ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

人生への贈りもの、意識の野への贈りものに感謝して生きる

昨日は、娘の結婚式だった。素晴らしかった。感無量とはこのことを言うのだろう。

そして昨夜、2年前に何度も見たあの名作「素晴らしき哉、人生」が再放送されていたのでそのエンディング(自殺しようとしたジョージが天使に「彼が存在しなかった世界」を見せられたところからからラストまで)をまた見た。

 

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2年前に感じたインスピレーションに加えて、今回は「贈りもの」ということが記憶に刻まれた。

贈りものという習慣には、人類進化の長くて深い意味が含蓄されている。

それは、「100分de名著」の今月のテーマ「野生の思考」が語る多くのなかの一つだ。

中沢新一は、(お金での)「交換」は、人と人を分離し、「贈与(贈りもの)」は人と人を結びつける、といっている。送る者と贈られる者の「絆」を強めるのが贈りものなのだ。

そして贈りものは受け取った者に返礼の気持ちを起こさせるという。これがお返しだ。

しかし誰にお返ししていいか分からないような「happyな出来事」という「贈りもの」もある。

そのとき私たちは「おかげさまで」などという。ジョンレノンは「お陰様:okagesama」という言葉を、日本語の中で一番美しいといって、もっとも愛したそうだ。

今朝しばらくの間じっと坐った後、そうか私は「人生の贈りもの」をいただいたのだ…と思った。

娘から贈られたように思えるが、参列された多くの方々、それは彼女の人生に大きく関わってきた、あるいは関わっていく人たちだが、その皆さんから贈っていただいた。

否それだけではなく、天国にいる父母、参加されていないが深く関わっていただいた多くの方々から贈っていただいた。

あるいはまた、いま生きている、こういう「時代」から贈っていただいた。

・・・

仏教3.0を哲学する」に取り組んでいて、「世界」を自分の内に感じることに挑戦している。

知覚を通じて私たちは「世界」を認識する。

「私は虫の声を聴く」とはあまり言わない。単に「虫の声が聴こえる」という。
「私は山を見る」とも「月を見る」ともいわない。単に「山が見える」という。あるいは「月が出ている」という。
「私は匂いを嗅ぐ」ではなく単に「匂いがする」といい、「私はそれに触れる」ではなく単に「なんか触ってる」などという。

日本語では主語が省略される。主体的な動作よりも、変化した状態を表現する傾向が強い、とか何とかというのをどこかで読んだ。

知覚を通じて世界は「意識の野」に現れる。

意識の野に「月が出ている」。意識の野に「雨音が聴こえる」。

阪急北千里駅から阪大吹田キャンパスへの通学路に見事な紅葉の名所がある。空間が輝くのだ。

意識の野に飛び込んでくるそうした知覚もありがたい「贈りもの」。

 

人生への「贈りもの」に感謝して生きる

意識の野への「贈りもの」に感謝して生きる

 

クリスマスの朝にいただいたインスピレーションもまた尊い「贈りもの」。

人類進化から見た本来の育児は「共同養育」

昨日(12月7日)のNHK朝ドラ「べっぴんさん」を見ていて、あーこれは「共同養育」のことを言っているなと思いました。

喜代:どうしても手のかかる子はいます。いい悪いやなくて、人の何倍も手のかかる子はいるんです。
昭一:どうしたらいいんでしょう?
喜代:何倍も手をかけたらいいんです。周りに大人がいっぱいいますやろ。誰が親やというのやなくて。手をかけて育てていけばいいんです。
(場面変わって)
すみれ:みんなで手をかけて育てていきましょう!
(こんな感じだったと思います)

少し前に「ママたちが非常事態!?」というNHKスペシャルがありました。最新の科学で子育てにまつわる問題を明らかにし、大きな反響があり続編も放送された番組です。

NHKスペシャル ママたちが非常事態!? ~最新科学で迫るニッポンの子育て~

その中で、アフリカはカメルーンで狩猟生活を営むバカ族の人々の子育てにスポットあてたシーンがあります。

彼らは集団生活を営んでおり、女性も、そして子どもを産んだ母親も採集のため森に入っていきます。

まだ幼い乳飲み子はどうするかというと、村に残る他の母親や女性に預けるのです。

こうしてみんなで子育てします。共同養育です。

チンパンジーは5年に1匹の割合でしか子どもを出産しません。その理由は生んだ母親がいつも一緒に子育てするためです。5歳になるまでそうすると言います。

しかし人間(ホモ・サピエンス・サピエンスである私たち)は、毎年子どもを産むことができ、飛躍的に人口を増やすことができました。

これは仲間で助け合って子どもを養育するシステムのおかげだということです。

現生人類は協力し合って大型動物を狩猟し、助け合って子育てをすることで食物連鎖の頂上に立てたのでした。そうした遺伝子が組み込まれています。

ですから一人で子育てをするというのは人類進化的にみて無理があるのだということです。

孤立感を感じ、不安で仕方なく、精神的にまいってしまうことが起こるのはある意味当然なのだということです。(実に7割の母親が孤立感をもっているといいます)

