ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

アテンションのスタイルを自在に選択する

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前回のブログでフェーミ博士の唱えるアテンションのスタイル「ディフューズ/オブジェクティブ」「ディフューズ/イマースト」とあわせて、次回に「前景と背景を等しく見る」を取り上げる、と書きましたが、それに先立ちまして、フェーミ博士の唱える「オープンフォーカス理論」(私なりに簡単にいうと、状況や目的に応じて柔軟で自在なアテンション・スタイルにフォーカスできることが望ましいという理論)を整理しておきたいと思います。

まず、上の図のようにアテンション(attention)には、4つのスタイルがあるとフェーミ博士は言います。(以下、The Open Focus Brain p46-p54より拙訳抜粋)

Narrow

ナロー(Narrow)のスタイルでは、体験の限定されたフィールドにアテンションを集中し、意識から周辺の知覚は排除される。…

どんな感覚や思考、あるいは問題でもほとんど他のすべてを除外して慢性的にナロー・フォーカスする(限定した知覚、感覚、思考、感情に集中する)ことは可能だ。例えば、ナローフォーカスで会話をしているなら、話されていることと、自分の心の会話以外の感覚の入力がブロックされるように。

結果として会話の中身に対する身体的な反応には、注意が及ばないままとなる。

この自覚の欠如は私たちからたくさんの「感情知性」を奪い、本格的に他者への関わりを求められる時に特に有害である。…

Diffuse

ナローと反対にあるアテンションのタイプはディフーズ・フォーカスだ。それはよりソフトで包含的な世界の景色を提供する。

懐中電灯の光線のようなアテンションを考えよう。キャンプ旅行で誰かが樹の中にクマの子どもの声を聞いた。光線が狭くなるまで光を調整しなさい、近づくと光の全部がクマにフォーカスするでしょう。

しかし私たちがその木に動物がいることを知らないなら、電灯の光線が照らす範囲を一本の木よりももっと広げることができる―クマを含めて森のもっと広い範囲を照らすまで―。

 ディフューズ・フォーカスは排除的あるいは単一のポイントというよりむしろパノラマ的だ。もっとも究極的な形態において、それは包含的で3次元的だ。内側と外側の刺激に対して同時に等しいアテンションを向ける。それらが生じるスペース、沈黙、非時間(timelessness)にも同じように。

特別なアテンションの対象が目立つということはなく、対象と背景の間の区別は明瞭ではない、あるいは消滅する。

森を歩いているとき、鳥の声、花の香り、風の感覚、木々の景色そして同時にこれらが生起している(その背景にある)スペースと沈黙(silence)がディフューズ・フォーカスだ。

 ナローとディフューズの両方のアテンションを包含しそのバランスを取ることが、たいていの日常生活において適当なのである。

ナロー・フォーカスは集中し、意識を強化するが、ディフューズ・フォーカスは体験と反応を広げ和らげる。

オープンフォーカスはナローとディフューズのアテンションの形態を同時に気づきの意識へと許容する包含的なスタイルである。

もしナロー・フォーカスに集中しているにもかかわらず、スペースの気づきや他の体験への感覚をシンプルに包含しているなら、私たちのアテンションはもっと等しく配られ、アテンションがストレスを拡散し分解するだろう

 それは暗くなった部屋のドアが開くようなものだ。ドアが開くときその隙間は部屋に十分な光が入ることを許容する。

その結果、暗闇にあった多くのモノがはっきりと今や見られるのだ。加えて、空気がいくらか部屋に入ってくると呼吸するのが楽になるだろう。

私たちのフォーカスを開くことはドアを開くのと同じように作用する。ほんのわずかなオープンが知覚的身体的環境を著しく変えるのだ。

 Objective

図の横軸は経験に遠いか近いかの感覚に関係する。

この連続体に沿った柔軟性は、必要に応じてフォーカスをナローにしたりディフーズにしたりできるのと同じぐらい健康や身体機能にとって重要となる。

オブジェクティブなアテンションは、観察者を意識の対象から引き離し、それを評価しコントロールする意識的な能力を高める。

アテンションの異なるスタイルは、特定の身体の姿勢や表情に関係し、支えられる。ロダンの考える人は典型的なオブジェクティブ・アテンションの姿勢であり、人々が冷淡な、あるいは審査するような表情で顔色が悪いなら、その時はこのスタイルを強めているといってよい。

