡大視・縮小視)、一度失敗しただけで何をやってもダメだと結論づけてしまうこと(極端な一般化)、などがあります。

認知療法はこうした歪んだ認知のコンテンツに対し、そのコンテンツを合理的な観点から理屈に合わないものを修正するよう働きかけます。

「そう考える根拠はどこにあるのか」「だからどうだというんだ」「別の考えはないだろうか」という3つの質問を自分に問いかけて「代わりの考え」(合理的反応)を整理して書き出します。例えば「いつも失敗ばかりしている」という自動思考に気づいたとすると、それに反論する「失敗したことは事実だから仕方ないし取り返しのつかない問題ではない」という「代わりの考え」を書き出すのです。

また、ウィルバーは著書「万物の歴史」の中で、支点4規則/役割的(ピアジェの具体的操作段階に対応、インテグラル理論では「アンバー」のレベル)の「脚本病理」としてこれを取り上げています。(同書p274)「認知療法の先駆者アロン・べックはほとんどの抑うつのケースで、人々は一まとまりの偽りの脚本・信念を持っており、そうした神話を、まるで事実であるかのように復唱し続けていることを発見しました」と書いています。そして認知療法家が行うアプローチは「脚本分析」であり、「私はいやな人間だ、私は役立たずだ、私は何一つまともにできない」というような自己破壊的で有害な脚本に対して、セラピストはその歪んだ規則と脚本を攻撃して治療に導くとしています。

第3世代に認知行動療法とよばれるACTではこうした認知の歪みは認知的フュージョンの結果であるとし、以下の4つのフュージョンが示されています。それらはすべて認知的フュージョンによって歪みが生じているため、ありのままを見ることができないのです。

参考 2012年8月24日のブログ 

脱フュージョンで出来事と評価を切り分ける - ウィルバー哲学に思う


そして認知的フュージョンのスイッチになるもの、すなわち何が認知的フュージョンを引き起こすのかというと「評価」そして「自己の概念化」の2つであるACTではいいます。(自己の概念化は次回取り上げます)

自己の概念化も、自分に下した評価によって成り立っていますので、どうやら「評価」がキーワードとなりそうです。ここでは「ある人や物事に対する特定の評価こと」を指してレッテルといいましょう。

そしてレッテルの危険なところは、その物事は(あるいはその人は)中立であっても、あなたがレッテルを貼りつけることによって、そうした特性がはじめから備わっているように見えてしまうことです。

そしてこれが自分という人物に適用されると、すなわち自分で自分にレッテルを貼ると自分がそういう性格の(なおらない固定した性質の)人だと思い込んでしまうことです。

こうしたメカニズムを理解した上でACTはレッテルをはがしてフュージョンを解くというやり方をとります。それが脱フュージョンです。

エックハルト・トールはマインドのベールを通して知覚することが、ありのままに(as it true is)リアリティを理解することを妨げてしまうと言っています。

心の静寂と思考の不在によって特徴づけられる「意識のphenomenon」 - ウィルバー哲学に思う


クック・グロイター博士はこれを無濾過のリアリティ(unfiltered reality)と表現し、ウィルバーのいうヴィジョン・ロジック後期の段階で発露してくるといっています。

私とは誰か?自己同一性のライン - ウィルバー哲学に思う


ミンゲールも師から繰り返し教えを受けたこととして
「もし幸福になりたいのであれば、強迫観念や性向に根ざした反応を生み出す『条件づけの要因』を認識し、それをうまく扱うことだ、という教えでした。師の教えを要約しますと、物事をあるがままに、思い込みなしに見る私たちの目を曇らせる限り、どのような要因も強迫観念的なものと理解すべきだ」と述べています。
21012年7月4日のブログ 

われわれは経験のありのままを見ていない - ウィルバー哲学に思う



以下にACTによる簡単な脱フュージョンの方法を載せておきます。

フュージョンその1
「ことば」と、「それが示す物事」が、フュージョンしている(溶け合っている)状態から脱け出す。

【お茶のエクササイズ】
「お茶」を早く言う。「お茶、お茶、お茶・・・」20秒から45秒繰り返します。

多くの場合、このエクササイズを行うと、一時的にことばの意味が消失します。ことばは単なる音だと気づきます。自分にとってネガティブな思いを想起することばで試してみてください。「面接」に苦しむ就活学生なら「メンセツ、メンセツ、メンセツ・・・」スピーチが苦手な人なら「スピーチ、スピーチ、スピーチ・・・」。

フュージョンその2
「自分」と「自分の苦痛(思考や感情)」がフュージョンしている状態から抜け出す。

【ラベルを張るエクササイズ】
内的な体験(思考・感情・記憶・身体感覚)に対してラベルを貼りましょう。
・私は、~と考えている。   (思考)
・私は、~と感じている。   (感情)
・私は、~と記憶している。  (記憶)
・私は、~という身体の感覚がある。(身体感覚の特徴や場所)
・私は、~という傾向がある。(行動への衝動や行動のパターン)

例えば、「私はどうしようもなく不安だ」と感じたとき、「私はどうしようもなく不安だと感じている」と心でいいます。「私はそれを買いたい」と欲しているとき、「私にはそれを買いたいという衝動がある」と心でいうのです。
そうすると、ちょっと不安がおさまります。そうすると、ちょっと衝動もおさまります。やってみて下さい。

フュージョンその3
思考と体験がフュージョンしがちになる(思考にどっぷりつかりそのことばかりを考えてしまう)ことから抜け出す。

【エクササイズ「流れに漂う葉っぱ」】
自分の考えや思いに意識を向けて下さい。頭に浮かんだ考えや思いは、それぞれ1枚の葉っぱに乗って、流れて行きます。ことばで考えが浮かんだら、そのことばを葉っぱに乗せましょう。絵で考えたなら、葉っぱにその絵を乗せて流します。
このエクササイズでは、流れがとどこおったときが認知的フュージョン、流れがスムーズであったときが脱フュージョンの状態を表わしています。

フュージョンその4
フュージョンしている出来事と、それに対する評価を切り分ける。

【エクササイズ「記述」vs.「評価」】
記述・・・モノやできごとの一次的な特性
・これは木のテーブルです。
・私は不安を感じており、心臓がドキドキ鳴っている。
・友人が私に大声で怒鳴っている。

評価・・・二次的な特性、事象に対するあなたの反応
(あなたが消えれば、この特性も消える)
・これは良いテーブルです。
・この不安は、耐えがたい。
・友人は、私を不当に怒鳴った

ACTでは、私たちの苦悩の大半は、「評価」を「記述」と取り違えることによって生じているといいます。自分の評価的な意見(二次的な特性)が一次的な特性であると信じ、それらが固定的な実体の記述であると考えてしまうのです。

レッテルを貼りがちな私たちの傾向を踏まえると、この記述と評価の区別には十分注意しておく必要があるでしょう。
自分の貼ったレッテルを、事実そのものの記述と思い込んでいないだろうか?と自問することです。

今回は長くなりましたがいかがでしたか?この脱フュージョンも、とにかく練習、そして練習です。

貼りつけたレッテルをはがし、「ありのまま」をみる

何かネガティブなことがあったとき、これは自分が貼りつけたレッテルかもと、気づくことからはじめてみましょう!