そういえば…私自身も年少の頃は、両親だけでなくおじやおばに手をかけてもらって育ったことを思い出しました。

こうした共同養育こそ本来の育児の姿だったのだという知識と価値観が浸透していくなら、2060年に人口が8500万人になるとも予想されている超少子化の進行に、いくらか歯止めがかかって行くかもしれません。

そんなことを思ったので書き留めました。

「経営マトリクス研究所」

姫路市においていた有限会社をこちら(大阪府茨木市)に移転登記し、ついでに商号も変えて、年初に再出発しようと先月からいろいろと考え抜いて、決めた社名が「経営マトリクス研究所」である。

「経営」はともかく、なぜ「マトリクス(orマトリックス)」なのか?

じつは私にとって「マトリクス」は第3期を迎えている。

最近、興味を持っている「仏教3.0」を真似させていただくなら、私にとってのマトリクスの現在は「マトリクス3.0」なのである。

第1期は中小企業診断士の勉強を始めた24歳の頃で、勤めていた金融機関のQCサークル活動で、営業と店頭業務のマトリクス組織を提案したことがある。今では有名な村田製作所の「マトリックス経営」を参考にしたものだった。6か月間ほど支店で実践することになり、多少の効果も出て、成果発表会では部長からお褒めの言葉もいただいたと記憶している。それが一番初めだろう。

その後、コンサル会社に移り、経営コンサルタントとして仕事をする中で、アンゾフの「商品市場マトリクス」や「PPM分析マトリクス」、「状況対応型リーダーシップのマトリクス」、「新QC7つ道具としてのマトリクス」…などなど、四象限を中心にビジネス・マトリクスを当たり前のように使用してきた。

マトリクスを活用することで戦略的思考が整理されるのである。それが第1期、いうなれば「マトリクス1.0」である。

そして第2期は、このブログのタイトルにもなっているケンウィルバーのインテグラル理論の活用としてはじまった。

下図に示した四象限(クワドラント)である。

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この統合的な視点をもたらすクワドラントは2002年頃から関わっている医療NPOの事業領域を表現するうえで大変便利なだけでなく、様々なインスピレーションを刺激してくれた。

現在のホームページのインテグラル・サポートというコンセプトにも活用され続けている。

http://www.es-bureau.org/

内部の打ち合わせで分からなくなったときは、いつもここに戻ると、私たちが何をしようとしていたのかを確認できる。「分からなくなったら四象限に戻れ!」は、ひとつの合言葉だ。

これが「マトリクス2.0」といえるだろう。

そして今、私にとってマトリクスという言葉は、第3期を迎えた。

この第3期マトリクスは、四象限とか行列で表現される思考のツールなのではなく、本来のマトリクスの語源(ラテン語Mater母+ix 子宮、母体の意)にあるような、ものを生み出す創造の源としての知性だ。

また古代インドの「母神」のサンスクリット語は「マートリカ」であるという。

赤ちゃんがいる母親の胎内という意味の「母胎」という言葉が、ぴったりくる感じがする。

ビジネス領域でいうならば、新ビジネスをインキュベートする孵卵器の働きともいえるだろう。

知性の全体を氷山に喩えていうなら、水面上に見える部分は言語化できる論理的知性である。それに対し、水面下に隠れていて見えない(無意識である)が、新しいものを生み出す母胎として働いている知性がある。中沢新一氏の表現を借りるなら「対称性の原理」で働く「流動的知性」(注)である。

「分別知」を下から支える「無分別智」ともいえる。

河合隼雄氏いわく、

マトリックスはまさに曼荼羅です。「胎蔵界曼荼羅」、英語にしたら「マトリックス」。(『仏教が好き』(朝日文庫)p263)

シンクロニシティの源でもある。

そして、このブログで何とか迫ろうとしている知性の真髄であり、それが私にとっての「マトリクス3.0」である。

「経営」とはもともと仏教用語で、人生をどう営むか?という生き方そのものを意味するという説がある。とするなら、

生きかた(経営)の元となる知性を生み出すことの探求… … …

 