オブジェクティブ・アテンションは人類に、原初の祖先が物質的な世界との間に有していた一体感から一歩下がって、自然の法則を発見するのを促した。

それは数え切れないほどさまざまに、わたしたちの生活を向上させる革新を引き起こした。そして不運にも、それはまた私たちが自然の一部であるという意識からも私たちを分離した。

環境の責任ある支配者という私たちの過ちをおそらく説明するものだ。

 

Immersed(Absorbed)

Objectiveと反対の軸は、浸りきった、あるいは没入した(immersed or absorbed)アテンションと関係し、対象との融合状態に入っていく人の特徴であり、忘我や無意識の地点に至るプロセスである。

それは通常、いつもというわけではないが、楽しみのある含みをもっている。普通の例としては、おいしいものを味わったり、セクシャルな楽しい体験があげられる。

人々の没頭したさまは通常うっとりした表情をもつ。それはこの種のアテンションの心と体への反映だ。例えば、恋人の顔、コンサートに行く人、あるいは満足げなグルメのうっとりした顔を想像してください。

創造的なアーティスト、あるいはプロフェッショナルなアスリートは苦もなく練習の成果を演じる。あるいはダンサーは、とても音楽と自分の動きに没頭しているので、自己の感覚を忘れている、それがイマースト・アテンションだ。

 そして、アテンションのスタイルはこの4つのどれかなのではなく、その組み合わせで現れるといいます。

ディフーズとイマーストの両方のアテンションは脳の右半球で組織化される。

私たちは同時にひとつ以上のアテンションを払うことができる。アテンションの異なるスタイルは分離したメカニズムであるが相互に排他的ではない。

そして、以下のようにABCDという4つのアテンションの次元が示されます。

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十分に柔軟な中枢神経系は、ナロー/オブジェクティブなアテンション、あるいはディフーズ/イマーストな状態のどちらか一方にバイアスをかけられることはない。

その神経システムはこれらのスタイルを自然に回転し、スペクトルに沿ってさまざまなアテンション・スタイルを組み合わせる。

 オープンフォーカスでは、私たちのアテンションは包含的である―景色、音、他の感覚的情報はすべて、広く興味深い方法で、(背景である)スペースとも一緒に、取り入れられる。

ひとつの感覚のシグナルが他を排除してフォーカスされることはない。もっとも重要なことは、オープンフォーカスは私たちがどのように注意しているかの自覚を促すということである。

私たちは最も適したスタイルを決定し、すばやくそれを強調する。図の区切り線によって定義された4つの象限(ABCD)は、アテンション・スタイルの異なる組み合わせと符合する。

 

ナロー/オブジェクティブ 

象限AはNarrow-objective attentionと関係する。それは私たちが最も得意とするスタイルだ。

それは高い波長の脳波(中程度より高いβ波)と連動し、主として左脳によって組織化される、エネルギッシュで速いペースの活動である。

narrow-objectiveフォーカスによって、私たちは優先的に、ある限定された経験の領域―視覚、聴覚、認知的な刺激から成る―に注意を払う。

しかし内側の身体的知覚や感情、そして他の感覚様式は排除する。このスタイルは形(figure)の対象化を強調し、背景に対する気づきにはほとんど意識を馳せない。

極端に言うと、たとえば蝋燭の炎を見るような一点へのアテンションである。

 極端なnarrow-objective attentionは、それが使われすぎや慢性的となった時、深刻な影響をもたらす。心配、パニック、悩み、そして深い全身性硬直に至る。

それはまた、滑らかで流れるようなパフォーマンスの敵でもある。

たとえば、イップス―パッティングの時の痙攣性の制御不能な筋肉の動き―として知られているものに苦しむゴルファーは集中しすぎて筋肉が緊張しているのである。

 