「経営マトリクス研究所」を、どうぞよろしくお願いいたします<m(__)m>。


(注)「対称性の原理」…異質に見えるものの間に同質性を見出し、分離を乗り超えようとする働き。「流動的知性」…ネアンデルタール人にはなく現生人類にはじめて現れた象徴的思考。脳神経組織の異質な領域を横断的に高速で流れる。いずれも『対称性の人類学』(中沢新一著)参照

 

無我とは本質なき実存、主体としての空

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〈画像はintegrallife.comの Integral Mindfuinessより〉

藤田一照氏、永井均氏、山下良道氏鼎談『〈仏教3.0〉を哲学する』を見ております。

第1章に、「無我と本質と実存」という節があり、たいへん興味深く読ませていただきました。主に永井氏によるコメント部分で、本書全体のエッセンスをなぞるのに最適かと思われます。まずは要点を抜粋します。

無我とは何がないことか?

本質がない、ことである。

本質とは何か?

実存と対立する言葉である。

どちらもbe動詞

「~がある」が実存 

「~である」が本質 (一照さんはお坊さんである、という場合「お坊さん」が本質)

私には本質はないけど実存がある

「実存は本質に先立つ」(サルトル

何であるか(本質)は分からないけど、とにかくそれ(実存)がある

他人たちは本質(属性など)で見分けるが、どの人が自分であるかは直接的に実存しているこいつ、と識別できる。

このように識別ができるものとして「今」がある。端的に存在しているときが今。今しかない

同じように、私以外のものはない。というか他者を見て、ああいるな、何とかさんだとか思っているのはいつも私で、すべては私において起こる。それもただ実存しているだけで、特定のだれかであることがないような私において。

そういう意味で、わたしはただ実存しているだけで、今が今しかないのと同じ意味で、私も私しかなくて、それが全てなんです。


過去や未来はあるが、それらはみな今においてあるだけである。

私自身を他から識別してとらえる時、ただ端的に存在しているという事実によって、識別してとらえている。➡認識論的な考え方

本質(属性など)において自分と全く同じ人がいたとする。しかしその人が自分になるわけではない→私は本質ではない。

私が存在するとは、ある特定の本質を持った人が存在しているということではない➡存在論的な考え方

そういう内容、中身とは関係なく、なぜか端的に感じられる生き物が一つだけある。

今もおなじ。
現在というのは、こういうことが起こっているから現在であるというのではない。
今起こっていることは、内容を全く変えずに過去になる。
ただ過去になるだけで、全く同じ中身が過去になるだけ。
だから今であること自体は、起こっている内容とは関係なく端的に今であるだけ。

私であるということも、その人の中身とは関係なく、なぜかそいつが端的に私であるだけ。

私はその成立において端的に無我である。本質がなくもちろん実体もない。「何であるか」がない。

坐禅をやると本質とか内容というものが捨てられていく。そんなものは自分じゃないとずっと昔から思っていたから。それで残ったものが実存。(仏教用語の仏性)

良道氏の「私の本質は青空だ」
永井氏「私には実存だけがあって本質はない
本質とか内容とか中身じゃなくていわば空っぽ。
」といってもいい。
中身はあることはあるけど関係ない。

煩悩の浮き沈み、ああなりたいこうなりたいはみんな本質
悩みもみんなそこに入る
それを私という実存と区別して切り離す訓練(哲学的ワーク)をしているともっと楽に坐禅や瞑想に入れる

八正道の最初の二つが正見と正思であることに関係しているかも。

(最後の5行は藤田氏のコメントからの抜粋です。)

いかがでしたでしょうか?抜粋なので伝わりにくい点があると思われますが、琴線に触れる言葉がひとつでもありましたら是非本書をご一読ください。

私はこのブログでケンウィルバーの選集『存在することのシンプルな感覚』からも多くを引用してきましたが、共通した点が本当にたくさんあります。この原書のタイトルは"The Simple Feeling of Being Embracing Your True Nature"ですがこの言葉でウィルバーの言っている意味は、上の文章中で永井さんのいった「ただ端的に存在している」とか「端的に感じられる」という意味に大変近いと思われます。

ブログのカテゴリー分類として使用している、Witness(目撃者)、Self(大文字の自己)、Seer(見者)、Awareness、などは『存在することのシンプルな感覚』のキーワードですが、文脈によるニュアンスの違いこそあれ、永井さんのいう「実存」にほぼ重なっているといえます。

ですから、いわば空っぽ、「空」といってもいい、という永井さんの表現を目にして、冒頭の画像ー顔が円相(実存)で、おそらく月を背にして(いや月に向かってでしょうか?)の坐禅ーがぴったりという気がしました。

そして、この実存は私が好んで使っている表現としては「主体としての空(くう)」です。

今後も積極的にウィルバーの言葉と『仏教3.0を哲学する』の関連について取り上げて行きたいと思います。

 