ディフューズ/オブジェクティブ

B象限によって表わされるdiffuse-objective attentionは、われわれが経験する広い領域を包含しながらも同時に客観性を残し、経験するものから離れている時に生じる。

このアテンションのスタイルによって、空間の、沈黙の、心の、そして時間のない、より拡散した気づきの真ん中に不動の存在として、ずらりと並んだ客体の感覚を受け取る。

このスタイルはよく学習された行為によって典型的に表わされる。反復を通して思慮深い熟達を獲得する。

オーケストラで演奏すること、車の運転、聖職の儀式、本格的あるいは芸術的な作品への専心、プレイの監督など―仕事に距離を置いた視点を維持しながら多くの刺激を包含するために、フォーカスが広げられたすべての状況である。

  象限Aと象限Bは「両方とも経験からのかい離に依拠したアテンションのタイプを表わしている」といいます。対象を距離を置いて見る、その対象を狭い視野で見るか広い視野で見るかの違いであるといえます。

それに対し「残りの二つの象限(Ⅽ、D)は、短く言うと、経験への没入程度と関係した注意の形態を表わす。没入の究極的な形には自己意識の消失がある」といい、「象限AとBが自己と他者、主体と客体の区別を強調するのに対し、象限CとDはこの区別の溶解、体験との一体化を強調する」と書かれています。

 

ディフューズ/イマースト 

象限Cのモード、diffuse-immersed attentionは、私たちの文化が求めるナロー・オブジェクティブなスタイルと正反対である。

現代の生活によってもたらされた心理学的生理学的に蓄積されたストレスから回復するのに最も効果的なアテンションのスタイルだ。

ディフューズ/イマースト(拡散ー没入)のアテンションは、「経験への一体化」と「経験の注意範囲の拡大」を同時に内包する。

これらの性質を強調する状況の自覚は、私たちの文化では普通ではなく、最も多くのこのアテンションのスタイルに関係するのは究極の創造性、愛、霊性の成就である。

ディフューズ/イマーストのスタイルが強調されるとき、時間と空間の境界が溶解し、あるいは区別が消失する

ナロー/オブジェクティブのアテンションでは分析がサポートされるが、ディフューズ/イマーストのスタイルは多様性の統合をサポートする。

意識的な気づきと様々なアテンション・スタイルの柔軟な応用は機能の最適化を促進する。 

 

ナロー/イマースト 

象限Dはnarrow-immersed attentionを表わす。低い周波数と高い周波数の組み合わせと関係し、ナロー/イマースト(狭窄ー没入)のアテンションは経験を味わうことと強化することを同時に認めさせる方法である。

仕事に没頭したり、自分を見失ったりする時その過程の時間の感覚が失われるが、これもまたナロー/イマーストのアテンションである。

魚釣りを楽しんでいる男のことを考えてほしい。彼は流れるようにフライを投げ、魚が餌に食いつくこと以外に何も見ていないほど、数時間われを忘れる。

釣りの魅力はこの没頭のアテンションのスタイルからくる生理学的な解放なのだ。

 ナロー/イマーストのアテンションには、知的な関心、あるいは感情的、身体的な悦び、刺激的な活動―経験を味わい、それを強化するために私たちが物理的に近づきたいと欲する経験が含まれる。(通常の娯楽はここ)

アスレティックのアトラクションや文化的イベントは、自己意識の最小化を伴う没頭あるいは没入の機会だ。

そんな深い没頭から乱される時に人々が感じるイライラの、それは説明なのだ。

 

そして以下のようにまとめられています。

この4つの象限に述べたアテンション・スタイルの複合に加えて、私たちはアテンションのそれぞれの軸の反対方向の極を統合することを学ぶことができる。…

ナローとディフーズを統合することの重要性は前に討議した。

オブジェクティブとイマーストのスタイルを同時に維持することは私たちの人生を変えるほどの大きなストレスの解放である。

世界とひとつになるような満たされた生命感を感じるだけでなく、はじめて創造的、超越的な領域の経験、人生の多次元的な体験をする自分を見出すだろう。…

直ちにオープンフォーカスで見なさい。私たちはナロー/オブジェクティブ、あるいはナロー/イマースト・フォーカスで生活することがあまりに習慣化されすぎているため、それをすぐにブレイクすることはできない。

オープンフォーカスは周辺に気づきの意識を向けるだけではなく、すべての対象と空間に等しく同時の気づき―微細だが決定的で間違えようのない違い―を与える。

それは学ぶのに時間と実践が必要なスキルだ。しかしながら、この本の中にあるいくつかの特別なエクササイズによって、誰でも注意を向ける方法を変えることを学べる。

そうして極端なアテンションの偏りや努力、緊張、ストレスの蓄積との関係を減らすことを選択するのだ。

 「オープンフォーカス」イコール「ディフューズ」なアテンションではありませんが、私たちがナローなアテンションで生活するのに慣れ過ぎているため(特にナロー/オブジェクティブにロックされているという表現が本書の終盤で見られます)、訓練して意識的にディフューズなアテンションを取ることが大切であり、そのような柔軟なフォーカスを取れることがオープンフォーカスなのです。

『実践!マインドフルネス』で熊野宏昭さんが書かれた「注意の分割=場としての自己」とは、ディフューズなアテンションのことであり、「世界と自分が一体になり全部を感じ取る」とは象限Cのディフューズ/イマーストのスタイルで起こることであると思うのですが、いかがでしょうか?

状況とシンクロする、全体に整合する

マイケル・キャロルの『THE MINDFUL LEADER』を読んでいて、特に注目したのはPART3に出てくる「環境とシンクロする」あるいは「状況とシンクロする」という言葉です。

言うまでもなくユングの唱えたシンクロニシティの意味合いをも含んだ言葉であると考えられますが、本文中では次のように書かれています。

P195
私達は完全に今という次元にいることができる。それはすぐにでも世の中に応じられる状態である。このような状態は、私達が周囲と「シンクロ」する時に生まれる。

P200
私達が全体の中で自身の体験とシンクロする時、私たちの振る舞いはシステムに対する反応であると同時にシステムそのものの表現(つまり、システムの中で当然の振る舞い)となる。環境に完全にシンクロすることで、状況に合った判断力を発揮する。

p202
鍛冶屋はその場の全体の状況とシンクロしていたからこそ、その場に即した対応ができたのだ。・・・私たちは環境とシンクロしていると、物事のタイミングがわかるようになる。

P231
環境と完全にシンクロしているがゆえに、目の前で起こっている現実と関係性を失うことはない。まるで踊っているかのように、環境と完全に調和して動くのだ。

P241
私達が状況とシンクロしてワンタン(wangthang チベット語。「力の場」と呼ばれるものを顕現させるといわれている)になるとき、私達は自身の感覚が、知的な世界との果てしない会話であることを知る。コップや木の枝はもはや平べったい二次元の存在ではなく、鋭い個性と深みを放つ。・・・味覚、視覚、聴覚―すべての感覚器官が隠れていた雲の中から姿を現し、明瞭さを増し、「在る」ことの輝きと広大さに激しく敏感になる。

 

私がこのブログで書いてきた「状況」と「状態」に対する従来からのスタンスは、「状況はコントロールできないが、状態は整えることができる」というものです。しかし「状態」を整えることでコントロールできない「状況」を、どうにかしたいという願望もそこには潜んでいることも自覚しています。

ですから、この「状況とシンクロする」という関わり方はとても魅力的に感じられました。

そして

この「状況とシンクロ」するとは、エックハルト・トールいうところalign with…だ!と思ったのです。

2011年12月19日のブログで次のように書いています。

nagaalert.hatenablog.com

エックハルト・トールの『ニューアース』で、「好雪片々として別所に落ちず」という禅語が引用され、「全体性と整合する」ことの重要性が説かれていますが、そのあたりを意識したブログでした。

「環境」「状況」という単語を、「全体」「全体性」という言葉に置き換えてみても意味が通じます。

中に立っているのか、全体を俯瞰しているのかという視点の違いです。「環境・状況」というのは中に立っている視点からの表現であり、「全体・全体性」とは観客席から(小さな)自分も含めた舞台を俯瞰している視点からの表現となっているだけのちがいです。

全体・全体性とはバタフライ効果を組み込んだ縁起としての系であり、それをp200では「システム」という単語を使用していますが、それは意味的にはこうした全体の系のことです。ですから、「反応であると同時に、システム(系)そのものの表現」と書かれているのでしょう。

 

状況にシンクロする、全体に整合する

 

いいですね。本当にこのようにありたいものです。

ではこのようなかかわり方、すなわち「状況にシンクロする」あるいは「全体に整合する」関わり方を実現するためには、具体的にどうすればいいのでしょう?あるいは、どうあればいいのでしょう?