 

 

 

 

これらは実は〈中〉だった!クラインの壺の神秘

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眼から外の世界に見えているもの

テーブル、椅子、棚、床、窓、カーテン、外の景色、自分の手足

などなどのこれら

両腕を後ろに回して、手の甲を重ねてみる

蝶が翅を閉じているときのように

そこから、ゆっくりと、巨大な岩の扉を開くように

周りに見えている世界を

後ろから横、横から前へと

圧縮していく

蝶が、折りたたんだ翅を

ゆっくりと広げるように

背中から、翅の後ろの隙間から

〈外〉が開く

〈外〉は、本当は無いものだが

ウォー
うぉー
WHOO ー

背中から〈外〉が開き

周りの世界、横の世界、前にある世界

もとは外だと思っていた世界

を縮めていく

腕が横まで回ったとき

(翅が広がったとき)

世界は腕の中にある

世界は手の内にある

世界は実は〈中〉にあったのだ

私たちは世界の中に存在しているのではない

世界が私の〈中〉にあるのだ

まさにクラインの壺の神秘である

 

※『〈仏教3.0〉を哲学する』を読んで心に浮かんだイメージを表現してみました。あえて言うならば、永井均氏のp189の図(上図)と次の文章に関連しています。

〈私〉というのは全く格別の存在で、それ自体は見えない。むしろ、この視野そのものが〈私〉です。そして、ある意味ではこれが全てなんですね。この視野が、視野は一つの比喩にすぎないので、実際は意識野全体に広がりますけど、この視野がすべてで、その外はない、ということになります。

誤解のないように書き添えると、永井氏は〈私〉〈いま〉という山括弧の表現をこの本のなかでされていますが、〈中〉とか〈外〉というような表現は使用されていません。私がこの記事のなかで通常の中、外と異なる意味を感じ取っていただくために、〈中〉〈外〉と表現させていただきました。

生きかた「知縁」カフェ第3回についてのお知らせ

 

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今年の9月25日に出版された3人の鼎談からなる『〈仏教3.0〉を哲学する』がとても面白いです!!

このことを受けて、第3回の生きかた「知縁」カフェの3つ目のテーマとして、以下の内容を書き添えました。


「観察者としての自己」を取り上げ、藤田一照氏、永井均氏、山下良道氏共著『〈仏教3.0〉を哲学する』の中のテーマ「瞑想の主体」、「無心のマインドフルネス」等との関連を見ていきます。


本書は〈わたし〉〈いま〉「ことばの功罪」など、ACT、マインドフルネス、ウィルバー哲学などを学ぶ上で、極めて重要な視点をテーラワーダ仏教大乗仏教、哲学的アプローチを含めて、たいへんわかりやすく検討しています。


とても有意義な書であると感じています。今後何回か取り上げて行くことなると思われますが、今回はその第一弾です。どうぞご期待ください。

これまでで関連する記事にはこちらがあります。ご参照ください。

nagaalert.hatenablog.com

 

Meditationの測定?

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高額なEEG(脳波、Electroencephalogram)測定器でなくとも何とか参考になる程度でもいいからマインドフルネス瞑想の状態を確かめたいと思い、MUSEというヘッドバンド方式の簡易測定器を購入して試行中です。

スマートホンにアプリをダウンロードして、額に接触するヘッドバンドを耳にかけブルートゥースで接続します。イヤホンでプログラムの背景音を聞きながら瞑想します。

瞑想の状態によって画像のようにActive、Neutral、Calmの3つのレベルに分類されますが、β波、α波、θ波などにどのようにリンクしているのか、またはしていないのかは分かりません。

時間は3分、5分、7分、12分、20分、30分、自由設定から選べます。

Calmの状態にまで深まれば、Birdの鳴く声が聞こえます。ActiveやNeutralでは聞こえません。最初は耳をすませば聞き取れるのかと思いましたが、そうではなく、ニューロ―フィードバックになっていて、状態が深いとたくさん鳴くようになっています。

上の画像は私がこの2か月ほど使用していて今までで一番良かった時のスコアですが、97%がCalmでした。ほぼコンスタントに80%以上、調子がいいと90%台がでます。しかしやや興奮気味で頭がしゃべっているときはCalmが50%ぐらいになる時もあります。

おそらくCalm40%から10%毎にAwardsが設定されており、90%台ならPeaceful Awardとして"Wow. More than 90% calm? This is truly a rare achievement. You should be proud."と表示されます。

私はまだ使用している国内の人を知りません。どなたか使用されている方がおられましたら、情報交換させていただければ幸いです。それは、あてにならないという情報でも結構ですので(笑)