このブログでは、What to doよりも、むしろHow to beということを言ってきましたが、
具体的に、注意(attention)の用い方として、フェーミ博士の理論と組み合わせてみていきたいと思います。

それは前回の「注意を分割する方法」、今回の「状況とシンクロする方法」、の両方の答えになるのではないかと考えています。

それは、結論を先に言うなら「前景と背景を等しく見る」です。

フェーミ博士の唱えるアテンションのスタイル「ディフューズ/オブジェクティブ」「ディフューズ/イマースト」とあわせて、次回このことを書いてみたいと思います。

 

無所住心で囚われを捨てる

NHKスペシャルの「キラーストレス」とEテレの「マインドフルネス」が放送された直後に出版された熊野宏昭さんの「実践マインドフルネス」に、脱フュージョンの次のステップとして、「場としての自己=注意を無数に分散する」という実践が紹介されています。

自分が極限まで小さくなると自他の分離がなくなり、距離ゼロの俯瞰が実現する。
そのための方法が注意の分割。

と書かれており

注意の分割によって、注意資源が消費され、思考から離れた現実が知覚される。(ヘイズ&スミス)

ということばが引用されています。

青空というある意味位置をもった視点から見ていた段階から、非―位置の視点へとシフトし、見ている対象(客体)と見ている主体が合一する段階であるといえるでしょう。

そうか、フェーミ博士のいう、「ディフューズ/オブジェクティブ」から「ディフューズ/イマースト」へのシフトなのだ!とひらめきました。これについては次回書きます。

そして、さらに森田療法に同じような「注意の分割」を見つけました。

それは、禅でいう「無所住心(むしょじゅうしん)」です。

森田正馬著『神経質の本態と療法』P98から引用します。

私たちの健康な注意作用について考えると、禅に「まさに無所住にして、その心を生ずべし」という言葉がある。無所住心とは、私たちの注意がある一点に固着、集注することなく、しかも全精神が常に活動して、注意の緊張があまねくゆきわたっている状態であろう。この状態にあって私たちははじめて事に触れ、物に接して、臨機応変、すぐに最も適切な行動で、これに対応することができる。たとえば電車に乗って、つり革を持たず、読書しながら、電車の動揺に倒れず、乗換駅を忘れず、スリにかからず、その時々の変化に応ずることのできるのは、この無所住心であるときにはじめてできることである。この際、もしその一条件だけに注意を固着していたとすれば、そこに必ず何かの失策を起こすようになるのである。なお電車の乗るとき、この無所住心の状態は、どうしてできるかといえば、身体の全重量を一方の足にて支え、他方の足は浮き足にして、ツマ先立ちにし、体操の時の「休め」の姿勢をとり、そのまま平気で何の心構えもなく、いわゆる「捨身」の状態でいさえすればよい。この身体の姿勢と心の態度とは、心身の不安定の状況にあるものである。したがってそのために、精神は全般に緊張して外界の変化に応じ、注意が自由自在に活動することができる状態である。
およそ神経質の症状は、注意がその方向にのみ執着することによって起こるものであるから、その療法は、患者の精神の自然発動をうながし、その活動を広く外界に向かわせ、限局性の注意失調を去って、けっきょくこれを無所住心の境地に導くことにあるのである。これが私の神経質に対する特殊療法の発足点である。(引用ここまで)

注意が一点に固着しがちな(すなわち囚われている)のが、神経質(最近は使わない言葉になっていますが)の症状をもたらす。逆に健全な注意の用い方とは、注意があまねくゆきわたっている状態であるといいます。

電車に乗るときの例えは分かりやすいですね。

身体の全重量を一方の足にて支え、他方の足は浮き足にして、ツマ先立ちにし、体操の時の「休め」の姿勢をとり、そのまま平気で何の心構えもなく、いわゆる「捨身」の状態でいさえすればよい、と書かれています。

そうすれば、つり革を持たずとも揺れて倒れず、読書し、駅を忘れず、スリにかからず、そういう状態であるなら、臨機応変、適切に対応できるといいます。

これは極めれば、まさに柳生新陰流でいう無形の位(むぎょうのくらい)ですね。

「悪い無限」を空なる心の自由へと反転する、それは「無形の位」 - ウィルバー哲学に思う

私たち日本人はテレビの時代劇でよく殺陣(たて)のシーンを見てきました。

斬り合いに入る前、大勢の敵がいてどこから出てくるかわからない。そんな敵の気配をよもうと、心に静けさを抱き、耳を澄まし風の流れを感じ取る、あの感覚。それが無所住心なのではないでしょうか。

 

無所住心で囚われを捨てる

 

やはり日本の「道」には、たいせつな境地への道が含まれているのだと改めて思いました。

第4回生きかた「知縁」カフェ

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脳科学の視点を取り入れ、ウィルバー哲学、マインドフルネス、ACT、アドラー心理学などを横断的に学ぶ勉強会です。ソーシャルビジネスへの展開も視野に入れ、交流します。

【生きかた「知縁」カフェ第4回 内容】

①今回のテーマ:最近のブログから「人類進化と共同養育」および「脳科学からみた対称性」を取り上げます。 
②藤田一照氏、山下良道氏、永井均氏共著『〈仏教3.0〉を哲学する』を前回に続いて見ていきます。今回は第2章の「自己ぎりの自己と〈私〉」の第1図~第6図を取り上げ、内山興正老師の「自己の構造」の意味を考えます。この本の中心部分です。ここが分かれば「正見」に大きく近づくことができるのではないでしょうか。
③経営とマインドフルネス(新企画です)「経営マトリクス研究所」についても説明させていただきます。

①②③それぞれのコーナーごとに質疑応答、意見交換します。ソーシャルビジネスのシーズを探索します。

開催日時 12月17日(土)13:30~16:30

定員 8名  参加費 3,000円/回(税込み) コーヒー付き
会場は前回と同じモノレール阪大病院前の長澤経営事務所(兼エスビューロー事務所)です。

【生きかた「知縁」カフェとは】
昨今、「生きかた」に迷い悩む人々が増えているといいます。本カフェは、毎月1回、第3土曜日に開催します。学びの場であるとともに、知の交流の場、そして社会の課題を解決するNPOやソーシャルビジネス(SB)が孵化する場です。先人の知恵と最新科学の動向を踏まえ、どう生きるか、何ができるかのヒントを見つけましょう。

講師・ファシリテーター 中小企業診断士 長澤正敏(ながさわまさとし)
心理哲学系ブログ『ウィルバー哲学に思う』http://nagaalert.hatenablog.com/

【申込み、参加費】
参加費3,000円(税込)/回は、お振込み、または当日現金
(領収書の必要な方は事前にその旨ご連絡ください)

 

 

国立がんセンターでACT外来が!(生きかた「知縁」カフェ第1回のPR)

国立がんセンターに「ACT外来」ができています。これは正直驚きました。しかも保険診療です。www.ncc.go.jp

内容を以下に転載させていただきます。

ACT外来では、ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)を通して、(1)がん体験に伴って生じる悩みと付き合っていく方法(マインドフルネス・スキル)を習得し、(2)自分にとって本当に大切なことに基づいて行動できるようになることを目指すものです。

がん体験はとても衝撃の大きなもので、治療後にも「再発したらどうしよう」、「もう元の生活に戻ることはできないのではないか」といった悩みを抱えている方が多くいらっしゃいます。このような悩みは、誰にでも起こりえる自然なことですが、無理に消そうとしたり、抑えつけたりすると、「底なし沼」のように増悪することが知られています。ACT外来では、悩みの「底なし沼」にはまらないようにする方法を習得し、あなたの人生をあなたらしく生きていくためのお手伝いをさせていただきます。

上記のようなことを目的に、1回50分のカウンセリングを週に1回ぐらいの頻度で行い、合計おおよそ12回受けていただくことになります。

 対象となるのは

がん治療は終了しているが、がんに関する悩み(再発に対する不安など)を感じている方 

 以下のような方は気軽にご利用くださいとあります。

・治療後の再発のことが気になって仕方ない

• 以前のような生活に戻れないのではないかと考えてしまう

•退院してからも常に緊張感がある

•これからの人生をネガティブに考えやすい

 ご担当医は精神腫瘍科の清水研先生、臨床心理士の猪口浩伸さんです。

ACT外来はがんを体験された方を対象とした新たなカウンセリング法として、実践を開始したところです。

となっています。

来週の9月17日(土)に開催します第1回生きかた「知縁」カフェの内容は以下の通りです。ご期待ください。

NHKで放送された「病の起源」をヒントに、アドラーのいう共同体感覚と、マインドフルネスの進化系で第三世代の認知行動療法と呼ばれているACTを解説し、脳科学の視点から関連するビジネスまで展望して意見交換します。

マインドフルネス・ムーブメントが日本に?

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2016年8月5日発行の精神療法~特集マインドフルネスを考える、実践する~が本日届きました。

寄稿されている先生方のうち、名前を存じている方も多く、書籍を読んだり、勉強会で取り上げたり、直接学んだりした内容もあってたいへん興味深いです。

まず、「特集にあたって」は森田療法研究所の北西憲二さん。

これによると、昨年11月8日に東京大学で行われた公開講座「日本文化と心理療法―禅やマインドフルネスとの関連に注目して」に多くの反響があったのだといいます。

そして「マインドフルネスとあるがまま」という題でも、森田療法とマインドフルネスの関係などについて書かれています。

私どもも昨年度の終盤に森田療法の勉強会を行いました。小児がんの喪失家族の方を対象としたのですが、そのテキストには北西先生の「森田療法のすべてがわかる本」を使いました。何とかしようと、もがけばもがくほど身動きができなくなる様を「繋驢桔」(けろけつ:桔(杭)につながれたロバのこと)と表現するそうで、ロバが縄で動けなくなった姿がイラストで分かりやすく書かれていたのを思い出します。
(ACTでは、流砂にはまり込んだ時にもがいてはいけない。もがくのではなく大の字になるのが良い、という話が出てきますがそれに通じるものがあります)

「不即不離」という対人関係のフローを実現する - ウィルバー哲学に思う

マインドフルネスと無心」という題で書いているのは曹洞宗国際センターの藤田一照さんです。

欧米ではmindfulness movement(マインドフルネス運動)と呼ばれるほど大きな盛り上がりを見せていること、日本にもそのうねりがようやく届いて2010年に日本マインドフルネス協会、2013年に日本マインドフルネス学会が設立されたといいます。

藤田さんはこのブログでも「青空としてのわたし」で取り上げたことのある山下良道さんと共著で「アップデートする仏教」という本を出されていて、興味深く拝読したことがあります。

青空としてのわたし - ウィルバー哲学に思う

マインドフルネスが心理療法にもたらすもの―内観療法との関係から」の稿を書かれたのは東京大学大学院臨床心理学コースの高橋美保さんです。
高橋美保さんは東大に公開講座の企画をされた方とのこと。内観療法とマインドフルネスの相違や共通点を体験にもとづいてまとめられています。
じつは私も内観療法を15年ほど前に受けた経験があります。いつも小児がん脳腫瘍全国大会でお世話になっている三木善彦先生が奈良で内観研修所をされていて、暑い夏にエアコンのない部屋で7日間泊まり込んで内観をさせていただきました。今となっては懐かしい思い出です。

マインドフルネス・ストレス低減法について書かれたのは高野山大学の井上ウィマラさんです。翻訳書「呼吸による癒し―実践ヴィパッサナー瞑想」は9年前ぐらいに読ませていただき、「気づく」とはこういうことをいうのかと、深めることができました。

呼吸を日常生活の気づきに利用する - ウィルバー哲学に思う

ACTについては、原井宏明さんが「マインドフルにみたアクセプタンス&コミットメント・セラピー」という題で述べておられますが、内容は難しそうです。

貝谷久宣さんの連載記事もあります。著書「マインドフルネス・瞑想・坐禅の脳科学と精神療法」は、神谷美恵子さんを知るきっかけになった本です。

変革体験によってもたらされるPTG - ウィルバー哲学に思う

ざっとこんな感じですが、これから読み進めて、またこのブログで紹介させていただきます。生きかた「知縁」カフェの参考書としても使っていきたいと思います。

過去との共同体感覚

6月26日に「未来との共同体感覚」について書きましたが、今回は「過去との共同体感覚」について下記のブログにアップしました。

エスビューロー事務局長のブログ: 過去との共同体感覚

同じ内容をそのままこちらのブログにも以下に掲載します。

過去との共同体感覚

 当団体は阪大病院で小児がんのため子どもを亡くした母親らが中心となって、当時の主治医らが協力する形で2000年に発足したNPO法人です。

今日は少し特別な日なので、アドラーのいう共同体感覚のうち、「過去との共同体感覚」について書いてみようと思います。

共同体感覚とは、ありのままの自分を受け入れることができ(自己受容)、ここにいてもいいと感じられ(所属感)、他者は仲間であると信頼でき(他者信頼)、自分は他の人の役に立っているという実感がもてる(貢献感)、そんな対人関係の感覚であるといえます。


ですから通常は、学級や職場あるいは近隣の地域など現在自分が所属しているコミュニティに対してもつ感覚なのですが、アドラーは未来との共同体感覚、過去との共同体感覚、さらには生きとし生けるものを超え、宇宙まで含めた共同体感覚にまで言及しています。


「未来との共同体感覚」とは、

未来との共同体感覚 - ウィルバー哲学に思う

に書かせていただいたように、NHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」で、祖母役の大地真央さんが話した言葉がまさにそうです。


木材ってのは、いま植えたもんじゃない
40年、50年前に植えたものが育って商品になる
だから植えたときは自分の利益にならないのさ
それでも40年後に生きる人のことを思って植えるんだ
次に生きていく人のことを考えて暮らしておくれ


「次に生きていく人のことに思いを馳せられる」、これがまさに「未来との共同体感覚」でしょう。

では「過去との共同体感覚」をどのように考えればいいのでしょうか?


冒頭に触れたように当団体の原点には、阪大病院での小児がんの闘病生活がありました。二人の子どもの短かったけれども深い生があったこと。その生があったからこそ当団体が発足し、16年を経て現在に至っているのです。これまでも、そして今も、その生は当団体に、当団体の活動に、当団体の理念に、当団体のビジョンに息づいています。


その生がなければ、私たちの世界、特に当団体に関わるメンバーの見る世界はまったく違った世界になっていたでしょう。


当団体は存在していなかったでしょうし、小児がん脳腫瘍全国大会も開催されていないでしょう。そこで発信してきた数々の知見についても皆さんへの伝わり方は大きく違っていたことでしょう。


人と人との関係も変わっていたでしょう。私自身もこの活動に関わっていなかったでしょう。人生は大きく変わっていたに違いありません。


彼らの短くて小さな生は、どんなに大きい影響を与えてきたのか。いや今も与え続けているのか。そのことに思いを馳せるとき、驚くほどの縁起(仏教でいうところの)を感じざるを得ません。


縁起とは英語でdependent co-arizing という、と昔読んだ何かの本に書かれていました。「相互依存的連携生起」と訳されるそうですが、亡くなって尚、相互に関係しあい、そこに息づき、新たなものを創造し続けているのです。不思議ですね。


亡き親に対してそれを感じる人もいるでしょう。恩師にそうした感覚を感じるかもしれません。お盆には先祖にそうした思いを感じた方もおられるでしょう。


そしてその実感こそが、「過去との共同体感覚」なのではないでしょうか?


今日という特別な日に思いを寄せてこれを書き記しました。